第25回 「神谷 夏日子」
「──さん! 神谷さん! 」
びくり。と。
店長の声で我に返る。
気が付けば。吐き気を伴って、口を押えて、レジ裏の床にへたり込んでいた。
客が。男性が自分に言い寄る行動の根幹に"性欲"を感じて、愕然とした。
「大丈夫?」
聞かれ、しかし吐き気に口が開けず、首肯してみせる。
「──ごめん。もしかして対人業務に、何か嫌な思い出でもあった?」
「そういう……わけじゃ……すみませ……ん」
言いつつも。
気持ち悪い。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
なんで俺がそんな目で見られなきゃいけない?
いやこれも自意識過剰だろうか。
きっと悪気なくやってる。
彼等にとって"だったらいいな"くらいの期待度で、日ごろから思ってて。
「う」
一度、大丈夫、というか無事を確かめる問いに首肯しておきながら。
いよいよ吐き気が収まらず、店長の脇をふらつきながらすり抜け、トイレへ駆け込む。
スタッフ用がわからず、客用のそれへ。
個室まで持たず、手洗い場に取り付きざま、嘔吐した。
「ぉ え え ぇぇ ぇ 」
人の視線が気持ち悪くて吐くとか。
"なんて無礼なヤツ"と思われただろうか。
"そのくらいのことで"と思われるだろうか。
弱すぎだろうか。潔癖だろうか。それは世の男性の、ある程度仕方のない所作にも我慢が出来ないという"傲慢"だろうか。
でも、なんならいま、はじめて。
自分が"そんな対象"になっているかもしれない、と、自覚した。
それに、耐えきれない自分が居た。
「は ぁ 」
夕食前、それほど胃に何か残っていたわけでもない。
でも嘔吐感の理由が理由だけに、胃の中身を吐き切ったところで吐き気が収まる訳でもなく。
「まず──」
「!」
「──全部、吐いて」
いつの間にか、店長。
洗面所の鏡に映る姿で。
なんで。と思うものの、余計な問答してる余裕もない。
「も でませ ん」
「なら、場所変えるよ。スタッフルームまで歩けそう?」
「はい……」
「急かして悪いんだけど、ここ──」
「──男子トイレ」
◇◆◇◆◇
「…………──」
本屋の裏の事務所スペース。
面接ん時にも座った安っぽいソファ。
だいぶ憔悴して。ハンカチで口を押さえながら息を整える。
ハンカチ──なんて、いつも持っとけ、とかきゃみさまに言われて、実際トイレで手ェ洗った後以外で使う事になるなんて。
「少しは落ち着いたかい?」
他のアルバイトにレジ打ちを引き継いだらしい店長が、追って事務所に入ってくる。ローテーブル越しの反対側のソファに腰を下ろして。
「すこ しは」
「返事無理にしなくていいからね」
店長。やさしい。
出会い頭に人を胸から見てくるような男が、例外なくクソかっていうと、そうでもない。大体の人は常識人だ。
だとすれば"ああいう視線"は人間社会において普通の事なのだ。
俺だけだ。
俺だけが過剰反応してるんだ。
そう思うとなんだか惨めな気持ちになって、じわり、と、視界がにじむ。
恥ずかしい。こんなところで。ほぼほぼ他人相手に。
「えー……っと」
店長は迷った風に、少し、どもって。
そんな店長に。伺う様に、覗き込むように上目遣いになる自分にも、呆れて。
「俺……解雇、ですかね」
その言に、何かを迷う風だった店長は、それを一旦さて置いたように。
なんか"なんでそうなんの?"みたいな意外そうな顔して目を見開いて。
その後なんかヤレヤレって感じに溜息を吐いて。
「"俺"……ね。まぁ、神谷さんがこんなとこもういやだってんなら、止める権利はないけど」
「!」
その物言いには逆に俺が驚いて。
なんで。迷惑かけた。こんな扱いづらいことが分かったアルバイトひとり、普通は──
「なんで……あんなことになって、怒ってるんじゃ……」
何とかそう返してみれば。
店長はなんか、こう、方眉をキュィっと上げてへんな顔になったかと思うと
「──おいこら現代人」
「え」
「ったく。人間社会の悪いとこだけ見過ぎだ。今回の件は"そういう采配をした上司"である僕の責任。トラブルで空いたシフトの穴埋めに入ってくれそうなスタッフを、日ごろから揃えておくのも僕の仕事」
「そんな」
「むしろ謝らなければならないのは僕の方だよ。適性を見抜けず、安易に神谷さんをレジへあてがった。その結果は全て"責任者"たる僕のモノだよ。ウザ絡みされてるその時に止められなくてすまなかった」
「でも──」
「──おい、お嬢さん」
「……この、吉沢店長を、見くびってくれるなよ」
涙が、でる。
みんなみんな優しい。
何なら俺の周りはこんな人たちでいっぱいだ。
すごく恵まれているんだと、思う。
でも逆に、そうだからこそ。
そんな中で泣き言言ってる自分が、みじめで、恥ずかしくて。
泣きそうんなって。そんなことで涙出そうになる自分にも"なんて弱くなったんだ"と。
それから店長は何かを言いかけて、やめて。
席を立ったかと思えば事務所を出て、表の自販機で買ったらしい、缶のドリンクを両手にもどってくる。
有名な飲料メーカーの、ホットココアを差し出されて。
とっさに、お金を払おうとして。
もう以前の様に、サイフをポケットに入れて持ち歩くなんてしてない。ロッカーん中のあの何にも入らない小さな鞄の中だ、と。気が付く。
そういえば、駆け込んだトイレが男性側であった。
なにが。
"女の子になることに決めた"
だ。 こんなにも。 こんなにも。
一連の動作が意味をなさず、萎れるように縮こまってみれば。
店長は何度目か、溜息。
「キミ、もう少し大人に甘えなさい」
「は……い」
お言葉に甘えて、ココアに手を伸ばす。
あったかい。甘い。のって、こんな、落ち着く、んだ。
「で」
「!」
「きいていい?」
「──はい」
「神谷さん、キミは──実は男だったり──じゃ、説明付かないか。性同一性障害……ってのも違う。気がする。だったら男みたいな恰好しようとする、か」
「…………」
「世は多様性だなんだ、と。そこに無理解ってわけじゃないつもり。だけどさ。キミの女の子として普通に可愛くしてるのにアイデンティティが完全に男ってことに説明が付けられない。──無理矢理させられてる?」
「…………」
「きいて、いい?」
「言っても、きっと理解されません」
「言わなきゃ"可能性"すらないよ」
理解ろうと、してくれている。
でも。だからって。うんざりなんだ。
こっちは歩み寄ろうとしてんのに、心を開かないなんてひどい奴だみたいな物言い。
そういう無言の圧力。もうたくさんなんだ。
散々迷って。
最後に店長が口を開いてから何分経ったか。
「店長」
「うん」
即答だった。気を逸らしてすらいなかった。
ずっと、待っていてくれた。
「そこの、デスクトップで、"2044年" "△△市××中学校" "性転換" って、検索してみてください」
店長は一瞬呆けた様に間抜けな顔をした後、すぐに真顔になって俺を見返す。
俺は眉を寄せ、でも何とか、って感じで。結果的に自嘲気味に、微笑う。
店長は無言で席を立ち、事務用のPCで俺の言う通りにキーワード検索する。
それだけ重ねればほぼほぼ限定されるだろう。御多分に漏れず、当時俺の性転換劇を報道した、地方紙の記事に行きつく。
店長はしばし無言で記事を読み入って。
画面を盗み見る。記事に並べられた事前後の写真。男の時の自分の顔なんて久々に見た。
やがて。
"信じがたい"
"信じがたい、が"
って顔した店長が、何度も画面と俺とで、視線を往復させる。
その態度に。
そこに"が"が含まれていると、気がつくことができて。
どれほど救われているだろうか。
「てんちょぉー……」
「…………」
「俺の履歴書、下の名前、見ました?」
「……うん」
「あれで──"ナツヒコ"って、読むんですよ」
神谷 夏日子。
それが。今現在リアルで、俺が、対外的に名乗っている名前。




