第二十八章 九尾 「あなたは、それで幸せになれるのですか?」 「君は、幸せだったのか?」
クレスの肉体が膨張し、変貌していく。
それはどこまでも冒涜的で醜悪な光景だった。
「ぐ、ぅ、あ、あああああああああああああああああああああああっ!」
クレスの絶叫。美しかった琥珀色の瞳から血涙を流し、絶望を謳う。
なんとおぞましい。見るに堪えない。世界が色を変えて塗りつぶされていくような錯覚。
頭上では六枚羽の卑徒――ルシフ・ルシフが興味深そうに俯瞰している。
まるでおもちゃ箱を開ける直前の子供のよう。溢れんばかりの期待と愉悦に打ち震えていた。
奴らの目的は仲間を増やすことだ。即ち繁殖にも似た生存活動に他ならない。
新たなる子の誕生を待ち望む父親を思わせる表情に湧き立つような怒りを感じる。
それは、果たして同族嫌悪なのだろうか。
やがて、確定的な変化が訪れた。拡張し膨張していたクレスの肉体が爆ぜる。卵の殻を破るように。
現れたのは――巨大な狐の化物。
九本の尾を持つ、異様なりし卑徒の眷属だった。
『ふむ、君の罪では《憤怒》足り得なかったか。期待外れだが、まあいいさ。なかなか胸に来る感動を覚えさせてもらった』
そう言って、空中に静止していたルシフ・ルシフは踵を返そうとする。
逃がすか。逃がして堪るものか。
「ルシフ・ルシフゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウッ! 貴様、貴様、貴様! 貴様だけは――」
『俺だけは、何だというのだヒューマン。熱烈な歓迎だが、生憎今の俺はただの幻影だ。君を卑徒に加えたいところだが、今は残念ながら出来ない』
本当に残念そうに首を振るルシフ・ルシフ。渾身の雷弾も、幻影である奴を捉えきれず空を切り裂くのみ。
『次に会うときは、君と雌雄を決する時だろう。それまでに君が我々の仲間になってくれていることを期待するとしよう』
一方的に言い残して、卑徒の王は去って行く。出現した時同様、何の痕跡も残さないまま。
虚空を睨み付けるが、そんなことでは現実は変わらない。
今は目の前の敵――そう、敵に集中すべきなのだ。
ゆらゆらと起き上ったエイミーとテオドールが私に並ぶ。私を支えるように。
「カズキ、あいつが憎いのは分かるけど……今は、クレスを止めないと。それが出来るのは、あたしたちだけなんだから」
エイミーに続いて、テオドールが口を開いた。
「クレスもまた戦士だった。この戦いに臨んだ時点で、誰もが平等に死を背負っている。それを忘れるな」
テオドールはどこまでもストイックに、眷属と化したクレスを見つめる。
彼は戦士だ。それ以上でも以下でもないというように、私情を捨てて完全に割り切っている。
その強さが今は有り難かった。心を完全な剣と化してしまうのは簡単だが、彼は違う。戦士とは常に考えに考え続けた結果、迷わず答えを導き出すものだからだ。
「……ああ、そうだな。そうだったよ。私は彼女に何もしてやれなかった。私は最後まで鬼になりきろう」
それがせめてもの手向けと信じて。
ラティラの姿が瞼の裏に蘇る。エディの微笑みが私を奮い立たせる。
ここで止まるわけにはいかない。ただ愚直に前に進むことだけが、弱い私たちに残された唯一の手段なのだから。
私の精神は、父を――した時から壊れているのかもしれなかった。
友の屍を踏み越える私は、どうあがいても畜生の誹りを免れない。それでもいいと強く誓う。
この手は既に穢れている。これ以上血に塗れたところで、そう変わるまい。
九尾の狐が吠え立てる。血の涙を流しながら、父を失った憤怒に喘ぐように。
「すまない、クレス。許してくれとは言わない。私を恨め、私を憎め。たとえ、君が笑顔でなかろうと、私は君の復讐を受け入れよう」
君を救えなかった私に、復讐するがいい。
だが、私は抗わせてもらう。これまでの過去を、犠牲にしないためにも。
「行くぞ――卑徒の眷属を討伐する!」
風穴の開いた腹は塞ぐだけ塞いだ。内臓器官はズタズタだが、いまさらその程度で怯んではいられない。
私とエイミー、テオドールは散開しつつ九尾に接近しようとする。
九尾が迎撃するべく九本の尾を逆立てた。すると金色の光が逆巻き、幾重にも分かたれて放たれた。
九の光の槍はそれぞれが意思を持つ獣のように私たちに追いすがる。
大斧を砕かれたテオドールが自身の肉体を強化しなんとか弾くが、光の槍はなおも獰猛に迫り来る。
「くっ……! 気をつけろエイミー、カズキ! こいつは今までの眷属とは格が違う!」
「もしかして、ラースの魔力を受け継いでいるの……?」
エイミーの発した疑問に戦慄が走った。
卑徒の眷属は卑徒の羽根を埋め込まれることによって生まれるが、羽根に魔力を乗せて譲渡できるとしたら。
本来、眷属は主たる卑徒を失えば死ぬはずだ。しかしクレスがそうなっていないのは、そのために違いない。
クレスはもはやただの眷属ではなく、ラースに残された最後の魔力を受け継ぐ純血種だ。
私に迫る光の槍を、黒雷で振り払う。魔力で固めた足場を蹴ってさらに跳躍。
憤怒に染まった九尾の瞳と目が合った。それは、どこか彼女の面影を残していて。
「クレス……!」
思わず呟きながら、九尾の爪を掻い潜る。九尾の喉元目がけて放った雷槍は、しかし光の槍に阻まれてしまった。
九尾が大口を開けると、口腔に魔力の大渦が発生。
「マズイ、皆逃げろ!」
叫ぶとほぼ同時、灼熱の炎が吐き出された。エイミーの火力をも凌ぐ憤怒の業火。
荒れ狂う奔流は身を焦がすだけでなく、大森林を焼き尽くし酸素を急激に消費させていく。
「ぐ、っづ――!」
咄嗟に魔力を噴出して直撃を避けたものの、炎の舌は私の左半身を舐めとっていった。
ただちに修復が始まるが、ラースとの連戦で傷が癒え切っていない状況ではまさに焼け石に水である。
激痛。生きているのが不思議なくらいだ。満足に呼吸が出来ず、体は思うように動いてくれない。
エイミーが憤怒の炎を受けながらも、九尾の背後をとった。炎に耐性のある彼女でさえ辛そうな表情を浮かべている。
「こ、のぉおおおおおおおおおおおおおおっ!」
左足から爆炎を三連発。加速した鮮やかな回し蹴りが九尾の尾を刈り取った。
鮮血を浴びながらエイミーは急速離脱。苦悶の声を上げた眷属は憤怒の矛先をエイミーに向け、光の槍を放つ。
黒い狼がその隙を見逃すはずもない。尾の一本にとりつくと、力任せに引き千切った。
「カズキ、何をぼさっとしている! 貴様がその程度でくたばるタマか! いつものように減らず口を叩いてみせろ!」
テオドールの叱咤が飛ぶ。まったく、言いたい放題言ってくれる。
だがその通りだ。今一番苦しんでいるのは目の前にいる一人のか弱い娘だ。
その娘を救ってやれずにどうする。私はその程度の男ではないことを証明しろ!
いつものように叫ぶ余裕も酸素もないが、それでもニヤリと笑って見せる。
よく見ておけクレス。私を殺すときは、こうやって笑うんだ。
「いくぞ――!」
乱舞する炎を雷撃で切り裂きながら飛翔する。体が動かないなら魔力で無理やり動かすまで。
琥珀眼がこちらを睥睨した。と同時に迫り来る光の槍を《魔障壁》で逸らしていく。
大樹を越えて天高く舞い上がった私は、落雷の如く漆黒の雷撃を降らせた。
四本の尾を射抜き、さらに後ろ足を焼き焦がす。絶叫する九尾を見下ろしながら急速落下。
今や尾が三本になったことで、眷属の火力は半減していた。
あの尾こそが受け継いだ魔力を貯蔵する役割を果たしているのだろう。そうと分かれば、あの尾を全て叩き落とすまで。
螺旋状に落下する私に大狐が牙を剥く。後ろ足を負傷したためか、回避ではなく迎撃を選択したようだ。
口腔に魔力が集うのを感じる。再び憤怒の紅蓮を放とうとしているのだろう。
私に防ぐような余力は残っていない。たとえこの身が燃え尽き灰になろうとも、憤怒ごと切り裂いて進むだけだ。
私にとって死とは身近なものだった。いつもいつも死を覚悟し死に寄り添い死を侍らせていた。
恐怖はない。この一刀が届くのならば、それは決して無駄死にではないと信じているからだ。
故に。私よりも早く黒い陽炎がもたらした一手は、起死回生の一撃であった。
「おぉおおおおおおおおおおぉらぁあああああああああああああああああっ!」
もはや残像しか捉え切れないほどの速度で駆けるミラージュの拳が、憤怒の炎を放つべく開け放たれていた九尾の下顎を撃ち抜いた。
《――――ッ!!》
必殺を封じられた九尾はたまったものではない。荒れ狂う魔力の嵐は行き場を失い、口腔で爆ぜた。
「へ、へへっ……どうでありますか、クレス殿。あなたはそんなモノじゃなく、毒舌でも吐いた方が似合っているでありますよ……!」
ラースの一撃で脇腹を抉られていたミラージュは、着地すると役目は果たしたとばかりに倒れこんだ。
「よくやったミラージュ、あとはこちらに任せておけ!」
副隊長であるミラージュの切り開いた道を進むように、《黒の隊》隊長が前進する。
「ふんっ!」
回転しながら閃いたテオドールの爪が尾を切り裂いた。光の槍をことごとく打ち返し、付け根を狙って穿たれる爪牙。
さらにエイミーが続いた。三本目の光の槍を受けて剣が弾き飛ばされるも、その程度では彼女の必殺の威力は殺せない。
「あたしだって、クレスを止めてみせる――!」
眷属になったクレスが九尾ならば、エイミーはさながら不死鳥だ。貪欲に身を包みこもうとする炎の腕に抱かれることなく、自身の熱だけを宿している。
飛翔、飛翔、飛翔。猛り狂う九尾の狐は光の槍を時雨の如く降らせるが、エイミーに致命傷は与えられない。
「はぁあああああっ!」
毒には毒を、炎には炎を。エイミーの蹴りと共に放たれた炎の刃が、巨大な尾を両断した。
ほぼ同時に九尾は二本の尾を失った。残るは一本のみ。
《――――――――!》
眷属が声なき声を上げる。クレスの面影を残した声に、血を使って編んだ魔力剣を強く握る。
そこには憤怒の色しか込められていないとしても、間違いなく彼女の声は私に届いた。
――助けて、と。
「ああ――すまない、クレス」
落下し最後の一刀を振り下ろす寸前に、私は呟いていた。
謝罪などいまさらなんの意味もない。ただの自己満足であり偽善ですらない。
それでも。そうだと分かっていても、そう謝る他なかった。
――ありがとう。
光の槍を身に受けながら、残る九尾の尾を切断する。
その刹那、そんな声が聞こえたような気がしたのは、私の罪悪感からくる幻聴だったのだろうか。
灰は灰に、塵は塵に。九尾の巨体が光の粒となって消えていく。
クレスが、消えていく。
ラティラやエディの時と同じように、私が手にかけた感触を確かめる。
この感触は、私が一生背負っていかねばならないものだ。
大森林は燃え盛り、部隊はほぼ半壊状態。まさに地獄絵図のような光景が広がっている。
私も、エイミーも、テオドールも、ミラージュも、きっと誰も彼もが重傷だろう。
しかし、消え去っていくクレスの涙が、血の真紅ではなく澄んだものだったというだけで――この戦いに意味はあったのだと、そう信じたい。




