第42話 告げられなかった言葉
「さっき、食事してる時は言わなかったけどさ、なんとなく森にいる魔獣が強くなってる気がする」
古い望遠鏡を片目に当てて、隣村の丘をじっと見つめるヒルダ婆ちゃんは、俺の言葉を聞いても眉をピクリとも動かさなかった。
「……アンタの話を聞いて、何となくそうだろうと思ったよ。あの場で口にしなかったのは正解だった。わざわざ、あの子らを不安にさせる必要もないからね」
「婆ちゃん、やっぱり気が付いてたんだ」
「そりゃそうさ……ほら、反対側を見てきな」
差し出された望遠鏡を落とさないようにそっと受け取って、小さな覗き口からかすんだ遠くをのぞくと、さっきとは反対側にある小さな村の狼煙用の煙突が見えた。
よし、煙は上がってないみたいだな……。
「でも望遠鏡って、こっちに来てから初めて見たけど、普通に売ってるんだ?」
「ああ……それはアタシの持ちモンだよ。思ったより便利でね、実家にあったのをもらったのさ。古いヤツでも市場で買おうと思えば、そこそこ値が張るだろうよ」
へぇ……ヒルダ婆ちゃんの実家って結構裕福だったのかな。
「よし……お喋りはこの辺にして、そっちは大丈夫だね? イデルが戻ってきたから、今日はギルドに依頼がいくつか来てるはずだよ」
「大丈夫かな……この前の依頼もギリギリで達成はできたけど、不安でいっぱいなんだよな」
イノール村での暮らしにも、少しずつ慣れてきた。
冬の間、わずかな望みにかけるように何度も森へ通う俺は、滑って怪我をしたり、何回も同じ場所に戻されて泣きそうになったりしていた。
でも回数を重ねれば、道も飛び出た木の根の場所も覚えてしまうもので、人間の習慣や慣れって本当にすごいなと改めて実感してる。
イデルさんが、俺にもできそうな依頼を街のギルドで受けてきてくれるから、少しでも収入になればと思って、森に入るついでにコツコツとこなしていた。
この村には俺たちふたりを除いて、今は見張りの男性数名とイデルさん、あとは女性と子供たちしかいない。
依頼を受けられる人間がいないもんな……。
春になれば出稼ぎに行っている男性たちが戻って来るから、その収入とほんの少しの作物で、今まで何とか生活していたらしい。
「結局ユウマが依頼を片付けちまうから、イデルも意地になってるところがあるんだろうねぇ」
「いや、そんな意地張られても困るって。毎回、結構命懸けだから」
少し歩いて到着した場所は、朝日が差し込む村の中心──といっても、古びた一軒の木造建築がぽつんとあるだけ。
そこが、村唯一の冒険者ギルドだった。
イノール村支部、と直接ペンキのような物で書かれた、妙に軽い扉を押し開ける。
「……今日も誰もいないな」
「何回言わせんだい、黙っときな。そのよく回る口を、ちょいと縫って閉じて欲しいのかい?」
ヒルダ婆ちゃんは部屋に置いてある椅子に座ると、目の前のテーブルの端に置かれた依頼書の控えを1枚手に取って、俺の方へよく見えるように差し出した。
「ほら、見てごらん。これは、アンタがこなしてきた依頼だ。ここに達成した日付が書いてあるだろ?」
「婆ちゃん、これ字が汚すぎて読めない」
「お黙り、まったく……いいかい? 日が経つごとに、この数が増えてるんだ。それだけアンタの実力も上がってるってことさ、もっと自信持ちな」
そう言ったヒルダ婆ちゃんが、ポンと机の上に無造作に投げたのは、しわくちゃの紙の束だった。
「今日の依頼はこれだよ。この中から選びな」
え……これ、10枚以上ないか?
どんどん枚数が増えていってる気がする……。
俺は、イデルさんが持ち帰った依頼書のシワを丁寧に伸ばして、内容を確かめた。
「ええと、どれにしようかな――」
手に取ってパラパラとめくると、「成分不明の粘液の仕分け」「老犬・タロウの散歩」「魔狼のヒゲ収集」などの、なんとも言えない依頼がずらりと並んでいた。
「相変わらず地味なのに、散歩以外は危険な香りがプンプンする……しかもこの老犬って、隣村で飼ってる犬だよな?」
「ああ……でも今回の依頼で命を懸けなきゃいけないのは、この散歩だ。なにしろ老犬のタロウは、この前依頼を受けた男のズボンを完全に破いたからね、S級依頼だよ」
「え……そ、そうなの?」
タロウの散歩は、エイドみたいな強い冒険者じゃないと厳しいってことか……。
とはいえ、俺はこの村にお世話になってる恩を返したい。
何でもいい、とにかくやれることはやってみるさ。
そう決めたから、全ての依頼書に手を伸ばして、しっかりと握りしめた。
「よし、全部やってみる」
「いい心がけじゃないか……じゃあ、まずは魔狼のヒゲを集めてくるんだね」
こうして俺の、イノール村での生活は慌ただしく過ぎていく。
村人たちは相変わらず優しかったし、婆ちゃんは絶妙に放任しながら見守ってくれていた。
この日の依頼書を抱えて出ていこうとした俺に、ヒルダ婆ちゃんがふと思い出したように声をかける。
「それと、ヒナタなら畑の方にいるだろうから、声をかけてやりな」
「うん、分かった。じゃあ、行ってきます」
ニヤリと笑って片眉を上げるヒルダ婆ちゃんに背を向け、隙間だらけで外がよく見える扉を開く。
薄らと雪は積もっているけど、そこには晴れ渡る空と、小鳥のさえずりが響き渡っていた。
こっちに来るまでビルに囲まれて暮らしていた俺は、村を包む緑を目にするたび、体中の酸素を入れ替えるように深呼吸を繰り返す。
こういうのを、心が洗われるって言うんだろうな……。
満足するほど酸素を体内に取り込むと、少し離れた場所へ目を凝らした。
日差しを受けて、キラキラと輝く銀髪が印象的な彼女を見つけて、胸の奥が熱くなる。
ふたりで話したいことがたくさんあり過ぎて、俺は彼女に足早に近づいた。
「おはよう、ヒナタ!」
「ユウマ、もう森から帰ってたの?」
「あはは……魔兎に追いかけられてさ。逃げる時に、ヒルダ婆ちゃんに借りた鎌も落としちゃって」
「ふふふ、ユウマらしいね」
白い息を吐きながら呆れたように笑う彼女は、時間をかけてやっと成長した畑の作物を収穫していたらしい。
歩くたびに、霜で固まった土の上の落ち葉が、サクッと足元で音を立てる。
「あとで、ユウマのところにもおすそ分けに行くね」
「本当? 助かるよ、ありがとう」
彼女が収穫した作物を、ふたり並んで運びながら、何気ない会話に心がほぐれていく。
「ユウマ、あのね……」
ついさっきまで無邪気に笑っていた彼女が、ふと真剣な顔つきになって足を止めた。
そして、俺の表情を探るようにじっと視線を向けてくる。
あれ……どうしたんだろ?
「私、あなたに話しておきたいことがあるの」
「ん……大事な話?」
俯いていた彼女は、何かを決意したように顔を上げると、最初の言葉を紡ごうと小さく息を吸った。
ふたりの間を流れる風が急に冷たくなって、少しだけ小さな不安が胸に湧き始める。
遠くの森の方でざわついていた鳥たちの羽ばたきが、耳に届かなくなっていた。
「わ、私ね……実は、けっこ――」
カンカンカンカン――!
村中に響き渡る、空気を引き裂くような音に、さっきまで囀っていた鳥たちが一斉に飛び立った。
「魔獣だ! みんな、家の中に戻れ!」
村の入り口近くに掛けられた薄い木の板を、見張りの村人の男性が激しく叩き続ける。
俺の心臓が大きく跳ね、警鐘に共鳴するように早鐘を打ち始めた。
「ヒナタ! すぐに逃げないと!」
「ダメ! せっかくここまで育てたのに!」
彼女は震える両手で持っていた鎌を体の前に構えると、少し離れた場所にいる魔獣をじっと見据えた。
「やっと収穫できるようになったのよ……めちゃくちゃになんて、絶対させないから!」
ダメだ……早くここを離れないと、ふたりとも大怪我をする。
俺はヒナタの両手を強く掴むと、鎌を無理矢理奪って畑に放り投げる。
すぐに彼女の腰に腕を回し、まだ残る痛みに耐えながらもそのまま抱き上げて、近くの家まで全力で駆け抜けた。
「離して……離してよ、ユウマ! 畑が……!」
「何言ってんだよ! 死ぬってば!」
泣き叫んで俺を叩くヒナタの声は、怖さというより悔しさに満ちていた。
俺だって気持ちは同じだけど、それでも今は守ることしかできない。
震えるようなヒナタの声も、腕にかかる重みも、俺の焦りを募らせていくだけだった。
息が苦しくて、呼吸もままならない……喉の奥が焼けるように熱い。
「早く……ふたりとも! こっちだよ!」
村の女性が開けてくれていた家の中に飛び込むと、彼女はすぐに扉を閉めて鍵を掛けてくれた。
俺たちは素早く窓の下の壁際へ移動して、身を隠す。
荒れる息をなんとか押さえながら、人差し指を唇に当てて、まだ震えの残るヒナタに静かに合図を送った。
ピンと張り詰めた空気とは裏腹に、外から差し込む明るい日差しは、窓の形をきれいに映し取って部屋の床をやさしく彩っていた。
まるで何事もなかったかのように室内を照らして、俺はそれをかえって異様に感じた。
「チラッと見えたけど、あの大きさ……魔鳥だったよな。だとしたら絶対に音を立てちゃダメだ、気付かれる」
この部屋の中にいるのは、さっきの女性を含めて俺たち3人だけ。
窓の外から、重たく湿った土をぐしゃりと押し潰すような音が、ゆっくりと近づいてくる。
人の足音じゃない。
もっと大きくて、異様に間延びしていて……それが一歩ずつ、確実にこっちに迫ってきていた。
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