第55話 泉は冬眠中、パンケーキは実験中
昨夜、見張り台の上で隊長マントにくるまり、魔獣たちの顔を思い浮かべながら──俺は決心した。
傷つけるためじゃなく、追い払うためだけの武器を作るなんて、甘い理想に思えるかもしれない……でも、どうしてもあの光景が胸に引っかかった。
守りたいものと、傷つけたくないもの。
その両方を抱えて迷っていた俺の中で、ようやく答えが形になった。
それを伝えるために、今、ネリオの正面に座っている。
「ネリオ、ちょっと相談に乗ってくれないか?」
「おや、今朝は見張りの番でお疲れでしょうに。顔色が少し悪いようですが大丈夫ですか?」
真剣な態度に何か思うところがあったのか、朝食を食べ終えた彼は立ち上がりかけた体を再び椅子に戻し、空になった俺のカップに、指先ひとつで琥珀色の飲み物を満たしてくれた。
『私にもヒナタさんのように、魔族の血が流れていましてね』
ネリオが以前はっきりと言ったこの言葉を、俺はよく覚えている。
昨日の魔獣たちの従順な態度を見ても、目の前に座る彼は、ヒナタのように魔族の血を引いている人間というより、おそらく魔族そのものに近い存在なのだろう。
だから……ネリオの協力がなければ、この案は絶対に形にならない。
「さて、今日はどのようなご相談でしょうか」
「うん……ヒナタの焦げた料理って、魔獣から村を守るための武器にできないか? できれば傷つけずに、追い払う形で」
カップに注がれた液体の香りを楽しんで、満足そうに軽くひと口含んだネリオは、その言葉を聞いても眉ひとつ動かさない。
まるで俺がそう言い出すのを予想していたかのように、ニヤリと笑みを浮かべる。
「なるほど、ただ追い払うだけというわけですか……ユウマさん、あなたは本当に興味深いですね。誰も傷つけずに村を守りたいなどと、そんな発想はなかなか出てきません」
ネリオがわずかに目を細めて、カップをテーブルの上に静かに置くその横顔は、どこか楽しそうにも見える。
「ふふ……いいでしょう。それでは仕様を詰めるために、少し話し合いましょうか」
「一晩考えたけど、これしか思いつかなくてさ……これが今の俺にできる、精一杯の答えだ」
◆
朝食の洗い物当番のネリオは、スイスイと軽く指を動かして、あっという間に全て終わらせてしまった。
「さあさあ、会議ですよユウマさん」
「ネリオ……いつもは手洗いしてるのに、よっぽど楽しみなんだな」
「魔術を使えば簡単ですが、手間をかければ、そこに感情が生まれます。私はその違いを感じるのが好きなんですよ」
そんなもんかな……俺は便利な方がいいけど。
でも手間の意味なんて考えたことって、今まであったかな……?
ネリオは子どものように目を輝かせて、椅子を引き寄せて座った。
まるで遊び道具を前にした時のような、純粋で危うい好奇心のようだった。
「ではまず、ヒナタさんの焼きの個性を利用するため、前提条件を整理しましょうか。何と言っても、メインは彼女ですから」
ネリオは、手を軽く振るだけでテーブルの上に小さな魔法陣を展開した。
ふわりと光が弾けて、見慣れた形の、丸焦げパンケーキの幻影が浮かび上がる。
「……それ、焦げたパンケーキの精霊か何かか?」
もはや驚くより先に、「ああ、またか」と思った自分が少し怖い。
「精霊ではなく、私がつけている観察記録です。昨日の試作品は、まだ解析の途中でしてね」
日記つけてるのか……それには俺も含まれてるのかな。
「それから、目的の再確認をしましょう。追い払うことが最優先で、殺傷力は極力抑える──この理解でよろしいですね?」
「村を守れればそれで十分。倒さなくても、近づかなければそれでいい……これでいいのかまだ不安だけど、昨日の魔獣たちの寂しそうな顔がどうしても頭から離れなくてさ」
俺が頷くと、ネリオは満足そうに手をぽんと叩いた。
「素晴らしい方針です。それならヒナタさんの料理を強化しつつ、安全な範囲で炸裂させる調整も入れましょう」
「強化か……物騒な物ができそうだな」
「いえいえ、安全性は十分に配慮しますから。それでは次に、焼き担当のヒナタさんを呼びますね」
「待て待て、展開早すぎるだろ……まだ彼女に何も話してないから」
台所の片付けを終えて戻ってきたヒナタが、状況を理解できないまま小首をかしげる。
こうして彼女まで巻き込んで、開発会議はそのまま始まった。
「ところでユウマさん。命の泉の件ですが、進展はありましたか?」
「……うん、ちゃんと覚えてる。ただ……ほら、最近少し忙しかっただろ? 森にも行けなかったしさ」
俺は気まずさを感じて、ネリオの視線をまともに受け止められず、そっと目を逸らした。
元々この村に来たのも、エイドの怪我を治すためだった。
でも何度挑戦しても、全く進まない泉の問題から逃げ出したかったのは確かで、気付かないふりをしていた。
胸の奥にずっと引っかかっていた焦りと罪悪感は、今ここで言葉にして吐き出すべきだ。
「ネリオ……頼ってばかりで悪いんだけど、泉まで一緒に行ってくれないか?」
森に踏み入った途端、魔兎に追い回されるようじゃ、たどり着けるはずもない。
「俺ひとりだと、とても太刀打ちできないから」
「師匠……私からもお願いします」
ヒナタはメモを取っていた手を止めて、俺を心配して口添えしてくれた。
「今は無理だと思います。あの泉の女神は面倒くさがって、冬の間はほとんど仕事をしませんから」
「えっ……そうなのか?」
冬眠してるクマかよ……と言うか、なんでネリオはそんなこと知ってるんだ?
「師匠……冬の間はダメでも、春になれば氷が溶けるんですよね?」
「ええ、一応はそうなってますが――」
ネリオは、展開していた魔法陣に手を軽くかざして一度閉じた。
「ここ数年では、泉に到着すること自体が困難になっているようです。担当の女神が交代してからですが……私も小耳に挟んだだけで、本当のところは分かりませんけどね」
「担当が変わるって、そんなことあるのかよ……会社員みたいだ」
「本来なら女神が指示を出すはずなんですが……どうにも怠惰な方のようです」
ネリオは呆れたように笑って、頭を抱える俺を慰めるように背中を軽く叩きながら、1枚の紙とペンを目の前に差し出してくる。
「なに、これ?」
「ユウマさん、新しい技の名前を考えれば、気がまぎれるかもしれませんよ」
あの契約、やっぱり覚えてたか……。
今の状況じゃ何もできないっていう現実は、想像以上に重くのしかかってくる。
泉が駄目なら……残るは魔王の角。
セルジオ神父からその話を聞いた瞬間の胸のざわめきは、今も消えない。
だけど……ネリオが魔族って判明した以上、言えるわけないよな。
ちらりと盗み見ると、ネリオは何も知らない顔をして静かにお茶を飲んでいる。
薄く立ちのぼる湯気だけが、場違いなくらい穏やかだった。
胸の奥で複雑に絡み合った感情は、いつまでも解けずに俺の心に居座っていた。
それから数日後。
「ヒナタ、もうちょっと固めに焼ける?」
「え……もっと? これでも結構カチカチだけど」
「むしろ焦げたほうがいいんですよ」
こうして、俺たち3人の『パンケーキ武器化計画』が始まった。
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