第54話 揺らぐ正義
「それはちょっと見てみたいかも……でも、パンケーキを新しくヒナタに焼いてもらわないといけないしな」
すごく興味はあったけど、彼女に余計な手間をかけさせるのは、やっぱり気が引ける。
俺は潔く諦めて、みんなが座っていた椅子を片付け始めた。
「ユウマさん、その必要はありません。ご覧のとおり──」
ネリオはおもむろに胸ポケットに手を突っ込むと、紙にくるまれた小さな包みを取り出して、テーブルの上にそっと置いた。
縛ってあった細い紐をそっとほどくと、中から出てきたのは真っ黒に焦げたパンケーキだった。
「あれ……ネリオ、それどうしたんだ?」
「これは一昨日の残り物です。余っていたので、ヒナタさんにお願いして譲っていただきました」
「何やってんだい、アンタは……腐っちまうだろ。いや、カチカチだから平気なのかねぇ」
ヒルダ婆ちゃん……さっきまで冷めた目で見てたのに、いつの間にかネリオのペースに巻き込まれてないか?
ヒナタが気を利かせて、お茶を淹れようと立ち上がったのに気づいて、俺も後をついていく。
準備して戻って来ても、ネリオはパンケーキをじっと見つめたままだった。
「この焼き加減が実に素晴らしい……まさに傑作だ。私の全力をもってしても、ここまでの紋様を導き出せるかどうか――」
なんかぶつぶつ言ってるけど……ヒナタって、実はすごいのか。
真っ黒に焦げた表面を、目を細めてじっと見つめるその視線は、まるで魔道具か古文書でも吟味しているかのように鋭かった。
「申し訳ありません。少しだけお時間をいただきます」
ネリオはさっきとは反対側の胸ポケットから手帳を取り出すと、焦げ目の模様を寸分違わずスケッチし始める。
傍から見れば、それがただのパンケーキだなんて思えない真剣な顔つきだった。
「ユウマ、見て。ネリオさん、ペンを使ってないよ……」
「……あれも魔力で書いてるのかな。ヒナタもできるようになるかもな」
そっと覗き込むと、ネリオが指先を手帳の上でなぞるように動かしていた。
見たことのない文字が紙の上に浮かび上がり、しばらくして静かに紙面へと落ちていく。
「空中でも軌道が安定しやすく、美しい曲線を描くこの焦げ目……回転を加えることで、より安定感を……」
ネリオが文字の一部を指で動かすと、周囲の文字も引き寄せられるようにくっついて、一緒に移動する。
文字だけなのに、紙面に落ちた瞬間、目の前のパンケーキにそっくりな絵に変わっていた。
まるでスマホを操作しているみたいだ……魔術って本当にすごい。
「お待たせしました。では、いきます……」
満足するまで堪能したのか、ネリオはほのかに赤く光り始めた両手をかざす。
ベーコンはゆっくりと流砂のように形を変えながら、丸く膨らむパンケーキへと吸い込まれていった。
「えっ、今ので完成なのか?」
「はい、これで完成です。後ほど、この試作品の性能をお見せしますよ」
俺たちの目の前で、さっきまで平たかったパンケーキが、手のひらサイズのまん丸な球体に変わっていた。
「ヒナタさんは、いま私が行った工程を省略できてしまうのです……これがどれほど素晴らしいことか、理解できますか?」
「ネリオ師匠……私なんて、まだまだです」
「……ネリオもめちゃくちゃ早かったけど?」
彼は俺たちの反応が新鮮だったのか、少しだけ嬉しそうに表情を緩める。
「ふふ、これでもかなり急いだんです……では準備がありますので、私はこの辺で。夕方ごろ、村の入口まで来てください」
彼はまるで舞台上の指揮者のように、大げさに腕を振って魔術で扉を開くと、静かに部屋を後にした。
……最後のはわざとだよな、普段は手で押して開けてるくせに。
「師匠……素敵です」
「えっ……ヒナタ!?」
マズいぞ……彼女、ネリオのこと好きになり始めてないか!?
「……ユウマ、せいぜい頑張りな」
「婆ちゃん……ネリオが相手じゃ勝ち目ないよ」
助けを求める俺の背中を、ポンポンとからかうように軽く叩いて、婆ちゃんは今日も、ギルド・イノール村支部へ向かっていった。
ヒナタもどこか様子のおかしい俺を気にしながら、畑の様子を見に部屋を出て行く。
ひとり残されたこの静けさが、余計に不安をかき立てるのが嫌で、昨日村人に頼まれた作業へ急ぎ足で向かうことにした。
──その日の夕方、ヒナタやヒルダ婆ちゃんと一緒に、ネリオが指定した村の空き地へ集まった。
近くにいた村人たちも、何事かと様子を見にやって来る。
すでに到着していたネリオは、いつの間にか用意した「爆裂ベーコン入りパンケーキ弾」をずらりと並べて眺めていた。
「今日は特製パンケーキ弾を使って、実演してみようと思います……それでは、少し離れた場所から見ていてくださいね」
「ウォォ……ガルルル」
「うわっ! おい、魔獣だ! しかもいっぱい来てるぞ!」
にこやかに微笑むネリオのはるか後方、村の入口の向こうから、魔鼠や魔狼、さらにはあの魔猪までもが姿を現す。
「大丈夫です、皆さん。落ち着いてください」
「何言ってるんだよ! みんな、家の中に早く避難しろ!」
ネリオ以外が騒ぎ立てるこの広場で、不思議なことに彼の声だけがはっきりと頭に響く。
慌てる俺たちに、彼は片手を軽く挙げ、まるでたいしたことではないと言わんばかりに声をかけてきた。
「ほら、見てください。彼らは近づいて来ませんから」
ネリオの声に振り返ると、彼の言った通り、魔獣たちは村の入口の外でおとなしくこちらの様子をうかがっていた。
「さあ、並んでください」
「え……ネリオ。どういうことだよ、これ」
まさか、彼の言葉を理解しているのか……?
彼の合図に合わせて、魔獣たちはボウリングのピンみたいに、三角形に整列し始める。
その表情は、飼い犬がボールを投げてもらうのを心待ちにしているように、目を輝かせながら期待に満ちあふれていた。
「ネリオ、なんで魔獣が大人しく並んでるんだよ!」
「ふふふ……では、第1投目。重加速魔法3倍」
ヒュンッ――!
村人たちが息を呑んで見守るなか、ネリオは優雅なフォームで軽やかにパンケーキを転がす。
それはまるで狙いを定めたかのように、先頭に並んだ魔鼠のすぐ右側へ到達した。
ドゴォォォン――!
激しい光の明滅と、腹に響くような轟音に合わせて、強い風と煙が渦を巻きながら辺りを包み込む。
「ギャオオオオ!」
「ふふふ……やはり一昨日のパンケーキは、なかなかの焼き加減でしたね、ヒナタさん?」
「本当ですか……!? あの日のは、特にカチカチに焼けてたんです」
「……いや、今はそこじゃないだろ」
吹き飛ばされた魔獣たちは、むくりと起き上がると、トコトコと妙に軽い足取りで元の場所へ戻ってくる。
それがなんとなく楽しそうに見えるのは、気のせいなのか。
「なぁ……俺が言うのも変だけどさ、なんかちょっと可哀想な気がするんだよな」
「安心してください、怪我をしないように調整してありますから。それに……今のユウマさんの感情には、とても興味がありますね」
なんとなく呟いた俺に返ってきたその言葉の意味は、すぐに理解できた。
そりゃそうだよな……魔獣用の武器を用意して、実際にこれまで何体も退治してきたんだから。
「では、今日はこのあたりで終わりにしましょう。皆さんお疲れさまでした、解散してください」
ネリオの言葉を聞いた魔獣たちは、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
不思議なことに、まだ遊び足りないと言いたげにこちらを見ていたけど、やがて諦めたようにトボトボと森へ帰っていった。
◆
魔獣たちが寂しそうに森へ戻っていく姿が、夜になっても頭から離れなかった。
「偽善か……俺も反省しないとな」
冷たい風が頬を撫でる夜の見張り台の上で、隙間なく敷き詰められた星が時折キラリと光るのを見上げていた。
「どうした、ユウマ。魔獣でもいたか?」
「あ……いや、何でもないよ。こっちは大丈夫だから」
同じ見張り当番の村人と背中合わせに座っていたせいで、つい漏らした独り言を聞かれてしまったらしい。
今日の夕方、ネリオが俺に投げかけた言葉は決して責めるものじゃなかった。
でも頭の片隅から離れず、心の奥を小さなスプーンで抉るように、ずっと引っかかったままだ。
常に正しいことをしている、なんて偉そうなことは思わないけど、そうありたいと思って今まで生きてきた。
ふと、ヒナタの声がよみがえる。
「これ、似合うと思って……」
肩には、ヒナタが手縫いしてくれた防衛隊の隊長マントが風になびいている。
少し照れながら渡してくれた日のことを、思い出した。
あのときの彼女の笑顔——俺は、ただそれを守りたかっただけなのにな。
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