第71話 噛み合わない言葉
血に濡れたバルドは、俺をじっと見つめたあと、背中を向けるように身を低くした。
「乗れってことか……?」
俺は傷だらけの体を引きずるようにして、バルドの背にしがみついた。
――ドドドドッ!
真っ黒に焼け焦げ、草木が枯れ果てた大地に、力強く地面を蹴る重い蹄の音が響いている。
バルドの背中に、振り落とされないように俺は必死にしがみついていた。
いつか3つの頭を持つ獅子獣へと成長するコイツは、今はただ、俺を乗せて前だけを見て走る相棒だった。
戦闘の跡なのか、抉れて荒れた地面を避けるように、バルドは器用に進路をずらす。
俺を背に乗せたまま振り落とさぬように、静かに力強く駆けてくれていた。
「……ありがとう、バルド。ずいぶん大きくなったな」
容赦なく顔に吹き付ける風に声をさらわれながらも、バルドの耳がわずかに動き、まるで応えているかのようだった。
ドォン――!
地の底から突き上げるような耳をつんざく爆発音が響いて、思わず首をすくめる。
砂煙が立ち上り、視界の先で候補者たちの影がひとつ、またひとつと崩れ落ちていくのが見えた。
「もしかして、先に行ったヤツらか……?」
アイツらは、俺を待っているって言った……やっと追いついたのに。
「クソ……時間がかかり過ぎた」
脳裏に浮かぶのは、ヒナタの穏やかな笑顔や、イノール村の人々。
それに、いつも自信満々なメイと、治療院で泣き出した俺を困った顔で叱咤するエイド。
ネリオだってそうだ……今まで関わってきた奴らが、ここまで俺を引っ張ってきてくれた。
気づけば無意識に拳に力が入り、バルドの背中の白銀の毛をぎゅっと握りしめていた。
ふと風に乗って、焦げたパンケーキの香りが鼻先をくすぐる。
「……ネリオのやつ、勝手に抜けやがって。待ってろよ」
どれだけ追い詰められても、俺たちはまだ終わってない。
バルドの背にしがみついた手に、もう一度だけ力を込めた。
走り続けて、やっと小高い丘の上に辿り着くと、目の前の光景に言葉を失った。
「なんだこれ、嘘だろ……」
一面焼け焦げた大地の先は、今にも雨が降り出しそうな曇り空のように暗く、濁った空気のせいで視界も悪い。
いたるところに、もう動かなくなって朽ちかけた魔獣たちが、角を砕かれ、片翼を引きちぎられて倒れている……俺のすぐ足元にも。
「どういうことだ? 誰か先に来て戦っていたのか……俺たちより前に?」
そんなはずがない……。
今回の遠征より前には、復活した魔王の存在なんて確認されていなかったはずだ。
落ち着かない様子のバルドが、わずかに唸って姿勢を低くすると、凍りつくような冷気が辺りを覆い、戦場の空気が変わる。
まだ赤く燻り続ける炎さえ、息を潜めてしまうような静寂が、辺り一面にじわじわと広がっていった。
――その異様な気配の中心に、誰かが立っている。
「また来たか。懲りぬ者どもめ……」
低く穏やかな声が耳に届くと、その圧倒的な存在感に目を奪われ、思わず息をすることさえ忘れてしまう。
……黒。
そこにいたのは、まさにそうとしか言いようのない漆黒をまとった、若い青年だった。
ただ立っているだけで、戦場そのものが彼に従っているように見えた。
俺を背中に乗せたまま、バルドがためらいがちに右前脚を踏み出す。
その瞬間、すぐ横を黒い稲妻が駆け抜けた。
「ぐわっ!」
咄嗟に振り返ると、助けを求めて手を伸ばした候補者が、周りの魔獣もろとも空中へ吹き飛ばされていた。
その身体は激しく地面に叩きつけられ、起き上がる気配はない。
「ガウッ!」
怒りを帯びた咆哮を上げるバルドの肩を、風を切る鋭い音とともに、黒い閃光が貫いた。
「バルド! おい、大丈夫か!」
背中から飛び降りて駆け寄る俺をよそに、バルドはふらつきながらも踏ん張って倒れずにいた。
肩口からにじむ血が、毛並みをじわじわと赤く染め広がっていく。
それでも、俺を守るように震える脚で立ちはだかった。
「お前……何するんだ!」
バルドを背に庇いながら、力の限り、怒りの声を叩きつける。
でも、目の前のヤツの眼差しには、怒りも迷いの色も浮かんでいなかった。
「……裏切り者には罰を。それ以上でも、それ以下でもないだろう?」
「クッ……」
俺は、ぐっと喉の奥が詰まる。
ヤツはまるで当たり前のことを言うかのように、驚くほど静かで冷たい声でそう告げた。
たしかにコイツから見れば、ネリオが寄越したのだとしても、バルドは裏切ったことになるのかもしれない。
でも、だからって傷つけていい理由にはならないだろ……ふざけるんじゃねぇ。
「お前、魔王なんだろ……バルドを傷つける権利なんてあるのかよ? 動物虐待だろうが!」
喉の奥が裂けそうなほどの勢いで飛び出した言葉は、少し的外れなのは自分でも分かっていた……でも、どうしても叫ばずにはいられなかった。
ヤツの漆黒の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「……どうぶつ、虐待?」
戸惑いがちに魔王が呟いた、その一瞬の隙を見逃さず、俺はさらに言葉を重ねる。
「コイツはなぁ、俺の相棒なんだ。守って、一緒に戦ってくれてる。それを裏切り者扱いするなんて……そんなの、ただの責任放棄だろうが!」
自分でも説明できない屁理屈が、口をついて次々と溢れてくる……バルドが傷つけられて、俺は頭に血が上っていた。
……何でもいい、魔王を動揺させて、その澄ました面を崩してやる。
「き、貴様っ……! 自分が何を言っているか分かっておるのか?」
「ああ、当たり前だろ! 動物を可愛がって最後まで世話をするっていう、飼い主としての責任を放棄してるんだよ、お前は!」
「……か、飼い主としての責任!?」
予想以上に響いたのか、驚いたように呟いて、漆黒の瞳はわずかに揺れる。
「せ、責任放棄……この我がそのようなことを。まさか――」
いける……このまま押し通してやる!
俺はわざと少しだけ視線を落とすと、バルドの背中にそっと手を乗せ、そのままありったけの感情を声に滲ませる。
「……バルドたちにとって、頼れるのは飼い主のお前だけなんだよ」
「そ、そうなのか? ……だが、バルドとは誰のことだ?」
しまった、名前を出したせいで、少し冷静になってしまっている!
考えろ……休むな、考えるんだ。
訝しげに俺を見つめる魔王の視線に焦りながらも、俺は頭をフル回転させる。
ふと、パンケーキの甘い香りが辺りに漂った。
……これだ!
ネリオのヤツも、どこかで見てる……だったら、もうとことんやるしかないよな?
「これはお前に言いたくなかったけど……」
俺はネリオに感謝しながら、最後までとっておいた、とっておきの切り札を切る。
背後のバルドに視線を送り、軽く頷くと、大きく息を吸い込んで魔王に向かって全力で叫んだ。
「お前、千年に一度、復活してるんだってな!」
「え……?」
「……あれ?」
俺の予想に反して、目の前の男は一瞬だけ言葉を失い、まるで理解不能なものを見ているかのような視線を向けてくる。
「な、何の話だ……千年? 我は、復活などしていないが……」
「は? いや、でも国王が言ってたけど……お前が復活したから倒してこいって」
なんだ、どういうことだ……?
視線だけが交わる中、気まずい沈黙がやけに長く感じられる。
鼻先をくすぐったあのパンケーキの甘い香りは、まるでネリオの思惑そのもののようだった。
……なぁネリオ、お前を信じていいんだよな?




