第52話 語られざる罪
火にかけられた鍋の湯が、グツグツと音を立てている。
時おり薪が燃え尽き、カランと音を立てて崩れるのを、ヒナタは目を細めて見つめていた。
「私の実家は公爵家で、兄弟は兄がひとり。両親が決めたカイルという貴族のもとへ、数年前に嫁いだの……でも彼の屋敷でも、私の居場所なんてどこにもなかった」
彼女の声は、遠い昔の苦い記憶を噛みしめるように、少しずつ熱を帯びていく。
ぽつりぽつりと、声を詰まらせながら語る彼女の言葉に、この部屋にいる全員がじっと耳を傾けていた。
ヒナタは俺の顔を見て困ったように笑うと、テーブルに残ったパンケーキにそっと手を伸ばす。
「……料理はしたことがなかったの、貴族は使用人に任せるから。まさか魔力が宿るなんて思いもしなかった」
誰も知らなかったら、理解できない現象だろうな……ヒナタは感情が高ぶると、周りに影響が出るみたいだし。
「ただ……」
苦しくて続けられないのか、目を伏せた彼女の頬を、涙がひとつポロリと伝った。
今までもずっと、こうやってひとりで耐えていたのか……。
「ヒナタ、無理しないでいいよ。話したくなった時でいい」
「……大丈夫。子どもの頃から、鏡や窓ガラスが突然割れたりしてたの……屋敷では呪われてるって噂されてた」
過去の影をすくい上げるように、一度あふれ出した言葉はもう止まらなかった。
「……みんな私のこと気味悪がって、遠巻きに見るだけだった。だから結婚も、無理矢理決められたの」
「なるほど……では、その結婚が終わることになった理由は何だったんです?」
……俺も気になったけど、直球だなネリオは。
彼は悪気が無いみたいで気にもせず、ただ単に興味があるだけのように見えた。
「ユウマ……私がこれから話すこと、信じてくれる?」
不安そうに俺を見つめる彼女を、なんとか安心させたかった。
「……俺たちが出会ってからまだ日は浅いけど、ヒナタの話を信じられるぐらいには、もう関係を築けてると思ってるよ」
「当然だろ?」と言わんばかりにイタズラっぽく微笑むと、ヒナタは嬉しそうにはにかんだ。
彼女はそっと涙を拭って、記憶を辿るように静かに言葉を紡ぎ始めた。
「……離縁する原因になったのは、私に着せられた身に覚えのない罪だった」
「罪? 一体どんな?」
膝の上で両手をぎゅっと握りしめるヒナタに、ヒルダ婆ちゃんが淹れ直したお茶を、そっとヒナタの前に差し出す。
「政略結婚だったけど、カイルはろくに顔を合わせようとしなかったの……」
「そっか……それは辛かったな、ヒナタ」
そういう話を知識として知ってはいたけど、こうやって本人の口から聞くと切なくなる。
「彼は最初から私に関心なんてなくて、愛人がいるのも知ってたけど……何も言えなかった」
「……なんだそれ。結婚前から愛人って、ふざけてるだろ」
昔のこととはいえ、腹が立ってどうしようもない。
ヒナタの横顔を暖炉の炎が優しく照らし、壁に揺れる影は、心の動きまでも映し出しているようだった。
「さあ、ヒナタさん。続きを聞かせてください」
ネリオの穏やかな声は、静かに部屋に響く。
だけどその声音とは裏腹に、彼の瞳は興味を隠しきれていなかった。
ヒナタはネリオに目を向けると、少し呆れたように笑ってそっと目を伏せる。
「……カイルの屋敷で事件が起きたの」
言葉の重さに合わせるように、暖炉の薪がパチ、と小さく弾ける。
ヒナタは目を閉じて、あの時の光景を追うようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「愛人が、使用人の男性と書庫に入っていたの。カイルと側近以外は立ち入り禁止の場所で、見つかれば言い逃れできないのに……」
ヒナタは、ため息を漏らした。
「でも見つかってしまって、使用人の男性はとっさに嘘をついたの……『ヒナタ様に呼び出された』ってね」
一気に湧き上がる怒りに、俺は思わず身を乗り出した。
「そんな……ヒナタは何もしてないのに」
「……ありがとう、ユウマ。でも大丈夫、慣れてるから」
「慣れてるって――」
声が荒くなりかけた俺を、彼女は小さく首を振って制した。
すべてを諦めたように寂しげに笑うその顔は、見ているだけで胸が痛む。
「……まったくの濡れ衣だったのに、カイルは私の話を信じようとはしなかった」
「なんだい、その男は……呆れて言葉も出ないよ」
今まで静かに話を聞いていたヒルダ婆ちゃんも、さすがに我慢できなかったようだ。
スマホもネットもないこの世界で、自分の無実を証明するのがどれほど難しいか。
連中への怒りと、どうしようもない悔しさが込み上げてきて、俺は拳をぎゅっと握りしめた。
「……それでどうなったんだ、ヒナタ。それだけで終わってないから、この村にいるんだよな?」
思わず、怒りを帯びた低い声で問いかけると、彼女は怯むことなく唇をきゅっと噛みしめる。
「……カイルは浮気の罰だと、私を屋敷から追い出した。荷物も何も持たせてもらえず、着の身着のままでね」
「それは余りにも酷いですね……ご実家には頼られなかったのですか?」
当然のように浮かんだ疑問を口にするネリオの言葉に、ヒナタは無言で首を横に振った。
「いいえ、実家には戻りませんでした……受け入れてもらえなかったんです」
「実家までもか。ヒナタの話を、誰も聞こうとしなかったんだな」
それでも、家族の話は胸にこみ上げるものがあるのか、彼女は顔を一瞬で真っ赤に染め上げる。
「……真実かどうかなんて、あの人たちには関係ない。面子が大事だから。だから私を切り捨てた」
「自分の娘が行くあてもなく放り出されるって分かってるのに、面子の方が大事とか……」
「……本当に興味深い感情です」
苛立ちと怒りで声を荒らげる俺に、ネリオがじっと視線を向けていた。
「ユウマさんが怒ったところで、得られるものはないでしょう。それでもなお、そうやって拳を握る……実に興味深い行動です」
少し羨ましげに話すネリオの顔は恍惚としていて、拍子抜けした俺の怒りはいつの間にか消えていた。
「でも……ヒナタに魔族の血が混ざってるって、どうしてなんだろうな?」
ヒナタの魔力とはどこか違う深い紅で、ネリオが俺を見る瞳がかすかに赤く光った気がしたのは、気のせいだっただろうか。
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