第77話 おかえりなさいの村で
ヨネさんって、一体何者なんだろ……?
受け取った八つ目弓を、細い指先でそっと撫でるヨネさんの瞳は、ほんのりと潤んでいるようにも見えた。
先代の王って、わりと早くに亡くなったんだよな。
魔王や俺たちの前で国王が涙を流していた光景が浮かんできて、少し切ない気持ちになる。
「遺跡の奥に、8つの像が並んでいたの……それぞれが災いの言葉を囁いてきたわ。私は怖くて膝が震えてた」
「ほう……災いの言葉ですか?」
ネリオは興味津々といった様子だった。
「ええ、先王はまったく気にしていなかったようだけど……いま考えると、あの囁きが彼には届いていなかったのかもしれないわね」
彼女は寂しげに視線を落とし、静かに弓を木箱へしまった。
「……今となってはいい思い出よ。それに、ユウマ君が使わずに済んでよかったわ」
「ええ。もし使用すれば、永遠に消えない炎に身体を包まれて、火傷どころでは済まなかったでしょうから」
「火傷って、お前なんであの時言わなかったんだよ!?」
まただ……呆気に取られた俺は、彼の顔を見つめるしかなかった。
「弓だけでは確信がもてませんでしたから。それに、結局使わなかったのですから、良かったじゃないですか」
「お前のその考え方が一番怖いって……」
ヨネさんは、俺たちのやり取りに苦笑しつつ、弓を収めた木箱をネリオへ差し出す。
「……この弓、預かってもらえるかしら? もう扱える自信がないの」
「ええ、もちろん。喜んで」
笑顔で受け取るネリオは、まるで最初からそうするつもりだったみたいに、少しも躊躇しなかった。
「……先王は一度も弓に触れなかったけど、何かしら感じるものがあったのかもしれないわね」
ヨネさんは、弓を手放したことで肩の力が抜けたように、晴れやかな笑顔を見せた。
しばらく彼女の昔話に耳を傾け、俺たちは連れ立ってヒルダ婆ちゃんの家へと歩き出した。
窓の隙間から煮込まれた野菜と肉の香りが、温かな湯気に混じって漂っていた。
以前よりは具の量も増えて、食べてすぐ腹が減るなんてことも滅多になくなった。
扉を開けると、テーブルの前ではヒナタとメイが並んで盛りつけをしていて、エイドはパン工房からそのまま来たのか、エプロン姿で配膳中だった。
メイたちはちゃっかり自分たちの椅子まで持参していて、最近は夕食になると、いつもこのメンバーが自然と集まっていた。
「アンタたち……毎日ここに来るけど、空き家を貸してやっただろう?」
準備が終わり、その場の全員が椅子に腰を下ろしたところで、ヒルダ婆ちゃんが呆れたように眉間にシワを寄せる。
「う……でも、エイドとふたりだとつまらなくて」
メイは、少し離れた席のヒナタを気にしつつ、黙々と食べ続ける。
エイドが少しショックを受けているのが、なんだか気の毒だった。
「……メイ、お前、接近禁止って言われただろ」
理由は分からないけど、彼女はヒナタに夢中で、とうとうストーカー扱いされていた。
「今度は気をつけるって約束するから……お願い、ヒナタさん」
「えっ……あ、あはは」
「困った子だねぇ……そういや聞きそびれちまってたが、あの後、国王はどうなったんだい?」
カップの水をひと口飲んで喉を潤したヒルダ婆ちゃんは、呆れて苦笑している。
「国王が魔王に謝罪したのは話したよな……あの後、責任を取らせてほしいとか、いっそ罰を与えてくれとか言い出して大変だったんだよ」
「へぇ、あの王がねぇ……」
食べ終えた俺は席を立ち、新しく据え付けられた棚へ向かった。
並んだ木箱のひとつを手に取り、婆ちゃんの様子をちらりとうかがう。
彼女がうなずいたのを見て箱の蓋を開け、ポットに数杯分入れてから沸騰した湯を注ぐ。
これが最近の習慣で、お茶を淹れるのはいつの間にか俺の役目になっていた。
彼女との約束通り、好きなだけお茶を楽しめるように、茶葉のストックは欠かさないようにしている。
街でイデルさんが珍しいお茶を買ってきてくれるおかげで、今では種類もかなり増えた。
俺は茶葉が蒸らされる間、ぼんやりと窓から見える村の風景を眺める。
国王の最後の言葉だけは嘘じゃないって、俺は思いたい。
「ネリオ、あの時のあれは大丈夫だったのか?」
「……あの時のあれですか?」
黙々と食べていたエイドは、食事を終え、ナプキンで口元をぬぐった。
「あっ、分かった。国王と将軍から出てきた黒いモヤのことでしょ?」
「く、黒いモヤって……人から出るんですか?」
メイの言葉に、ヒナタは興味津々といった様子で身を乗り出す。
「へぇ、アタシにも聞かせな」
ヒルダ婆ちゃんも満更じゃなさそうだ。
お茶を淹れ終えた俺は、あの時の出来事を思い出していた。
◆
王とジライ将軍の身体から立ちのぼった黒いモヤは、ゆらゆらと宙を漂い、塊となって空中に留まっていた。
まるで行き場を失った感情だけが、その場に取り残されているみたいだった。
「おや、これはまた……なかなか上質ですね」
ネリオが手を伸ばすと、モヤは引き寄せられるように手のひらへと集まっていった。
「……それ、大丈夫なのか?」
彼は涼しい顔で、塊になったモヤを撫でるように指先を動かす。
「ご心配なく……人間の澱みは、我々には美味でしてね」
モヤは指先からするすると、ネリオの体内へと吸い込まれていく。
その仕草に、やはり彼も魔族なのだと肌が粟立った。
「……お前は昔から、そんなガラクタばかり集めおって」
横で見ていた魔王は呆れたように言うと、そっぽを向いた。
「我々にとっては栄養源でもありますから。腐らせるのも勿体ないでしょう?」
ネリオはあっさりそう言って、わずかに残ったモヤを払うように、軽く手を振る。
跡形もなく消え去ったことで、あの場にまとわりついていた重苦しい空気が、少しだけ薄れた気がした。
◆
「……まあ、そんなことがあったんだよ」
「不思議なこともあるもんだねぇ……まあ、アタシはネリオの正体の方が気になるがね」
ヒルダ婆ちゃんは魔女みたいに笑って、角砂糖をひとつカップへ溶かした。
それからしばらく経って、村の工場前で――。
「ほら、頑張ってくれ、ちょっと遅れてる」
新しい製造工場で、魔獣たちがせっせと荷物を運ぶ光景も、今ではすっかり日常になっていた。




