第82話 差し出した未来の、その足元で
「5倍とは……本気で言っておるのかね?」
村人たちのざわめきが残る中、グレオルドさんもまだ動揺を隠せないようだった。
「俺は本気です。こっちは小麦の調達に苦労しているんですから」
「そんなにですか……どれだけ人気なんでしょうね、代理」
「まったくだ……」
マイロさんが呆れたようにボソッと呟くと、グレオルドさんも大きく息を吐く。
「それから、費用はこちらで負担しますので、サディロスに奪われた土地に粉挽き場を建てましょう」
あの土地は水はけが悪かったし、大きな岩もごろごろしているから、畑にするには時間がかかる。
いっそのこと、いま建築中の建物を活用させてもらう。
「……しかし、まだ勝敗は分からんでしょう」
「いいえ、勝ちます。必ず取り返してみせますから」
「そうか……あなたがそう言うと、本当に実現しそうな気がして不思議ですな」
目を細めるグレオルドさんは、それ以上何も言わず、ただじっと俺たちのやり取りを眺めていた。
「ユウマさん、ここはどうしますか? 今の村の状況だと――」
そんな空気を気にすることもなく、マイロさんはメモを取りながら、俺が言葉に詰まるような質問を次々と投げかけてくる。
「……マイロ」
「あ……はい。何でしょうか、代理」
グレオルドさんは苦笑しつつ、周囲に指示を飛ばすマイロさんを見つめていた。
「お前はそうしている方が性に合っておるだろう。手紙を書いたことを後悔しておるなら、この契約が上手くいくよう、責任を持ってやってみろ」
「こんな細かい計算、誰もやりたがりませんからね」
村人のぼやきに他の人たちも頷いて、部屋の中に笑いが起こる。
「なぁ……これからは出稼ぎに行かなくても済むんじゃないか?」
今回の契約が彼らにとって大きな転機になるのだと、村人たちも実感し始めていた。
良かった……なんとか丸く収まりそうだ。
今後の方針をひと通り話し終えると、村人たちは部屋をあとにした。
ほっとひと息ついたところで、俺は胸の奥に引っかかっていた話題を切り出した。
「ラオスさんはどうされてるんですか?」
「彼奴は部屋に引きこもっておりましてな……声を掛けても出てこんのです」
「え……そうなんですか?」
立ち上がったグレオルドさんは、執務机の引き出しから書類の束を取り出し、俺に差し出した。
「ラオスが持ち帰った契約書の控えです、目を通してみてください」
「……拝見しますね」
最初の数ページだけで、元の契約書にはなかった、細かな文言が追加されているのに気づいた。
「なんですか、これ……村人を雇うにしても賃金が安すぎるし、他の条件もひどい」
「ええ……私が伏せっている間、ラオスは村の者にずいぶん責められたようです。しかし彼奴にとっては、良い薬になったでしょうな」
伏し目がちに語るグレオルドさんは、親として複雑な心境だろうと思う。
「話の途中で悪ぃが……俺は少し休ませてもらってもいいか?」
「あ……うん。ここまで送ってくれてありがとう、イデルさん」
「……お前も来い、ネリオ」
名前を呼ばれたネリオは、不満げな表情を浮かべる。
そんな彼の背中をイデルさんが押して、ふたりは執務室をあとにした。
「彼らに気を遣わせてしまったようで、申し訳なかったですな」
「……代理、少し休憩しましょうか」
3人だけになった静かな執務室は、妙に広く感じられる。
マイロさんは空になったカップに、温かいお茶を注いでくれた。
「しかし、この契約書を見て、ラオスさんは疑問に思わなかったんでしょうか? 村側に不利な条件ばっかりですし……」
「ふむ、それもそうですな……」
お茶を注いだ最後のカップを手元に置くと、マイロさんはグレオルドさんの隣に遠慮がちに腰掛ける。
「……代理が怪我の治療を受けておられた時、村の者とラオス坊ちゃんが口論になりまして」
彼は言いにくそうに、隣に座るグレオルドさんの様子をうかがった。
「どうやら、サディロスにうまく言いくるめられていたようです。坊ちゃんなりにこの村を良くしようと考えていたそうで、口論の際もそれを必死に訴えておられましたから」
たしかに検問所を作ると言っていた。
国境沿いの村だ、聞こえはもっともらしい。
それに人の行き交いが増えれば、村も今より豊かになる……ラオスさんは、そんな話をそのまま信じたんだろう。
「おふたりはもう見に行かれたんですか?」
「あの施設ですか? それが危険だからと、村の者もなかなか近づけんのですよ」
見られたらマズいものを造ってますって言ってるようなもんだろうに……。
「一度見に行ってみたいので、他に近くまで行ける道はありませんか?」
「あの辺りはたしか裏手に道があったはずです。トワとウタなら知っておるでしょう」
ウタ爺さんにはダムの件でお世話になったな……トワ爺さんも、俺の意見を尊重してくれたっけ。
「それと、川の上流の方はどうなりました?」
村が無事な時点で質問するのも変だけど、先にこの件を尋ねるべきだった。
「土地が売却された後、盗賊たちはめっきり姿を見せなくなりました。今は全て片付けて、以前と同じ状態にしてあります。ただ……」
「ただ……何かあったんですか、マイロさん」
グレオルドさんの表情をうかがうマイロさんは、小さく息を吐き出す。
「あの施設を建てるために、人の行き交いは増えました。ですが……出入りする全ての人間が、善人のみとは限らないんです」
「出稼ぎに行った男たちがいない村に残っておるのは、女子や子供ばかりですからな……これが何を意味するのか、聡明なユウマさんならお分かりになるでしょう」
俺は、しばらく言葉が出なかった。
あの集会所で見た村人たちの嬉しそうな笑顔や、一緒にクマ用のオヤツを作ったこと。
全部が一気に思い出されて、その痛みに触れたような気がして、目を固く閉じる。
「……今すぐ施設を見に行きます。もうのんびりしている暇はない、ヤツらだけは絶対に許さない」




