第二十七章 黄金 「絶望は、終わらない」
棺の間で、ラース・ラースは相も変わらず猛り狂っていた。
卑徒ラース・ラースは、思考回路を滅却されている。
彼はもはや憤怒の虜だ。卑徒の羽根を埋め込まれ、眷属ではなく翼あるモノとして生まれ変わったその時から憤怒という名の罪に捕らわれている。
彼に安息はない。この罪を背負った者は睡眠も食事もなくただ暴れ狂うだけだ。
思想もなく、思考もなく、思慮もなく、信念も信仰も信心もなく破壊を尽くすのみ。
だから。そんな彼が停止することなど、本来はあってはならないのだ。
致命的なまでのエラー。その原因は、たった一人の少女の姿を捉えたこと。
卑徒は例外なく狂っているが、《憤怒》は狂気ではなく狂奔の域に達している。彼がどのような敵に相対しようとも、思い出すべき過去など忘却の彼方だというのに。
他の卑徒たちは気付かない。彼の妄念が、執念が――ラース・ブレイザーとしての自我を呼び戻しかけていることを。
しかし、それはあまりにも遅すぎる目覚めだ。砂漠に落ちた一滴の水ごときが、状況を一変させることなどない。
彼は卑徒の本能のままに同族を増やそうとするだけだ。たとえその矛先が自分の娘であろうとも、疑念を挟む余地すらない。
「ク……レ、スゥ…………」
だが。
その呻きが生じること自体が、既に有り得ない事態なのである。
憤怒に堕ちたものが意味のある単語を口にする――ベルル・ベルルは興味深そうにラースを一瞥し、すぐに面倒臭そうに眼を逸らした。
「そういうことも、あるのかしらね」
つまらなそうに呟いた彼女は、ウサギを思わせる人形を掻き抱いて眠りについた。
憤怒の故障を咎めるよりも、ベルル・ベルルは《怠惰》であることを優先する。彼女はそういう卑徒なのだ。
鎖で拘束されたラース・ラースが暴れ狂うことで生じる不快な爆音すら意に介さない。そのことからもよほどの《怠惰》ぶりであることが窺い知れる。
と、そこへラスト・ラストが通りがかった。妖艶な美女は膨らんだ胎を撫でながら、ベルル・ベルルに侮蔑の視線を投げる。
「フン、よくこんなところで寝ていられるわね全く。寝る子は育つっていうけれど、その貧相な体つきじゃあ疑わしいもんね?」
皮肉交じりに言うが、肝心のベルル・ベルルはくうくうと深い眠りについている。
ラスト・ラストは呆れかえりながら、ラースに近づくとその顎を撫でた。
「さあ、私の部屋で楽しみましょうケダモノさん。今日も激しくして欲しいわ……」
艶美な仕草で媚びを売る。拘束されたケダモノを相手に、色欲を貪ろうとした。
瞬間、異変は起きた。ラースを拘束していたはずの鎖が弾け飛び、同時に砲弾のように憤怒が飛び出していったのだ。
「あら、イケズねぇ。それよりも、いいのルシフ・ルシフ? あのコ、多分今行ったら死んじゃうわよ?」
振り返ったラスト・ラストの視線の先には、奥の一室から現れたルシフ・ルシフがいた。
「いいさ、行かせてやれ。愛の叫びは誰にも止められん。実に美しい家族の愛だ――それに、彼の娘が次の《憤怒》になるやもしれん」
卑徒の王は愛でるように言った。愛しくてたまらないといった風情である。
どの道、憤怒の罪を背負った卑徒は短命である。内蔵した魔力を常に身に纏い、燃やし尽くす様にして消費していくからだ。
故に、ラースを使い潰して次の《憤怒》を手に入れようとしているのだろう。
とはいえルシフ・ルシフは誰よりも仲間思いの卑徒である。身を裂くような痛みが襲うが、それでも彼はその在り方を貫き通す。
「どうか、彼らに祝福があらんことを――」
祈るように目を閉じて、卑徒の王は踵を返した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……来ました」
クレスが短く呟いた。それだけで、大森林に陣取った私たちの意識が急速に冷えていく。
いずれ来ることは分かっていた。私たちは転移魔術の発動を事前に感知し、待ち構えていたのである。
姿を現すはまぎれもなく卑徒ラース・ラース。鬣のような黄金の髪が踊り、琥珀色の瞳で世界を呪うように睨み付けてくる。
「ア、ア、ア、ア、アァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
咆哮。狂った獣は止まらない。
以前私と戦った時より魔力が増している。いわば捨て身だ。残った魔力をただひたすらに自己強化に充てることで暴走状態を維持しているのだろう。
奴の両眼がクレスを射抜く。他の魔族など眼中にすらないとでもいうように。
まったく舐められたものだ。私と《黒の隊》、《赤の隊》を合わせた軍勢を前にして、塵芥ほどの価値も見出していない。
娘本人がいれば懐中時計など慮外か。なるほど、それも計算の内だ。
「――撃ぇ!」
ラースの転移が完了するとほぼ同時――エイミーの号令によって、《赤の隊》総員による魔術が竜の息吹の如く卑徒に迫った。
業火、劫火、豪火。上空のラースに向かって放たれる圧倒的な熱量。
しかし。
「オ、オォォォォォォォォォォォォァァァァァァァアアアアアアアッ!」
再度の咆哮は、魔力を孕んで放たれた。
たった独りで総火力を上回るほどの魔力がぶつけられ、全ての魔術が無効化されてしまう。
次いで、隕石のように卑徒が落下。爆撃じみた一撃が私たちを襲う。
「――防壁展開ッ!」
直撃こそ避けたが、大地を深く抉り取るほどの一撃による余波は回避不能だ。
叫んだテオドールの一声で、《黒の隊》が事前に用意していた防壁魔術を展開。かろうじて防ぎ切ったが、これだけでほとんどの隊員が魔力切れを起こすほどの攻防だった。
しかしそれでも防ぎ切った。私は編み出した魔力剣を手に疾駆する。
「覚悟しろラース……! 貴様の哀れな妄執、ここで断ち切る!」
父親殺しの悪名は、私一人が背負えばいい。クレスには荷が重かろう。
一瞬で距離を詰めると、ラースはようやくこちらを認識したようだった。憤怒に濡れた琥珀の瞳と真っ向から衝突する。
この一瞬は皆が作り出した空隙だ。この一閃で決めなければ――
――ならない、はずだったのに。
「ガ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
咆哮、次いで衝撃。明らかにこちらの方が先手を取ったはずの攻防は、悪夢のように形相を変えていた。
振るった剣ごと粉砕したラースの拳が私の腹を抉る。《魔障壁》など紙屑同然に打ち砕かれ、胴体を貫かれた。
「――カ、ハッ!?」
鮮血と共に驚愕が吐き出された。通常なら即死してもおかしくない一撃だ。
馬鹿な。有り得ない。反応速度が以前の比ではなくなっている。
肉体だけでなく、脳や神経まで魔力で活性化しているとでもいうのか。
正しく《憤怒》の虜。勝利のためではなく相手を殺すということだけを目的に研ぎ澄まされた剣は、刃がこぼれようと意に介さない。
後のことなど考えない、自滅前提の魔力強化だ。一度走り出せば、力尽きるまで止まらない。
ラースが二撃目を放つ前に、血液を魔力に変換。傷口が広がるのも構わず魔力を放出し、ラースの右腕を吹き飛ばすと同時に後退する。
「ぐっ――――!」
仕留めきれなかったばかりか、重すぎるカウンターをいただいてしまった。
魔力を総動員して傷の回復に充てる暇はない。今は応急処置で済ませて、戦闘を続行する。
奴も右腕を失った程度では動きが鈍ることすらなかった。神話の猛牛を思わせる突進を黒雷で牽制。
ただ闇雲に魔術を撃っても効果は見込めない。大地に着弾した黒雷は、直撃こそしなかったものの、奴の両踵部から生えた翼に手傷を負わせることに成功した。
やはり翼だけは脆いのか、ラースの勢いが明らかに衰えた。そこへ投擲されたテオドールの大斧とエイミーが接近。
裂帛の気合いと共に放たれた一撃は、吸い込まれるように卑徒の翼を狙う。
神速で反応したラースが脅威度の高い大斧を打ち砕く。そして右腕でエイミーを迎撃しようとするが、肘先から吹き跳んだ腕では彼女を止めることなどできない。
「これで、堕ちろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
断刀の一閃。爆炎を纏ったエイミーの蹴りが卑徒の片翼をへし折った。
ラースが苦悶の声を上げて後退。逃がすまいと追いすがるエイミーの足が止まった。
彼女だけではない。追撃に移ろうとした誰もが、その足を止めていた。
異様なまでの威圧感。片羽をもがれたはずの卑徒ラース・ラースから香る濃密な死の気配。
あれは何だ。追い詰めているのはこちらの方だというのに、この怖気は一体何なのだ。
「ク……レ、す…………!」
男は叫ぶ。とうの昔に枯れ果てたような声で、どこか縋るように。
極大の魔力を感じる。燃え尽きる寸前の蝋燭が、最後の輝きを放つかの如く。
彼が《卑徒化》を行わないのは、元魔族の矜持ゆえか。
あるいは――娘との再会のためなのか。
ああまったく、どうしてくれる。
クレスは魔王御付きのメイドだ。最後の最後になるまで出張るなとリーネから仰せつかっているが、この状況では動かないわけがない。
私の予想通り、ミラージュと共にクレスが前線へと躍り出てくる。
ならば急げ、急げ、急げ。痛覚など知ったことか。腹に穴が開いた程度で動けなくなるほど柔ではないだろう。
霞む視界の淵で、ミラージュがラースを攪乱している。これまで見たことがないほどの超光速。
スタミナを度外視して、クレスの一刀に全てを託すための攪乱だ。
血風が舞う。ミラージュの攻撃は全てが通じず、ただただ拳が壊れていくだけだ。それでも彼女は攻撃をやめない。
極限まで研ぎ澄まされたラースの超反応を持ってすら捕えられないほどの高速機動は、ミラージュの体を蝕んでいく。
「っ、――――!」
ついに、ミラージュの動きが半歩遅れた。
たったそれだけのことで、ラースの左腕が彼女を捉え薙ぎ払う。脇腹を抉られながら吹き飛んでいくミラージュ。
しかし黒猫は十二分に役目を果たした。彼女が生み出してくれたこの活路を切り開かねば未来はない。
それはクレスにとっても同じことだった。
「お父様……不出来な娘をお許しください。こうすることでしかあなたを救ってあげられない、愚かなわたくしを憎んでください」
短刀を逆手に構え、クレスが突貫する。
「ク……れ……す……?」
父と娘の視線が、今交差した。
「お覚悟を――!」
唇を噛み締め、クレスが短刀を振るう。鮮やかなまでの一閃は、ラースの首から鮮血の華を咲かせた。
「――――」
間に合わなかった。彼女は自らの意思の元、父親殺しの悪行を遂げてしまった。
鮮血を吹き出しながらも、ラースはまだ立っていた。しかし、それはもやは立っているだけの物体にすぎない。
命の輝きは、もう失われてしまっている。
はず、だった。
「ク、――レ――ス」
奇跡と、そう形容するしかない。
ひゅうひゅうと喘鳴の音を上げながらも、ラースの瞳には憤怒の色が消え去っていた。
「お、お父様……?」
恐る恐る、クレスが問いかける。父に叱られた子供のように。
「大きく、な、ったな……はは、母、さんに似た、か。美人、に、な、った……」
いったいどこから声を搾り出しているのか不思議なほどに掠れた声。
ラースが左手でクレスの髪を撫でた。
「お父様……お父様ぁああああああああああああああああ!」
顔をくしゃくしゃに歪め、泣きじゃくる。幼い少女が、ようやく父に出会えた瞬間であった。
しかし、そんな時間も長くは続かない。生命のともしびは着実に消え去っていき、彼の体を塵へと変じさせる。
とても柔らかい、朗らかな笑みを浮かべて。
「お前、は……どう……か……し、あわ……せ……に……」
そうして、一人の父親が娘との別離を遂げた――
『実に美しいなラース・ラース。感動して涙が出そうだよ。さあ――君の役目を果たしたまえ』
――刹那。
「あ、あ、あ……あぁあああああああああああああああああああああああああっ!」
絶叫がほとばしる。天上から降ってきた一声で、消えゆく寸前だったラースがクレスの首を締め上げた。
「……かっ、は」
苦しげに喘ぐクレス。
ラースは狂気に濁った瞳から涙を流しながら、掌から卑徒の羽根を埋め込んでいく。
「やめろ……やめろ、ラース! 自分が何をしているのか分かっているのか!」
放った黒雷がラースの左腕をもぎ取った。
憤怒の巨人は、ようやく力尽きたように塵になって散って行く。
憤怒の表情を刻み付けたまま。父親ではなく、卑徒として男は死んだ。
また、なのか。
私は、また――繰り返すのか!
わが身を呪いながらクレスに駆け寄る。華奢な体は痙攣を繰り返し、眼球がせわしなく蠢いている。
エイミーが覗き込みながら必死に肩を揺さぶった。しかし、それでもクレスの意識は戻らない。
「クレス……嘘でしょ? ねえ、嘘よこんなの……」
茫然とした呟き。誰もが同じ感情を抱いていた。
駄目だ。もうクレスは助からない。
もし、彼女までもがラースのように卑徒になってしまったら、取り返しのつかないことになる。
私は心を殺した。指先に魔力を集中させる。
エイミーは私が何をしようとしているのか察して顔を伏せた。彼女とて戦士だ。いざとなれば仲間を切り捨てる覚悟は出来ているだろう。
だがこれは私がやらねばならない。約束を守ってやれなかった、私が。
「さようなら、クレス」
せめて痛みのないよう、安らかに逝かせよう。
振り下ろした指先は。
しかし、届くことはなく。
『無粋な真似はよしてもらおう、ヒューマン。その娘が《憤怒》として開花するか否か――確かめもせずに摘み取ってしまうなど、そのような悲哀は認められん』
頭上から飛来する声は、卑徒ルシフ・ルシフのもの。
一体いつ現れた? 奴がこの場に出現したことに、何故誰も気が付かなかった?
もろもろの疑問ごと吹き飛ばす様に、ルシフ・ルシフが手を掲げる。
たったそれだけの動作で、クレスを取り囲んでいた私たちは羽虫の如く吹き飛ばされ地に這いつくばった。
『さあ、見せてくれクレス・クレス。君の罪は、《憤怒》に相応しいものなのかを』
ルシフ・ルシフが笑う。生命の誕生を祝う、一人の父の顔を浮かべて。
やがて変化が訪れた。私たちは何もできないまま、クレスの肉体が光と共に変貌していく。
――絶望は、終わらない。




