第88話 印章の綻び
「……何を言っておられるのですかな、ユウマさん」
サディロスの声がさらに低くなって、脅すような口調に心臓が一瞬大きく跳ねる。
それでも、俺も負けじとその視線を真っ直ぐ受け止めた。
「その契約書、本物なんですか、と聞いているんです。サディロスさんがお持ちの契約書は、正式な原本で間違いないんですね?」
わざと笑みを浮かべると警戒したのか、ヤツはじっと俺の顔を見つめてその意図を探ろうとしていた。
「……無論です、正式な契約書の原本ですよ。セリナ村に渡した控えも同様に、お互いの署名も印章も押してある。あなたは――」
言質を取った……それに、コイツのくだらない戯れ言なんて、聞く必要もない。
「裁判長、原本と控えの印章を、もう一度よく見比べてください」
俺は、サディロスの言葉に被せるように、裁判官たちに確認を求めた。
ヤツは一瞬だけ目を細めたものの、すぐに肩をすくめる。
「見直したところで、何が変わると言うのかね? まったく、くだらない……時間の無駄ですな」
自分が何を言ったのか、まだ本当に理解していないようだ。
髭を撫でながら得意げに、裁判官に向かって講釈を垂れる。
「村側が騒いでいるのは、土地の価値が理解できるようになったからでしょう。私としては、むしろ感謝されてもいいくらいだ」
サディロスの傲慢な言葉に、傍聴席の空気がまたざわつく。
調子に乗って喋っていたヤツは、俺が唇の端をわずかに持ち上げたのを見ると、言葉を飲み込んだ。
裁判官たちが半信半疑のまま書類をめくり始めると、その音だけが響き渡る。
誰もがそんなわけないだろうと思いながらも、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。
「こ、これは……印章が違う!」
「な、何だと! 嘘だ!」
サディロスは自分の席から勢いよく立ち上がると、混乱する裁判官たちの元へ駆け出そうとする。
「ワシに見せろ! お前ら、こっちにその書類を寄越せ!」
ヤツは数名の警備に行く手を阻まれ、大声で喚き続けた。
法廷内はサディロスの叫び声に反応するように、ざわめきが徐々に大きくなって、もはや誰が叫んでいるのかも分からないほどだった。
「静粛に! 静粛に! 静かにしなさい!」
木槌を叩き付けて裁判長が制止する声も、傍聴席の話し声も、しばらく止むことはなかった。
「……また騒ぎ立てるようなことがあれば、全員退廷させます」
静まりかけた法廷に裁判長の厳しい言葉が響くと、その場の全員が口を閉じ黙り込む。
俺はブルブルと震えて顔を真っ赤にするサディロスから視線を離さず、鼻で笑ってやった。
それに腹が立ったのか、ヤツは拳で目の前のテーブルをドンと叩きつける。
「被告! 静かにしなさい!」
注意されても、サディロスは悔しそうな顔で俺を睨み付けたままだ。
「……原告。この契約書の印章について、説明をするように」
「はい。ではこちらをご覧ください」
俺は書類の束から、サディロスが忘れていった契約書を取り出す。
「これは、サディロスさんが最初に用意していた契約書です。このように、セリナ村の署名や印章はまだありません。あるのは彼の印章のみです」
よく周りから見えるように一度高く掲げ、係の職員へと手渡す。
「彼が原本だと主張しているその契約書は、私が控えとして持っていたものです」
「なっ……この野郎! すり替えたな!」
「被告! 勝手に発言しないように! 退廷させますよ!」
「……ぬうぅぅ!」
警備の人たちに抑えられたまま、サディロスのさっきまでの余裕はもうなくなっている。
出るのは、怒りのあまり喉から漏れる唸り声だけだった。
その無様な様子に、思わず唇の端が上がりそうになるのを必死に堪える。
俺も大概だけど、周りの人たちが受けた仕打ちを考えたら、そんなこと気にしてなんていられるか。
顔を上げると、法廷の奥に座る国王とジライ将軍は何も口を挟まず、ただじっとこっちを見つめていた。
「原告側は、どのようにして、その原本を手にしたのですか?」
裁判長が低い落ち着いた声で俺に問いかけた。
「はい、私とサディロスさんは一緒にセリナ村を訪問しました。ですが彼は、村との売買契約について折り合いがつかず、この原本を忘れたまま、私を置いて先に帰りました」
「ふむ……では、どうして原本を被告に返さなかったのですか?」
「返したつもりだったんです。ですが、村用に写しを作ったあと、被告に返すはずだった原本ではなく、そちらを誤って渡してしまいました」
傍聴席が大きくざわついて、サディロスが息を呑む気配がする。
「それに、その原本は不自然に空白が多く、条件も曖昧です」
裁判官たちは、サディロスが持参した契約書と俺の渡した原本を、再びじっくりと見比べていた。
「……さ、裁判長! これは詐欺ではないですか!」
「被告、勝手に発言しないようにと言ったはずです」
「裁判長、もうこの際ですし、自由な反論を認めてはいかがですか? こちらは何を問われてもお答えできますし、何の問題もありませんから」
さらに真っ赤に顔を染めるサディロスを見て、隣のオラロワ支部長が肘で俺をつつく。
「おい、ユウマ。あんまり煽るな」
「ああ、すみません。俺も溜まりに溜まったものがあるんです。それに、すぐ交代しますから」
この件に関しては、長引かせたところで体力を消耗するだけだ。
契約書の不備はこれでもう十分法廷に刻めたし、同じ話を長引かせるよりは、まだ温存している切り札を切るためにも次へ進んだ方がいい。
裁判長の左右にいる裁判官たちが、何事か囁き合って小さくうなずいた。
「……では両者の発言について、必要な反論は認めますが、節度をもって順序を守ること。いいですね?」
「はい」
サディロスは俺を睨み付けたまま、憎らしげに口元を歪めて片手を挙げる。
「……裁判長! 先ほど印章が違うと仰いましたが、確認させていただきたい」
「許可しましょう、こちらへ」
サディロスがドカドカと足音を響かせつつ、裁判官たちの方へ歩いていく。
契約書を覗き込む奴の顔色が、また赤く染まっていくのが分かった。
「なんだこれは……ワシの印章にそっくりではないか!」
ヤツは振り返ると、俺の方を指差して怒鳴り声を上げた。
「き、貴様! 印章を偽造したな!」
「被告、席に戻りなさい……それから原告側に、この件についての説明を求めます」
サディロスが無理やり席に座らされたのを確認すると、俺はわざと困ったような顔をした。
「その羽と麦が彫られている印章は、セリナ村で使用されている物なんです。そもそも契約時に確認するものじゃないんですか?」
「な、なんだと! お前たちが、ワシの印を真似て作ったんだろうが!」
「セリナ村の人たちを騙すために、サディロスさんがそっくりな印を作ったとも言えるんじゃないですか? 貴方、強引に売買契約を結ぼうとされてましたよね?」
「ぐっ……!」
サディロスの顔色が、みるみる悪くなっていく。
さっきまでなら、もっと滑らかに言い逃れしていただろうに、今の流れではそうもいかない。
国王がいる、裁判官も傍聴席も、みんな静まり返ってヤツの次の一言を待っている。
「被告。原告側の主張に対して、反論があれば述べなさい」
「……ワ、ワシは」
サディロスはそれ以上何も言えず、喉が詰まったような音を絞り出しながら、きつく拳を握り締める。
言えるわけないだろ……強引に契約を進めようとしたのは本当なんだから。
下手に反論すれば、盗賊やダムのことまでバレてしまう可能性があるって分かってるんだろう。
「原告側、他に述べるべきことがありますか?」
裁判長はしばらくサディロスの返答を待っていたけど、答えないヤツに見切りを付けた。
「はい。私たちは、彼がどうしてあの土地にこだわっているのか、当初は理解できませんでした。施設を建てるなら、もっと適した場所がいくつもありましたから」
「ふむ……被告はこれについて、理由を述べられますか?」
「それは、その……」
さっきまであれだけ威勢良く怒鳴り散らしていたのに、急に大人しくなったサディロスの額に、じわりと汗が浮く。
「原告側は、『当初は』と述べましたが、現在はその理由が分かっているということですか?」
「はい、おおよそは」
「貴様……何を言うつもりだ!」
サディロスが勢いよく声を張り上げた。
「原告、続けてください」
裁判長は、何度注意しても耳を貸さない相手に呆れ果て、その発言を無視して俺に続きを促した。
「セリナ村の周囲に広がる廃坑を利用した密輸と……子どもたちの人身売買です」
絞り出すように吐き出した言葉に法廷がどよめいて、傍聴席のあちこちで息を呑む音が広がった。




