第40話 小さな命と、ひとつの決断
ああ、寒いな……布団から出たくない。
芯まで冷えるような寒さに重い身体は言うことを聞かず、俺は毛布に潜ってしばらく耐えていた。
「あれ……ここはどこだ?」
目を開けると、丸太を積み上げた壁が目に飛び込んでくる。
差し込む光の中、小鳥のさえずりが聞こえるそこは、俺の知らない部屋だった。
「……そうだ、ロゼッタさん!」
「おや、起きたのかい?」
声の方に視線を向けると、あの威勢のいいお婆ちゃんが、椅子に座ってスプーンで何かを混ぜていた。
声をかけようと身を起こした瞬間、背中に鈍い痛みが走る。
「イテテ……あの、ここは?」
「アタシの家さ。アンタ、ひどい目に遭ったみたいだねぇ」
まだ痛む上半身をどうにか起こすと、彼女は顎でベッド横の小さなサイドテーブルを示した。
「そこに水があるから、喉が渇いてるなら勝手にお飲み」
「あ……ありがとうございます」
水をコップに注いで飲み干すと、ようやく昨日から水分を取っていなかったことに気付く。
「あの、ロゼッタさんは?」
「元気な男の子を産んだよ。安心しな」
ああ、良かった……彼女の言葉に、安心して強張っていた肩の力が抜けた。
「ほら、これでも食べて元気を出しな」
差し出された皿には湯気の立つスープと……ほぼ真っ黒焦げのパンケーキのようなものが乗っていた。
「いただきます……」
スープは温かくて美味しかったけど、パンケーキはフォークが刺さらない。
手で割って食べた瞬間、俺の歯が悲鳴を上げた。
「……これ、かなりカチカチですね」
「やっぱりそうかい。レシピ通りに作らせたんだがねぇ……」
誰が作ったんだろう……ある意味すごい才能だけど。
こうして俺の戦いの翌朝は、固すぎるパンケーキと、優しい看護で幕を開けた。
「ごちそうさまでした。お婆さん、ロゼッタさんの様子を見に行ってきていいですか?」
「ああ、向かいの家にいるから行っておやり……それとアタシはヒルダだ。村の連中からはヒルダ婆ちゃんって呼ばれてる」
彼女はそう言って、優しく送り出してくれた。
すきま風が吹き込む、つぎはぎだらけの木の扉を開けると、日差しはあるのに空気はやけに冷たい。
屋根には薄く雪が積もっていて、村全体が凍りついているみたいに静かだった。
昨夜、幌馬車から見えた、真っ暗な道に浮かぶこの村の灯りに、どれほどほっとしたことだろうか。
向かいの小さな家の扉をノックすると、少し間があって「どうぞ」と声が返ってくる。
中にはベッドに横たわるロゼッタさんと、生まれたばかりの赤ちゃんがいて、揺りかごの中で小さな胸が上下していた。
「……来てくれたんだね、ユウマ。昨日はありがとう、アンタが無事で安心したよ」
「それはお互い様ですよ。わぁ……赤ちゃん、小さいですね」
彼女は我が子の頬を、愛おしげに人差し指でそっとなぞり、手招きして俺を呼び寄せる。
「男の子なんだけど、イデルがずっと名前を考えててね。決まったと思ったら寝ちまったみたいだ」
イデルさんは、ベッドの反対側に置かれたテーブルに突っ伏して眠っていた。
「相当疲れているみたいですね、風邪をひかないようにしないと……」
俺はそばに置いてあった薄手のタオルケットを手に取り、彼を起こさないようにそっと掛ける。
背後から小さな足音がすると、リリィちゃんが両手にコップを持って、慎重に歩いて来るところだった。
「ママ、赤ちゃん泣いてない?」
「大丈夫よ、リリィ。ほら、お兄ちゃんも来てくれたよ」
「あ、ユウマちゃんだ!」
彼女は俺の顔を見るなり、嬉しそうに笑顔を見せる。
「もう痛いとこないの?」
「うん、すっかり良くなったよ。心配かけてごめんね」
5、6歳くらいだろうか……。
少したどたどしい話し方と、周囲を惹きつける天使のような笑顔が、幼児ならではの愛らしさを漂わせている。
手に持ったコップをロゼッタさんへ手渡すと、すぐに俺の手をとって赤ちゃんの近くへ引っ張っていった。
「見て、可愛いでしょ?」
小指よりも小さな指が、差し出した俺の指をぎゅっと握り返してくる。
壊れそうで触れるのが怖くて、でもなんだか嬉しかった。
結局俺はそのまま、いつまでも赤ちゃんのそばを離れなかった。
「……アタシら、明日には街に戻るつもりなんだよ」
「え!? でも生まれたばっかりでしょう?」
ロゼッタさんの一言に、俺はただ彼女の顔を見つめることしかできなかった。
「だけど、イデルの仕事もあるからね……それにやっぱり、家族は一緒がいいだろ?」
彼女の言葉には何の迷いも見られなくて、むしろそれが当然だと思っているみたいだった。
「……ちょ、ちょっと待ってください」
少し言葉が強くなってしまったけど、俺だって知ってる……いま無茶をすれば、体に後々まで影響が出るかもしれないって。
「今、歩くのも辛いはずなのに街まで戻るなんて……無理をしちゃダメですよ」
「でも、それだと家族がバラバラになっちまうだろ?」
不穏な空気を察したのか、リリィちゃんは俺を不安げに見つめている。
ちょうど目が覚めたイデルさんは、寝ぼけた顔を上げ、周囲を見回していた。
「命を懸けて赤ちゃんを産んだんですから……あなたも自分を雑に扱わないで欲しいんです、お願いですから」
ロゼッタさんはリリィちゃんの頭を撫でながら、黙り込んでしまった。
俺たちのやり取りに、イデルさんも何か言いたげな顔をしていたけど、結局何も言わなかった。
「アンタがそう言うんじゃ仕方ないね……わかった、もう少しだけこの村でお世話になれるよう、お願いしてみるよ」
「すみません、偉そうなことを言って……」
「ははは、今さらかい?」
さっきまで強気だったくせに、急にしおらしくなった俺を見て、ロゼッタさんは思わず吹き出す。
結局、イデルさん以外は村に残ることで話はまとまった。
あの揺れる馬車で、生まれたばかりの赤ん坊を連れて移動するなんて心配すぎる。
リリィちゃんは村に残れるのが嬉しかったのか、また明るい笑顔を見せてくれた。
「まずは、一番詳しそうな人に話を聞いてみるとするか……」
俺だって、今回の目的が命の泉だってことを忘れたわけじゃない。
しばらくリリィちゃんと赤ちゃんの相手をした後、またヒルダ婆ちゃんの家を訪ねた。
「命の泉だって!? あれは、今は無理だね」
「どういうことですか……?」
「今の時期は無理だね。初夏にならないと、泉は分厚い氷で覆われたままなんだよ。このイノール村の辺りは、かなり冷え込むからね」
思い描いていた希望が一瞬で崩れ、胸の奥がひやりと冷えていく。
つまり、命の泉を探し当てたとしても、氷が溶ける夏の手前まで待つしかない。
「他に方法はないんですか?」
「今はないね……潔く諦めな」
呆然と立ち尽くす俺の頬を、たまに壁の隙間から入り込んでくる、外の冷たい空気が撫でていく。
どうする……半年もここで待つのか?
彼女の言う通り何もできないなら、できることをしながら待つしかないのか。
「分かりました……でも、夏までにできることは全部やります」
そうヒルダ婆ちゃんに伝えると、吹き込む冷たい空気に白い息がふわりと漂った。
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