第61話 また同じ夢を見て《ヒナタSide》
煌びやかなパーティー会場は、流れる音楽と人々のざわめきが混ざり合って、見ているだけで酔いそうになる。
私は端の壁際に背を預け、周りの視線を避けるようにそっと目を伏せた。
カイルは、妻が戻ってきたと周囲に知らせたくて、わざと注目を集めている。
「ごきげんよう、ヴォルフガング夫人……あら、ごめんなさい、私ったら。まだヒナタ様でしたわね」
ふいに話しかけてきたこの人は、侯爵夫人。
背が高くて、きつい香水の匂いを漂わせながら歩くから、陰では『香木』なんて呼ばれている。
「……ごきげんよう」
「そういえば、記憶をなくしているそうじゃないか」
屋敷で考えてきた挨拶を口にする前に、夫の侯爵の方が興味を隠せない様子で、早口に質問を被せてくる。
彼の顔が妙に近くて、声だけがやけに大きい。
「あの、私は……」
あれ、言葉が出ない……?
「ゆっくり治療すれば、きっと記憶も戻ってくるよ。では我々はこれで」
待って、私は全部思い出したの……あの村で過ごした日々も、私を呼んでくれた声も。
ねぇ、話を聞いて!
必死に声を出そうとするけど、私の口から零れる言葉は、苦しげに呻くものばかりだった。
「また奥方を連れ戻せるなんて便利ねぇ、ふふ……あの騒ぎの時は笑ったわ」
「ははは、また追い出されるんじゃないのか?」
まるで私に聞かせるためのような夫婦の会話に、胸の奥がチクチクと痛む。
「やめたまえ、彼女は私の妻だ。失礼だろう?」
……妻って、勝手に決めないで。
やっと「妻じゃない」と言いかけた私の声は、突然吹き出した風にさらわれて消えていく。
カイルが私を庇う、優しさを装った声が、何よりも気持ち悪くて腹立たしかった。
「大丈夫か?」
「……少し失礼するわ」
一言だけはっきりと言った言葉に、目を見開いたカイルが私の腕を掴もうとするけど、その隙を突いて人混みに紛れ込む。
私を呼ぶ声が届かない場所へ、早く……ドレスってこんなに歩きにくかったかしら?
婦人用の控え室に並ぶ小部屋のひとつへ、今まさに取っ手を掴もうとしていた若い女性を押しのけるように滑り込んだ。
「ごめんなさい、間に合いそうになくて」
「まあ、それは大変だわ。お先にどうぞ」
こんな言葉が咄嗟に出てくるのは、ヒルダ婆ちゃんの影響かしら……以前の私は、彼女の立場だったわね。
扉を閉めて鍵を掛けて、大きく息を吸い込んだけど……他の女性たちのお喋りが聞こえてきて、静かに吐き出した。
耳を澄ませると、聞こえてきたのは、口さがない彼女たちの噂話。
「……様って、まだ自分が追い出された理由を思い出せないのかしら?」
「愛人にも、使用人にも嵌められたんでしょ? ふふふ、あの女は処罰されたらしいけど、それも滑稽だったわね」
屋敷にあの愛人の姿はもうなかったけど、そう……罰を受けたのね。
「伯爵がどれだけ縁談を持ちかけても、みんな笑って断ったって聞いたわよ?」
「当然じゃない。自分のことを棚に上げて、妻を疑うような男なんてお断りって、みんな言ってるわ」
彼女たちの声は興奮しているのか、だんだんと大きくなっていって、周りの女性たちも巻き込んでいく。
「また彼女を逃したら、彼は今度こそ終わりね。絶対に離さないはずだわ。記憶がないって都合がいいわね」
そんなこと、もうとっくに知ってるわ――!
聞こえてくる会話に耐えきれなくなって、慌てて小部屋を飛び出した。
私を見て驚く彼女たちの顔が視界に入ったけど、逃げるように立ち去る私を笑うその笑みは、扇で隠しきれていなかった。
足がもつれて転びかけ、思わず手をついたテーブルには、薄くてふわふわで綺麗な焼き色をしたパンケーキが乗っていた。
それは宝石のように洗練された、貴族のパンケーキ。
「……このパンケーキ、焼きが甘いわね。もっと焦がした方が回転が安定するのに」
「ヒナタ様……回転、ですか?」
皿を運んでいたメイドが、首をかしげて困惑したように呟く。
あれ……私、何を言っているの?
ぽっかりと胸に穴が空いたような違和感だけが残った。
「ヒナタ、無理しないでいいんだよ――」
聞こえてきた懐かしい声に、その姿を探して辺りを見回すと、胸の奥が焼けるように熱い。
白銀のローブをまとったネリオ師匠も、パンケーキを焦がした私を苦笑しながら許してくれるヒルダ婆ちゃんも、そして……。
「……ヒナタ」
ユウマの声が、胸の奥から湧き上がるように甦る。
足元がぐらりと揺れて、手で口元を押さえながらテーブルの側に崩れ落ちた。
胸が熱くて痛くて、涙が溢れて止まらない。
「……ヒナタ様! 大丈夫ですか!?」
「ターヤ……私、また同じ夢を見てたみたい」
汗をびっしょりとかいた私を、心配そうに覗き込んでいる彼女の顔が視界に入ると、あれは夢だったと分かって目を閉じた。
「また、あの夢を見たんですか?」
「ええ……あの日の夢だったわ」
あのパーティーの場面を、今でもときどき夢に見る……私の声が届かなくて、何度も同じ言葉を聞かされる夢。
夢の中の私は、まだ何も思い出していなかった。
あのパンケーキを見るまでは、イノール村のことも、ユウマの声も、全部どこか遠くに沈んだままだった。
全ての記憶を取り戻したのは、カイルに無理やり連れ出された、あの晩のことだった。
「君さえ側にいてくれればいいんだ。そうすれば、みんな僕のことを敬うようになる」
「ヒナタは公爵家の娘であり、僕の妻だ。跡継ぎの妻が誰であろうと、文句は言わせない」
会場へ向かう伯爵家の馬車の中で、カイルは他にもいろいろ言っていたけど、まだ記憶が戻っていなかった私は、窓の外を流れる景色を眺めていた。
結局、彼は自分のことばっかりだったわね……。
「カイル、話があるの」
あのパーティーで全てを思い出して、屋敷に戻る前に馬車の中で彼と話そうとしたけど、カイルは貴族たちとの賭け事に夢中で、結局私だけを先に帰らせた。
いま思うと、あれはここから逃げ出すチャンスだったのかもしれないのに。
扉も窓も外から鍵が掛けられていて、逃げられないと気づいたのは、話し合いに部屋を出ようとした時だった。
それまでは、ほとんど部屋に閉じこもっていたから全く気付けなかった。
今夜のためにと、カイルに指定されたドレスを着てぼんやり考え事をしている私の髪を、ターヤが丁寧にとかす。
「……レストランには、化粧室の隣に裏手へ続く扉があって、建物の角を曲がるとすぐそばに馬車止めがあります」
「ターヤ、その話はしないって決めたでしょう?」
「いいえ、話だけでも聞いてください。すぐ側に何軒か酒場があって、赤い看板の店の店長は私の幼なじみなんです。事情を話したら協力してくれるそうですから」
……そんなことをしたら、真っ先に疑われるのは彼女だと言ったのに。
「私ひとりのために、あなたの人生まで壊したくないの」
そう彼女に告げたけど、心の中はやっぱり揺れていた。
今はカイルに、記憶が戻ったことに気づかれてはいけない……もし知られたらどうなるか分からない。
これ以上監視が厳しくなれば、きっと逃げ出せなくなる。
それでも、馬車でレストランへ向かう間もターヤの言葉が胸に引っかかったままで、なかなか気持ちを切り替えられなかった。
今夜、ここから逃げ出せるかも……ほら、すぐそこに扉はあるわよ?
心の中の、ずるい私がそっと囁く。
そんな思いを何度も断ち切って、また断ち切って……やっと諦めたのに。
「ヒ……ヒナタ、だよな?」
ああ、貴方はもう……いつもそうやって、私を驚かせるのね。




