第65回 「扉を挟んで向こうとこちら」
高坂を一人席に残して、トイレへ立ったきゃみさまを追う。
こんなときは少し煩わしい、長いスカートにもたついて。
とっさの動きに、膝あげて走ろうとする癖がまだ残ってるのに、今はため息しかなく。
高坂だって傷ついてる。
それを一人残していくのに、躊躇いはあって。
でも席を立ったきゃみさまの、わずかな、鼻をすすり上げるような音。
あの女性はいつも、うまく。かくして。
でも、あれ、たぶん。
泣いてた。しゃくりあげてたんだ。
見られたくなくて、席を立った。
そんなの! 放っておけるわけが……!
◇◆◇◆◇
喫茶店"ソラリス"の女子トイレ。
他の客の姿はなく。ついでに言うときゃみさまの姿も。
いや、一番奥の個室。だけ、しまってて。
嗚咽。声を殺して泣く、か細い声。
ゆっくり近づいて、扉に背を預ける。
「きゃみさま」
「!」
扉越しに、話しかける。
息を呑む様な、音。泣き声が止んで。
「なんで、来たの」
「そりゃ、来るよ」
「フユキ君のとこに……ぐす……居てあげなさい、よ」
「いまは、きゃみさまの方が、傷ついてる」
少しだけ、間があって。
「──見くびらないで」
「でも、きゃみさまは、女の子じゃん」
「今は、フユキ君だって……」
「女の子……なのかなぁ」
「どっちにしろ、私、きっと嫌われた……」
「なんで、あんなこと言ったの。俺なら、別に──」
「アタシが! 許せないからよ!」
「!」
「好きよ。フユキ君のことは好き。だけどそれ以前にアタシはアタシの友達を傷つけるやつを絶対に許さない」
「彼が、アンタを傷つけるなら、アタシは天秤にかけなきゃいけない。それを許したら、アタシはアタシで居られない」
「居られない……だけ」
「きゃみさま……」
少しだけ荒げた息遣いが聞こえて。
彼女は、土壇場で、俺の"味方"であった。
味方であることを選んでくれた。
茫漠曖昧な"正しさ"ではなく"敵"か"味方"か、だ。
なら、その気持ちには答えたい。答えねばなるまい。
俺が正しく無くても。彼女が間違っていたとしても。
俺は彼女の味方で居よう。
でも、先ずは。
「ありがとう、きゃみさま」
「…………」
「ありがとう」
「ねぇ、きゃみさま」
「…………」
「"嫌われた"っていうけど。俺たちの知ってる高坂は。そんな奴かな」
「…………」
「きっと嫌われた、って、ことは。そうじゃないかもしれない。ねぇ。決めちゃうの、早いんじゃない?」
「でも」
個室の中できゃみさまが身じろぎ。
扉越しに背中合わせるような気配があって。
「でも、フユキ君は"女の子"だったんでしょ? じゃあもう芽がないじゃん。アタシ、アタシも、もう女の子なの。戻ろうったっていまさらくっつかないの。取り返し、つかないの。後悔したってどうしたって、今さら男の子には戻れないもん」
涙声。
それに、俺は。
「女の子、なのかな」
「そうでしょ。あのパス度よ?」
「ぱ、ぱす……?」
「ええと。もう、他人からの認知の女性具合っていうかぁ……」
「ああ、そういう」
「調子狂うわね。アタシ、いまめっちゃ泣いてんだけど」
「うん、しってる。ねぇ、きゃみさま?」
「なによ」
「顔、見せて」
「アンタねェ!」
個室の戸が開く。
文句のひとつも言ってやるって感じの。
泣きはらした顔をさらに歪めたきゃみさまが。
何を言うより先に。
抱きしめる。ハグするって言うか。
俺は元男だし、きゃみさまもそうだけど、俺から見たらただただ美少女にしか見えないし。
女の子を抱きしめるなんて、そんな大それたこと、いつもならできないんだけど。
ただ、どうやったら、安心するかなって。
どうやったら、こんな俺に、この人の涙を止められるのかなって。
「ねぇ、俺たちの知ってる高坂は、たったあれだけで嫌いになるようなちっちゃい奴かな。俺の知ってるきゃみさまは、相手の性別ひとつで、いきなり諦めちゃうような簡単なヤツだったかな」
「なっつん……アタシ……アタシ」
俺のほうが背が低いから、何だか俺のほうがしがみ付くようなカッコになっちゃうんだけど。
でも、いつかの帰り道で、彼女がそうしてくれたように。
彼女が泣き止むまで。
泣き止むまで、ずっと。
◇◆◇◆◇
「なにか、誤解があるようだけど……」
そう言って、実に苦々しい顔をする、高坂。
あのあと、俺だけこっそりトイレから抜け出して、店員さんに頼んで温かいお絞りを持ち帰る。
ほぼほぼすっぴんの俺の時ならともかく、化粧を拭えばそれなりに布地を汚すだろう。
女性の店員に"友達が化粧したまま泣いちゃって"と、言い訳すれば。
若い女性の店員はにこりと笑って"ダメにしちゃって良いですよ"って。
──ありがたい。
戻った時にはもう、きゃみさまは鏡の前に居て。
"泣くとバレちゃうのよ"
そんな風に言っていた。
泣き痕を残す彼女は、それでも凛とした顔で。
嗚呼、本当に、強いな。この女性は。
ほどなくして、完璧に泣き痕を隠し、化粧を整えたきゃみさまと、高坂の待つ席へと戻る。
"さっきは言いすぎた、ごめん"
"いいんだ、嘘をついてたのはホントだから"
みたいな話から始まって。
その姿が"本当"の高坂なら、今まで言い寄ってたのは迷惑だったね、それもごめん。て。
つまり、高坂がホントは女の子になりたい男の子だったってんなら、女のきゃみさまに好きって言われて、困らせてたんじゃないか、みたいな話になった時。
高坂はふと、キョトン顔というか、一瞬呆けたような顔になって。
で、シーン冒頭の台詞。
「──なにか、その、すごいすれ違い、と、いうか」
「うん?」
高坂はなんというか。
すっっっげぇばつの悪そうな。
あちゃー。みたいな。
そんなやらかし顔で。
その目線は迷い迷って。
すっかり汗をかいて、テーブルに水たまりを作る、アイスコーヒーのグラス。
そのストローに口を付け、最初のすました飲み方は何処へやら。
ズ。と、音を立てて吸い上げ、ぐびりと喉を鳴らす。
──相当な動揺が、その所作から見て取れて。
やがて重い口を開く。
「僕、女の子になりたいわけじゃ、なくて」
「「へ?」」
きゃみさまと二人、素っ頓狂な声を上げてみれば。
高坂はちょっと顔を赤らめて、咳払い。
なんていうか、人って化けられるもんなんだなって言うか。
いや顔面そのものは確かにいつもの高坂なんだけど、元々女顔なのもあるけど、カツラ……ウィッグっていうの? 長い髪して、セーラー服着てるだけでめっちゃ可愛い、な。
って言う感想も束の間。
衝撃の発言に俺もきゃみさまも目が点。あんぐりと開けた口が塞がることを知らず。
「え、と。性自認は男性、です。ただ、可愛い格好がしたいというだけで、その、恋愛対象も、普通に女性、です」
実に。言いにくそうに。
眼を泳がせ、逸らし逸らせて。
何ならもじもじと赤面して言うその姿は実に可愛らしく。それゆえタチ悪く。
今更。今更だよ。っていう俺たちの無言の非難を一身に浴びて。
対面の席で一人小さくなりながら、高坂。
や。
ややこしいっ!!!!!
こう、やり場のない気持ちを精一杯顔面に出して、沈痛な面持ち。
俺ときゃみさまは、すっかりぬるくなった各々の飲み物を一口、啜るのであった。




