第三十八章 怠惰 「汝、その大罪に聴き入ることなかれ。さもなくば白蝋の人形が、汝の耳を虜にするであろう」
カズキとグリド・グリドの死闘が始まるのとほぼ同時。
卑徒の神殿内部に召喚されたエイミー、コトネ、テオドール、ミラージュ、そしてグローリアは、大広間にて眷属との死闘を繰り広げていた。
「このっ……しつこいっての!」
三つ首の犬のような眷属の一撃を紙一重で回避しながら、エイミーは毒づいた。
迫り来る眷属の力は並大抵のものではない。クレスのように卑徒の力を多く取り込んでいるのだろう。
まるで行く手を阻む番人だ。
眷属の巨体の向こうには、神殿の奥へと繋がる扉があった。この先には行かせはしないとばかりに吠えたてる。
恐らくあの向こうには卑徒がいるはずだ。そう誰もが感じていた。
凄まじい圧迫感を放つ魔力の塊が居る。そいつは自分から立ち向かってくることもなく、興味もないといった風情である。
つまり、まるで相手にされていないのだ。
焦っているのはエイミーだけではなかった。召喚されたときにカズキがいないと気付いた時点で、全員の胸に焦燥が生まれていた。
――カズキは、たった一人で戦っているのだと。
ならば急がなければならないと思うのは道理であった。卑徒が引きこもって出てこないというのならば、こちらから仕掛けるのが定石というもの。
だが、それに待ったをかけたのが目前の眷属だ。
奥にいるのが《怠惰》の卑徒ベルル・ベルルだとすれば、この地を守るのは彼女の眷属でしかありえない。
加えて、ベルル・ベルルはその性質ゆえ滅多に眷属を作り出すことはなかった。
となればこの一体は至高にして孤高の眷属――《怠惰》が選び抜いた最強の番犬であると確信する。
「グルルルルルルルルルルルルルル……!」
威嚇するように唸る地獄の門番。何人たりとも通さないという意思が伝わってくるかのようだ。
「……邪魔、どいて」
コトネが氷刀《霙》を袈裟掛けに一閃。天を裂くような一撃が飛翔するも、眷属の放った雷撃によって打ち落とされてしまう。
周囲に撒き散らされた雷の波をテオドールが受け流し、ミラージュが回避し、グローリアが防御する。
「クソ、こいつは雷使いか! カズキのものに比べれば幾分か劣るが、厄介極まりないな……!」
テオドールが憎々しげに叫ぶ。蒼白いスパークがあちこちで弾け飛び、彼らに行動の隙を与えない。
「このままではジリ貧であります! 隊長殿、何か策はないでありますか!?」
動き回り攪乱するミラージュは最も疲労が早い。彼女とて副隊長という実力者だが、それでも地力の差は露呈してしまっていた。
防御のために展開していたグロリアスを畳み、ドリルのように回転させるグローリア。
「策というほどのものではないのじゃが、妾に考えがなくもないぞ」
それを聞いたテオドールがここぞとばかりに怒号を飛ばした。
「構わん、やれ! どうせロクでもない考えなんだろうが、今だけは付き合ってやる!」
グローリアは眷属に向き直ると、鋭い犬歯を剥き出しにして笑った。
「よくぞ言ったぞ小僧! よかろう、我々夜の眷属の力をあの犬ッコロに見せつけてやる時じゃ!」
天にも届けとばかりにグロリアスを掲げる。その動きを察知した眷属が、エイミーとコトネを振り切ってグローリアへと迫った。
「ここは妾たちに任せて先にゆけ――ふはは、これを一度やってみたかったのじゃ! 愉快愉快、実に痛快な気分じゃのう!」
瞬間、彼女は天を貫いた。
正確には卑徒の神殿の天井である。
「グローリア!?」
「……まさか」
エイミーとコトネの驚愕をかき消すようにして、崩落が始まった。
大きく抉られた天井は雨のように瓦礫を降らせ、大広間をあっという間に埋め尽くした。
ちょうど、大広間を二分するようにして。
必然的に、眷属側にいたグローリア、ミラージュ、テオドールは眷属と共に閉じ込められ、エイミーとコトネがその向こうに取り残された形となる。
この場合は、取り残されたのは前者のほうだと言えるのかもしれないが。
いかな眷属といえど、三人の魔族を相手取りながら瓦礫を全て消し飛ばすのは骨が折れるだろう。
エイミーとコトネは刹那の内にグローリアの思惑を察した。
言葉通り、眷属を一手に引き受けるということだろう。
しかし、さきほどは五人でどうにか互角に戦っていたのだ。さらに狭い空間に取り残されたとなれば、劣勢に陥るのは目に見えていた。
それでも、エイミーとコトネは振り返ることはなかった。
今更後戻りすることなどできようはずもない。グローリアの決死の覚悟が生み出した千載一隅の好機を逃したとなれば、彼女に血を吸い尽くされてしまうだろう。
故に駆け出した。背後から聞こえる咆哮と雷撃が弾ける炸裂音を聞きながらも立ち止まることはない。
「行けエイミー、コトネ! とっとと卑徒をブチ殺して手土産をもってくるんだな、働き損にはしてくれるなよ!」
テオドールが雷撃を打ち払いながら大斧を振り下ろす。右側の頭部を粉砕するが、迸る雷に吹き飛ばされてしまう。
それを受け止めたミラージュが光速で移動しながら高らかに叫んだ。
「任せたでありますよ両隊長殿! 自分はこのワンちゃんをテオドール隊長に見立てて日頃の鬱憤を晴らす作業に没頭しますので、邪魔は不要であります!」
さらにグローリアが追撃の極光を放つ。
紫色の吸血鬼は、その身に纏う豪奢なドレスが血に塗れようともその優雅さを損なったりはしなかった。
「ふははははははははははははは! いいぞいいぞ、楽しくなってきたのう! こんな美味しい役どころ、他の奴に譲ってやるわけにはいかんのじゃ――さあ気張れいテオドール、ミラージュ!」
『ゲハハハハハハハハハハハハハ! 最高だぜご主人! アンタの役者魂には脱帽もんだ、そんなアドリブいまどきやらねえって絶対! だがまあ、俺サマとしちゃあ嫌いじゃねぇ!」
一人と一本は呵呵大笑する。どんな美酒よりも酔いやすい、麻薬にも似た高揚感と絶頂感が彼女たちを襲っている。
即ち歓喜。
それはテオドールやミラージュとて同様だ。狂戦士は戦いの中でこそ真に輝くものである。
このような奮い立つ状況ならば猶更のこと。
「フン、今にして思えば、貴様に本当の意味で名を呼ばれたのは初めてかもしれんなグローリア。言っておくが、こいつを倒した後瓦礫を掘るのは貴様だからな」
「いいじゃろう、いくらでも掘ってやろうぞ。ではその前に、躾のなっていないペットにお灸を据えてやらねばのう!」
三つ首のうちの一つを潰されたことで、怒りに身を震わせる眷属。その尋常ならざる魔力量は卑徒に匹敵するほどだ。
しかしそれはこの眷属の主たる卑徒が、それだけの魔力を注ぎ込んでいるからこその結果である。
ならばこの先に待ち受ける卑徒の力は知れていた。だからこその分断作戦。
お互いが信頼し合っているからこそできる荒行だ。
そして誰もが信じている。
トウジョウカズキを――あの、ちっぽけな一人の人間を。
だから、彼女らに迷いなどない。ただ前進するのみである。
「行くわよ、コトネ。グローリアたちだけに格好つけさせられないもの」
「……うん、格好よかった。次は私たちの番」
頷きあった二人は、やはり振り返ることはなく。
巨大な扉を蹴破るようにして、禁断の匣を開け放ったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その一室は、非常に空虚な一室だった。
何もない。ただ一面の白。
これを「部屋」と形容していいのか憚られるほどに虚ろだ。広々としているにも関わらず、四方を囲む壁はまるで監獄のような圧迫感を与えてくる。
これまでの空間とはまた異なる、隔絶した雰囲気を醸し出していた。
純白に沈むようにして佇むのは小柄な少女だ。
あまりにも白い雪解けのような肌は、本当に純白の中に埋没してしまいかねないほどの儚さと存在感のなさを助長していた。
卑徒ベルル・ベルル――《怠惰》の卑徒にして、さきほどの眷属の飼い主。
エイミーとコトネの両名がその姿を認識し、一気呵成に躍りかかろうとしたその刹那。
「――え?」
「……え?」
彼女たちは、何の抵抗も出来ずに地に伏していた。
驚愕の声は同時である。彼女たちには、何が起こったのかさえ分からなかっただろう。
りん、と。軽やかな鈴の音が響いた。
それだけ。
ただそれだけのことで、必ず卑徒を倒すと誓い合った二人が無様に床を舐めさせられている。
ベルル・ベルルはそれを無関心に見つめていた。焦点の合っていない隻眼がゆっくりと動く。
「ああ、面倒だわ。この上なく面倒。何もかも――ねえ、そう思うでしょう」
疑問ですらなかった。当然の摂理であるかのごとく、彼女は面倒くさいと説き伏せる。
そもそも同意など求めていないのだ。彼女は独りで完結しているし完成してしまっている。
故にその牙城を崩すことなど出来はしない。ベルル・ベルル自身をもってしても、である。
「そうやって地に這いつくばって寝ていて頂戴な。そうしていると楽でしょう。何もかもがどうでもよくなって、世界に溶けて消えて行ってしまいそうになるでしょう」
長い台詞は疲れる、とばかりに大きく呼吸をして続けるベルル・ベルル。
「それでいいの。その感覚に身を任せていれば幸せになれる。怠惰の海に沈んでいける。ここでずっと、私の奏でる歌を聴きながら朽ち果てていきましょう」
ベルル・ベルルがぎゅっとウサギに似た人形を抱きしめた。
ウサギの首に着けられた大きな鈴が音を立てる。どこか空々しくも眠気を誘う調べであった。
「ぐっ……この、音……!」
さらなる重圧に押されるように地に這いつくばるエイミー。
コトネもまた同様に顔を歪めた。
「……これが、あいつの能力……?」
二人はあの鈴の音こそが卑徒の能力であり、自分たちがこうして横たわっている原因だろうと推測する。
監獄を思わせる四方の壁が音を反響し、鼓膜だけでなく脳をも揺さぶっているのだ。
魔力を通した音波攻撃を防ぐ術は二人にはない。
しかし、あくまで対象の無力化を図るための能力であるのか、これといったダメージを受けてはいなかった。
問題なのは、こうして這いつくばっていればいるほどグローリアたちの身が危険に晒されるという一点に尽きる。
ベルル・ベルルは動かない。《怠惰》の名に相応しい振る舞いであると言えるのかもしれないが。
「ああ面倒ね、私は働いたら負けだと思っているのだけれど、あなたたちはどうかしら。ずっとずっと惰眠を貪ってぼーっと日々を過ごせたなら、それはきっと……とても素敵なことだと思うの」
ただただ俯瞰するベルル・ベルル。彼女は戦闘に向いたタイプの卑徒ではない。
単体での戦闘能力はただでさえ最低ランクだというのに、そのリソースの大部分を眷属に譲渡しているとなれば当然だ。
だが、だからといって楽に勝てる相手であるはずもなかった。
むしろ、その悪辣さは他の卑徒を圧倒していると言っていい。
鈴の音は安楽を運んでくる。決して苦痛を感じさせるものではなかった。
そう、まるで怠惰に誘うように。お前たちもここで植物のように風化していけと囁くように。
「こんなっ……ものでっ……!」
エイミーは這う。前後左右の感覚すら喪失し、鉛のように動かない手足を引きずってでも前に進もうとする。
ベルル・ベルルはそれを心底不可思議そうに見ていた。理解できないとでも言うように。
「どうして。何故抵抗するの。どうしてわざわざ苦しい思いをしてまで、前に進もうとするの。停滞はとても心地よくて、生きるのは面倒でしょう。ぬるま湯に浸かりながら、泡沫の夢を見続けることがなによりの幸福なはずなのよ」
彼女にしては珍しく口数が多かった。他者に興味を示さなかった眠り姫が、初めて感情らしきものを見せている。
エイミーは非常に緩慢な動きながらも、確実に前に進んでいく。コトネもそのすぐ横で匍匐する。
「どうして、ですって……? それが分からないから、アンタはガキなのよ。駄々をこねているだけの子供から、いつまでたっても卒業できない」
卑徒との距離は無限にも思えるほどにある。それで徐々に徐々に縮まっていくのをエイミーは感じていた。
もしもこの場に眷属がいたならば、二人は容易く噛み砕かれていただろう。
それを阻止している者たちのことを思えば、こんなところで立ち止まっていられるはずなどない。
「……エイミー、私とても重大な問題に気付いた」
「ど、どうしたのコトネ!? 大丈夫!?」
「……胸が邪魔でうまく匍匐前進できない……」
ガクリ、とエイミーの頭が落ちた。
「ああもう、こんな時だってのに……なんか馬鹿らしくなってきたわ!」
そう言ってさらにペースを上げる。ベルル・ベルルは信じられないとばかりに首を振った。
「どうして笑っていられるの。安寧が、安息が、休息が欲しくないの。私の歌が、聞きたくないというの……!」
「ええ、聞きたくないし聞き飽きたわ――アンタの歌も、戯言もね」
エイミーが、よろよろと立ち上がる。
赤子のようにおぼつかない足取りでありながらも、確実に立ち上がってみせた。
「――――嘘」
本来ならばそれは有り得ない奇跡だ。ベルル・ベルルの《歌》は破壊力こそ皆無だが、無力化するという一点においては他の追随を許さない。
故にベルル・ベルルが絶句したのは道理であった。
意思や根性でどうにかなるレベルの話ではない。実際、エイミーは立っているのがやっとという風情だ。
それでも彼女はニヤリと不敵に笑って、剣を地面に縫い付ける。
「任せておきなさい、コトネ。こいつは私がやるわ」
「……うん、お願い」
頷き合う二人。その信頼を、ベルル・ベルルは理解することが出来ない。
「おかしいわ、何故この状況で笑っていられるの! 面倒よ……あなたたちは面倒にも程があるわ、今すぐ消えて!」
狂乱したように叫びながら、鈴の音を掻き鳴らす。反響する調べは暴力的なまでの安息を宿している。
だが。
「キーキーうるさいのよ、いい加減黙りなさい小娘」
「なっ――」
エイミーはただの一喝で、卑徒の歌を蹴散らして見せた。
縫い付けた剣を杖代わりにして前に進む。ベルル・ベルルとの距離はもはや存在しないに等しかった。
「アンタは気付いてないようだから教えてあげるけど、それって凄い矛盾よ? 何もかもが面倒臭い、誰も彼も私に関わるな干渉するな――そう言うのだったら、ハナから私たちなんて相手にしなきゃいいでしょうが」
「ち、違うわ……そんなことはない、ないはずよ。私は孤独でいいの、孤独がいいの! 誰にも邪魔されず、この安らぎに抱かれて眠っていたいの!」
だからさあ――と。
呆れたように、竜の娘は告げた。それが眼前の卑徒を粉々に打ち砕くと知りながら。
「アンタ――本当は構って欲しいだけなんでしょう」
「――――――っ」
今度こそ、完全に卑徒は絶句し沈黙した。そして、わなわなと震えだす。
「あ……あ、……ああぁっ……! ちがっ、私は……わたっ、私はそんな……ことを望んでなんか……!」
完全な手応え。自己矛盾を突き付けられたベルル・ベルルの自我は崩壊寸前にまで追い込まれていた。
「それを認めてしまった時点で、アンタは《怠惰》失格ね。それでも全てが面倒だっていうのなら、私がいい解決方法を教えてあげるわ――生きるのが面倒なら、死んでしまえばいいのよ」
それを聞いたベルル・ベルルは、さきほどまでの狂乱ぶりが嘘のように変貌して。
虚ろな瞳を輝かせながら、エイミーを見上げた。
「――でも、死ぬのも面倒なの」
ゆっくりと目を閉じたエイミーは、静かに剣を振り上げた。
「じゃあ殺してあげるわ。観念なさい」
ああ――それはとっても素敵ね、と。
白貌の少女は呟いて。
雪に解けるように、彼女の柔首は宙を舞った。




