第21話 ただいま、と言えない場所
第3章スタートです!!
馬車の窓から、麦畑が見えた。
春の麦は丈が低い。風が吹くたびに穂先が一斉に同じ方向へなびいて、それを見たユリウスが窓枠に手をかけて身を乗り出した。
「おかあさま、はたけ。きいろい」
「麦だよ。もう少し経つともっと大きくなるの」
「おおきくなる? ユリウスも?」
「ユリウスも」
満足そうに頷いて、次の窓の外を指差す。
「うし。おおきい。パパよりおおきい」
向かいの座席で書類を読んでいたディートリヒが、ちらりと窓の外を見た。
「……負けたな」
声に抑揚はない。けれど牛と背比べをされて「負けた」と返す公爵がいるだろうか。
ユリウスが笑った。ディートリヒは書類に目を戻した。
リンデンバートを出て二日半。ユリウスは馬車の窓から飽きることなく外を指差し続けた。「はたけ」「うし」「かわ」「はし」「とり」「くも」「おしろ?」——最後の「おしろ」は街道沿いの砦を見間違えたものだが、声に出す言葉の数が明らかに増えている。
リンデンバートに来たばかりの頃、この子は二語文がやっとだった。「まま、いく?」「おなか、すいた」。今は三語も四語も繋がる。「パパよりおおきい」は四語だ。
ノートを膝の上で開いて、今日のユリウスの発語を余白に書き留めた。体温三十六度四分。食欲良好。馬車酔いなし。
その下に——
「おかあさま、なにかいてるの」
「ユリウスのこと」
「ユリウスのこと、かくの?」
「毎日書いてるよ」
「まいにち?」
「うん。ユリウスのお熱と、食べたものと、お話した言葉」
ユリウスが目を丸くした。それから、胸を張った。
「じゃあ、いっぱいかいて。きょうはいっぱいしゃべったから」
知っている。全部聞いている。全部書いている。
◇
王都ヴェストブルクの門が近づいてきたとき、空を見上げた。
灰色だった。
煙突の煙と馬車の砂埃が混じった、重たい色。リンデンバートの澄んだ山の空とは違う。
(半年前も、この空だった)
十月の末。深夜二時。裏口の掛け金を外して、毛布にくるんだユリウスを抱いて、馬車に乗った。あの夜の空は星が見えた。今日は見えない。四月の午後、雲が厚い。
門をくぐった。
石畳の音が変わった。馬車の車輪が滑らかに回る。整備された王都の道だ。リンデンバートの砂利道とは違う。
ユリウスが窓から首を出した。
「おそら、グレー」
「灰色だね」
「リンデンバートのおそらのほうが、すき」
──私も。
口には出さなかった。
◇
公爵邸の門が開いた。
馬車が敷地に入る。砂利を踏む音。植え込みの緑。白い壁の三階建て。窓の数が多い。どの窓にも磨かれた硝子がはまっている。
(大きい)
分かっていた。半年住んでいたのだから。けれどリンデンバートの離れに慣れた目には、この建物が必要以上に大きく見えた。離れの三つの寝台と竈と机が収まるあの空間が、ここの廊下一本分にも満たないことを、今さらのように思い知る。
馬車が止まった。
ディートリヒが先に降りた。手を差し出された。
……手を。
一瞬、固まった。ディートリヒが無表情のまま、右手を私の方に向けている。馬車から降りる女性に手を貸す——それだけの動作だ。公爵が夫人にする、儀礼的な仕草。
(儀礼的な、のに)
指先に触れた手は、思ったより温かかった。リンデンバートで薪を割っていた手だ。釘をまっすぐ打った手だ。パンを焦がした手だ。
降りた。手が離れた。
ユリウスは自分で飛び降りた。着地に失敗してよろけたが、転ばなかった。
「おおきいおうち」
ユリウスが公爵邸を見上げている。この子にとっては初めてではない。四歳まで暮らした家だ。けれど表情は、初めて来た場所を見る顔をしていた。覚えていないのかもしれない。覚えていなくていい。
玄関の扉が開いた。
使用人が並んでいた。
◇
廊下を歩いた。
あの廊下だ。
白い壁。石の床。天井の高さ。窓から入る光の角度。何も変わっていない。
半年前。この廊下で、マルガレーテに言われた。「あなたがそばにいるから泣くのです」。使用人たちが聞いていた。誰も目を合わせなかった。私は黙って頭を下げた。
今、同じ廊下を歩いている。
ユリウスの手を握っている。ディートリヒが半歩前を歩いている。使用人たちが壁際に並んで頭を下げている。
視線を感じた。頭は下げているが、目だけがこちらを見ている。
(……噂されている)
当たり前だ。半年前に義息子を連れて夜逃げした公爵夫人が、帰ってきた。聴聞会で侯爵夫人の申請を退け、会計監査のきっかけを作った女。使用人たちの間で何が囁かれているか、想像はつく。
足を止めなかった。
背筋を伸ばした。半年前はできなかった。あの夜、この廊下を逃げるように歩いた。足音を立てないように。誰にも気づかれないように。
今は足音を立てている。ユリウスと手を繋いで、革の靴底が石の床を叩いている。
書斎の前を通り過ぎた。
扉が少し開いていて、中が見えた。窓際のディートリヒの机。隅の小さな文机。
文机の上には、何もなかった。
自主退去書面の原本を置いた場所だ。今は空だ。あの書面は——監査院が証拠として回収したのだろうか。それとも。
(確認は、後でいい)
今は、先に行く。
◇
ユリウスの部屋は、二階の奥にあった。
半年前は一階の北側だった。日当たりが悪く、午後になっても薄暗い部屋。窓が小さくて、冬は冷えた。
「こちらです、奥方様」
案内の使用人が扉を開けた。
日差しが目に入った。
南向きだった。
窓が大きい。四月の午後の、灰色がかった光でも、部屋の中まで明るく照らしている。寝台は二つ。ユリウスの小さな寝台と、もう一つ。壁際に簡易寝台が畳まれて置いてある。
三つ目。リンデンバートと同じだ。
「旦那様のご指示です。先週、書面でお申し付けがありまして」
使用人がそう言った。先週。リンデンバートを発つ前に、ディートリヒが手紙を出していたのだ。
部屋の変更と、三つ目の寝台。
何も言っていなかった。私にも、ユリウスにも。黙って手紙を書いて、黙って手配した。
(この人は、いつもそうだ)
パンを焼くことも、屋根を直すことも、部屋を変えることも、言わない。やる。黙ってやって、聞かれたら「ああ」と答える。
ユリウスが部屋に駆け込んだ。窓に張りついた。
「おかあさま、おそらみえる!」
灰色の空だ。リンデンバートの青い空ではない。でもユリウスの声は弾んでいた。窓が大きいから、空が広く見える。それだけで、この子は嬉しいのだ。
ディートリヒは戸口に立っていた。部屋の中を見回して——ユリウスが窓に張りついているのを確認して、壁に背を預けた。
「ディートリヒ様」
「なんだ」
「お部屋を変えてくださったんですね」
「前の部屋は暗い」
それだけだった。理由はそれだけ。暗いから変えた。
(暗いから、変えた。半年前は暗い部屋のまま放置していた人が。北部領に出て、帰ってきて、子どもの部屋の日当たりを気にするようになった人が)
「ありがとうございます」
ディートリヒは答えなかった。壁から背を離して、廊下に出ていった。
その背中を見送りながら、胸の奥が温かくなった。温泉の湯に手を浸したときと同じ温度だった。じわりと広がって、指先まで届く。
記録には書けない温かさだ。
◇
夜になった。
ユリウスを湯浴みさせて、着替えさせて、寝台に寝かせた。公爵邸の湯殿は広くて、ユリウスが「おゆ、ひろい。リンデンバートのほうがちいさい」と比較していた。どちらが好きかは聞かなくても分かる。
三つの寝台が並んでいる。大きいのと、小さいのと、中くらいの。
リンデンバートの離れと同じ配置だ。
ユリウスが毛布にくるまって、私を見上げた。それからディートリヒを見た。ディートリヒは簡易寝台に腰をかけて、靴を脱いでいた。
「いっしょ?」
ユリウスが聞いた。いつもの確認。
「いっしょだよ」
「パパも?」
ディートリヒが靴を床に並べた。几帳面に。いつもと同じ位置に。
「ああ」
ユリウスが笑った。確認して、安心して、笑う。いつもの順番だ。
「おやすみ、おかあさま」
「おやすみ、ユリウス」
「おやすみ、パパ」
「ああ」
ユリウスの目が閉じた。秒で寝息が聞こえ始めた。この子の寝つきの良さだけは、どこに行っても変わらない。
部屋が静かになった。
公爵邸の夜は、リンデンバートより静かだ。湯気の音がない。硫黄の匂いがない。代わりに、遠くで衛兵の靴音がかすかに聞こえる。
ノートを開いた。
体温三十六度四分。食欲良好。王都到着。新しい部屋、南向き。馬車酔いなし。入浴後の機嫌良好。発語記録——「はたけ」「うし」「かわ」「はし」「とり」「くも」「おしろ」「グレー」「おおきいおうち」「おゆ、ひろい」。
特記事項——
ペンが止まった。
書きたいことがある。この廊下を歩いたこと。足音を立てて歩いたこと。半年前の自分と今の自分が、同じ場所にいて全然違うこと。
看護記録には書かないことだ。
でも。
『王都の公爵邸に到着。ユリウスの部屋は南向きに変更されていた。ディートリヒ様の手配による。ユリウスは新しい部屋を気に入った様子』
書けるのはここまでだ。
ペンを置いた。
明日は王家監査院に行く。会計監査の最終結果を受け取る。半年前、最初の封書を受け取ったとき、指先が冷えた。今は——
寝台に入った。
天井が高い。リンデンバートの離れの、あの低い天井ではない。ディートリヒが屈まなくていい高さだ。
ユリウスの寝息が聞こえる。ディートリヒの呼吸が聞こえる。
三つの寝息。大きいのと、小さいのと、中くらいの。
場所が変わっても、この音は変わらない。
目を閉じた。
明日の朝は、誰がパンを焼くのだろう。公爵邸の厨房には使用人がいる。焼く必要はない。
──でもあの人のことだから、たぶん焼く。
そしてたぶん、焦がさない。
もう焦がさないと、あの人は言った。




