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逆流者の旗  作者: 秋月 爽良


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第60話 逃げ道と代償《ヒナタSide》

 ――今なら大丈夫、誰にも見られてないわね。


 ぼんやりと灯りがともる中庭を優雅に眺めるふりをしながら、見張りに怪しまれないよう窓枠にそっと手を掛ける。


 顔には笑顔をたたえたまま、両腕にできる限りの力をこめた。


 ピキピキと首筋と肩の筋肉が悲鳴をあげるけど、そんなこと気にしてる場合じゃないわ。

 幼い頃から身につけた淑女の(たしな)み――仮面の微笑みが、こんな場面で役に立つなんてね。


「……ここもダメね。ターヤ、そっちはどう?」

「こちらも施錠されている上に、外から頑丈に補強されていますね……」


 やっぱり……カイルは私を部屋に閉じ込めてる。

 彼が側にいなければ、部屋から出ることも窓を開けることも許されない。


 この部屋にある全ての窓は固く閉ざされていて、彼の執着心を物語っているようだった。

 

「ターヤ、下りるときに気を付けて。椅子から足を踏み外さないようにね」

「分かりました……っと。ヒナタ様、ほら、大丈夫ですよ」


 危なっかしい足取りで絨毯に降り立ち、少しおどけて微笑む彼女は侍女のターヤだ。

 長い髪をひとつにまとめた彼女には、侍女のお仕着せがよく似合っている。


 目鼻立ちはハッキリとしていて、年は私の2つ下らしい。

 だけど、幼い頃からメイドという仕事に就いていたからか、彼女の方が大人びて見える。


「私がこの屋敷に連れて来られてから、ずっとこうだったのね……気付くのが遅すぎたわ」

「申し訳ありません……もっと早く、おかしいと気付いていれば良かったのですが」


 椅子を片付けながら、綺麗に切りそろえた細い眉を八の字に下げる彼女は、もう何度目か分からない謝罪の言葉を口にする。


 ターヤはこの屋敷で、私のたったひとりの味方だった。


「貴女のせいじゃないって言ってるでしょう? でも、見張りの数が増えた気がするんだけど……きっとカイルの仕業ね」


「ええ……ヒナタ様が追放されたことで、公爵家とは微妙な関係になりましたから。大旦那様は、長女のチエッタ様に婿をと、お考えになっているようですよ」


 本当に自業自得ね……そのせいで、私がこんな状況なわけだけど。


「でもターヤ、貴女がいてくれて良かったわ」


「新人メイドだった私は、何もできませんでしたから。着の身着のままで屋敷を出て行く貴女を、ただ黙って見送るしか……」


 落ち込む彼女を元気づけたくて、部屋にある、簡易のキッチンへと足を運ぶ。


「ヒナタ様、私が……」

「私がお茶を入れるから、貴女はソファに座ってて。これでも毎日やってたのよ?」


 慌てて駆け寄ってくるターヤを無理矢理押し戻したのは、泣きそうな顔を見られたくなかったから。

 

 そう……イノール村では、毎日こうやってお茶を入れていたっけ。

 ターヤにさえ簡単には触れられたくないほど、私の大切な記憶。


 ヒルダ婆ちゃん、ネリオ師匠……そしてユウマ。

 会いたい……今すぐにでもここを抜け出して、帰りたい。


 あの時、村を飛び出しさえしなければ……あんなことで混乱したりして私、馬鹿ね。


「ヒナタ様、大丈夫ですか?」

「あっ……ええ、平気よ。もう少しだから待ってて」


 ターヤは私を心配して、声を掛けてくれるけど、こんな時はそっと見守ってくれる。

 もし彼女が望むのなら……ここから一緒に連れて逃げたい。

 

 でも、伯爵家の跡取りとして認められたいカイルは、きっと私を逃がさないだろう。

 父親のヴォルフガング伯の信用を回復するには、公爵家との繋がりが必要だから。


 どうにかしてここから逃げ出さないと――。


「ヒナタ様、お怪我の方は良くなりました?」

「え……ええ、少し擦りむいただけだから」


「でも魔獣に襲われたんでしょう? 気を失っていたとはいえ、危なかったですね」


 本当にそうだ……あの日のことを、もう一度なぞるように思い出す。

 イノール村を飛び出した私は、混乱した状態のまま歩き回って、気が付くと知らない場所にいた。


 足場の悪い街道を進んでいるうちに、魔兎(まと)に追われて足を踏み外して、ユウマの顔を思い浮かべたのは覚えてる。


 意識が途切れる直前に、「ユウマに謝らなきゃ」なんて、のんきなことを考えてたって言ったら、彼はどんな顔をするかしら。

 

 きっと笑って許してくれるよね?


 でも、親切な人が私を見つけて、ここまで運んでくれたのはいいんだけど……よりによってカイルの屋敷だなんて。


 そんなことを考えていると、お茶を美味しそうに飲んでいたターヤが口を開く。


「私、ヒナタ様の記憶が戻らなくても、きっとこれまでの経緯(いきさつ)をお話ししていたと思うんです」


「ターヤ……そうね、貴女ならきっとそうしてたわね」


 街道で気を失って次に目覚めた時、視界に入ったのは、見知らぬ天井と暖かい寝室。

 私は全ての記憶を失っていて、自分の名前さえも思い出せなかった……あの温かな思い出さえも。


「やっと目を覚ましたんだね、ヒナタ」


 現れたカイルは、優しいけれどどこか不自然で、作り物めいた笑顔を浮かべていた。

 周りが彼を「旦那様」と呼ぶ違和感や、鏡に映る自分の姿が自分ではないような、不思議な感覚があった。


 侍女のターヤだけは、何も言わずにただ黙ってそばにいてくれたけど。


「ヒナタは公爵家の令嬢で、僕の妻だった。でも君は全てを捨てて、姿を隠してしまったんだよ」


 カイルの嘘を信じてしまったのは、礼儀作法が身体に染みついているせいだった。

 本当にここにいたのね――そう、自分に言い聞かせてしまった。


 目が覚めるたびに泣いている私に、カイルが妙に淡々としていたのも、今思えばおかしかった。


「君のその夢だけど、壊れかけた心が作り出した逃げ場所だよ」


 イノール村やパンケーキを焼く音、黒髪の青年が現れる夢を、彼はただの妄想だと決めつけた。

 人々が跡継ぎのために喜ぶ一方で、陰では腫れ物に触るように私を扱っていることにも気付いた。


「ヒナタ様……前より落ち着いてるわね」

「いつまたおかしくなるか分からないわ。怖い」って。


 通りすがりに耳に入る使用人たちの噂話は、どれも似たような内容で……気づくきっかけはいくらでもあったはずなのに。


「ヒナタ様、眉間にシワが寄ってきてます……王都のレストランへ向かわれるのは、明日でしたよね?」


 そこまで思い出したところで、ターヤの声が、私を現実に引き戻した。

 彼女が自分の眉に指先を当てて、グリグリと揉みほぐす顔は、見ているだけで自然と笑顔になる。


「カイルのことを考えると、どうしてもね。もう一度やり直したいから、素敵な場所に連れて行くって言ってたけど……それがどうかしたの?」


「……その時に裏口からお逃げください、私が時間を稼ぎますから」


 胸の奥がトクンと小さく跳ね、その言葉に心が揺さぶられる。

 思わず縋りつきたくなる衝動を誤魔化せなかった。


 この囚われた状況から抜け出して、イノール村へ帰ることもできる。

 一瞬、逃げるための方法を思い浮かべたけど、同時にその後の情景もすぐに頭に浮かんできてしまった。


 ――私の姿が消えた後で、使用人たちが騒ぎ出して、カイルが険しい顔でレストランを行き来する。


「なぜ目を離した?」

「最後に彼女の姿を見たのは?」


 名前を呼ばれて、問い詰められるのはきっと――。


「……最初に疑われるのは貴女よ、ターヤ」


「そんなこと……大したことではありません。もし疑われたとしても、知らぬ存ぜぬで通します。それよりもヒナタ様がおひとりで逃げることの方が、ずっと――」


「ダメよ」


 彼女の言葉をそれ以上聞かずに済むように、少しきつめの声が出てしまった……自分の未練までも断ち切るように。


 ターヤを犠牲にすることは、私にはできない……ユウマならきっとこうしてたでしょう?


 彼女の細い肩がびくりと揺れたのを見て、慌てて言葉を取り繕った。


「驚かせてごめんなさいね。でも、もし私が逃げられたとしても、きっと後悔すると思うの」

「……ヒナタ様」


「それに病気のお母様がいらっしゃるんでしょう? ここを辞めさせられたら、他の貴族の屋敷ではもう二度と働けなくなるわ」


 彼女の瞳が、ほんのわずかに揺れているのが分かる。

 カイルはターヤの家庭事情を理解していて、裏切ることはないと考えて侍女にしたんだろう。


 問題を起こした使用人は、紹介状を書いてもらえない。

 街で稼ぐよりも安全で賃金の高い貴族の屋敷は、そう簡単に就ける仕事じゃない。

 

 ターヤが本気で言ってくれていることも、よく分かってる。

 あのとき何もできなかった自分を許せなくて、今度こそ力になろうとしてくれているのも。


「ありがとうターヤ、貴女の言葉は忘れずに覚えておくわ。本当に、どうしようもなくなった時のためにね……でも、機会を待ちましょう」


 今は、その引き金を引くわけにはいかない。

 私だけが安全な場所へ逃げて彼女を置いていくなんて、そんなことできるわけがない。


 まだ記憶を失ったふりを続けて、従順なお嬢様の仮面を被っていれば、いつかカイルは油断する。

 最後の切り札として、ターヤの案を心に置いておく。


 ……見てなさい、必ずここから抜け出してみせるんだから。

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