第37話 誰にも知られず、静かに
「それよりミレイユさん、あっちの店はいいんですか?」
彼は、俺が通い詰めていたレストランの、雇われ店長さんだった。
「こっちが忙しくなったから、雇い主にお願いして、向こうの勤務時間を短縮してもらったの。それにお店の子たちもみんな手際がよくて、次の店長候補は順調に育ってるわ」
「そうでしたか、じゃあこっちのお店に集中できますね」
ミレイユさんは数年前からここを借りて、細々とカフェを営業していたそうだ。
だけど路地裏にあるせいで、なかなかお客さんが来ない。
ここの賃料を払うために、レストランの雇われ店長をしていたらしい。
ミレイユさんがこのカフェを閉店するか迷っていたから、せっかくなら最後に好きに改装してみたらどうかって提案しただけ。
なるべくお金を掛けず、ミレイユさん自身の努力で、ここまで店を繁盛させることに成功した。
食事が目的だけじゃなく、目で見て楽しめる店は、この街では見かけない。
キラキラした可愛いものに惹かれる人が多いのも事実だ。
ミレイユさんの天真爛漫な笑顔は、女性ばかりのこのカフェの中でも違和感がないし、小さなネコの飾りを眺めながら盛り上がって、楽しそうにお喋りしている彼女たちは微笑ましい。
「最近ご無沙汰だったわね。忙しかったの?」
「そうなんですよ……セリナ村っていう場所に行ってました。明日からまた出掛けなきゃいけないので、ここならミレイユさんに会えるかなと思って来てみたんです」
自分で言っていて、なんだか少し寂しくなる……しばらくはミレイユさんの料理も味わえない。
「あら、そうなの? それは残念ね……帰ってきたら必ず遊びに来てね?」
「ええ、もちろんです」
名残惜しそうに小さく手を振るミレイユさんに手を振り返し、カウンターで待つお客さんの元へ戻っていく彼を見送りながら、ようやく一息つくことができた。
◆
街の灯りがひとつ、またひとつと消えていくなか、俺は闇に紛れながら、そっと教会の門をくぐる。
石造りの教会は、昼間とは違う静寂に包まれていて、足音ひとつにも祈りが染み込んでいるようだった。
与えられた自分の部屋に静かに戻ると、明日に備えて、食料や日用品をリュックに次々と詰め込んでいく。
「あ……この短剣も、まだ返せないよな。明日は朝早いし、オラロワ支部長に次会う時まで俺が預かっておくか」
レブラン副部長が、わざわざこんな高そうな物を新人君に渡したってことは、何か裏があるに違いない。
奴らを法廷に引きずり出せる、その時までには、絶対に真相を突き止めてやる。
俺は固い決意を胸に秘めながら、夜の寒さで冷えたベッドに身を横たえた。
◆
「ユウマ君、やっぱり行くのですね……決心は変わりませんか?」
目の前のセルジオ神父は手を組んで、俺が言葉を発するのをじっと静かに待っていた。
その沈黙は息苦しいものではなくて、彼の気遣いを感じさせるように、じんわりと辺りを包み込む。
「はい。俺は今、自分にできることをしたいんです」
明け方より少し早い時間――まだ鳥の鳴き声さえも耳に届いてこない、夜と朝の間。
荷物をまとめた俺は、静まり返った教会の一室で、セルジオ神父とテーブルを挟んで、向かい合わせに椅子に腰掛けていた。
窓の外にはまだ黒く真っ暗な夜が残っていて、遠くの街灯が黄色くにじむようにぼんやりと光る。
あと数時間もすれば少しずつ空は白み、この暗さもほどけるように消えていくだろう。
「……そうですか。イノール村――最果ての村と呼ばれていますが、ここからかなりの距離があります。どうか準備だけは怠らないように。いいですね?」
「はい……それと、これをお返ししたかったんです」
握り締めていた手のひらの中で、冷たい金属が小さく揺れる。
長い間、肌身離さず持っていたはずなのに、こうして手放すのは意外なほどすんなりとできた自分にも驚いた。
俺はそのペンダントをテーブルの上に置き、そっと神父の方へ押し出す。
「おや、これは……」
「今まで本当にありがとうございました。俺は、この力と共に生きていきます」
もう誰かの背中に守られてばかりじゃない……痛みも迷いも抱えたまま、自分の足で歩いていくと決めた。
この小さな飾りに込められていた祈りと、俺自身の意志を、これからの道しるべにして。
受け取ったセルジオ神父は、懐かしそうに目を細めながら、指の腹でペンダントを撫でる。
「……あなたの選んだ道が導いてくれるでしょう。私たちは、いつでもここで待っています。帰ってくる場所があるということを、どうか忘れないでください」
「はい。俺は、必ずここに戻ってきます……それまでどうか、お元気でいてください」
立ち上がって深々と礼をして顔を上げると、そこには変わらぬ神父の穏やかな微笑みがあった。
上半身ほどもある大きなリュックを背負うと、その重さがここを離れたくないという気持ちを湧き上がらせて、俺の決意を揺さぶってくる。
「……じゃあ、行ってきます」
何とかそれを振り払って、教会の扉へ向けて無理矢理一歩を踏み出した。
「うわ……寒っ。もうすぐ冬だな」
背後で教会の扉が、鈍い音を立てて閉まる。
その音が、ここから切り離される合図のように聞こえた。
暗闇の中で、ほんのりと頼りなく薄く辺りを照らすだけの、まばらに設置された街灯の灯りは、姿を見られたくない俺にとっては好都合だった。
ありがたいことに、この世界というかこの地域には、四季に近い気候があるらしい。
俺がこの世界で知っている場所は、この街とセリナ村ぐらいしかない。
それでも生まれ育った場所と似た空気があるだけで、どこか安心する自分がいた。
「えっと、どっちだっけ……こっちかな?」
ここから最果ての村へ直接向かうには、たいていの人が馬車を使うらしいけど、俺はそうじゃなかった。
セルジオ神父がいつの間にか手配してくれた、行商人一家の幌馬車に同乗させてもらうことになってる。
……村の近くまで送ってくれるってことだけど、知らない間に話が決まってて驚いたな。
「セルジオ神父の手際が良すぎる気もするけど、今は甘えておくか……実はかなりのやり手だったりして」
指定された場所は、見慣れた乗合馬車の停まる場所じゃなくて、街外れの静かな街道沿いだった。
しんと静まり返った家々とは対照的に、普段は気にも留めずに通り過ぎる近くを流れる川の音だけが響いている。
その道の先に、ぽつんと寂しげに佇む一台の幌馬車が、俺を待ちわびているのが目に入った。
「すみません、お待たせしてしまいましたか? 今日はよろしくお願いします」
「おお、来たか。ちょっと狭いんだが、そこは我慢してくれ」
御者台に腰掛けていたのは、火の消えた煙草を指先で弄ぶ青年だった。
彼は気さくで、イデルと名乗った。
トレードマークらしいハンチング帽を左手でかぶり直すと、ニッコリ笑って後ろから荷台に乗るように促してくる。
幌馬車なんて初めてだったから、俺は足を踏みはずさないように慎重に乗り込んだ。
「おや、来たかい」
荷台にはイデルさんの妻のロゼッタさんが大きなお腹を抱えて待ち構えていて、娘のリリィちゃんは、屈託のない笑顔で俺の手をグイグイ引っ張って、荷台の奥へと案内してくれる。
荷物でいっぱいの荷台の隙間にどうにか身体を押し込んで、大きな木箱の陰に身を潜めると、やっと一息つけた気がした。
「ありがとう」
目の前で仁王立ちしてるリリィちゃんに笑顔を返すと、彼女は少しはにかんで俺の隣にちょこんと座った。
寒いのか、小さなほっぺが少し赤くなっている。
だけど妊婦さんって、馬車に乗ってて大丈夫なのかな……結構揺れると思うんだけど。
馬車が少し揺れるたびに、俺は思わずロゼッタさんの様子を確認してしまう。
でも彼女は平然とした顔で毛布を直したり、リリィちゃんを気遣ったりと、この揺れにも慣れているようだった。
俺は乗せてもらったせめてものお礼として、リリィちゃんの遊び相手を全力で務めさせてもらった。
疲れた……子供ってホント元気だ。
ぐっすりと眠り込んだ小さな彼女の背中を、ゆっくりと優しくさすりながら、昨日の教会での出来事を思い出す。
本当は堂々と馬車に乗ってこの街を後にする姿を、あいつらに見せつけるつもりだったのに、セルジオ神父にやんわりと止められてしまった。
「途中で馬車が襲撃される可能性がないとは言えないでしょう?」
「街を出て行く俺に、そこまでしますかね……?」
「まあ……用心するに越したことはありませんから」
彼がこれまで見せたことのない表情を、ほんの一瞬だけ見た気がしたのは、俺の気のせいだっただろうか。
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