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婚約破棄されたので隣国へ嫁ぎます ~“氷の皇帝”は冷酷だと聞いていたのに、なぜか私にだけ甘すぎます~  作者: カルラ


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第九章 今さら返してほしいと言われても

その朝は、珍しく晴れていた。

ノルディアの冬空はたいてい厚い雲に覆われているけれど、その日だけは青が見えた。

薄くて淡い、水色に近い青だ。

王国の空とは違う色なのに、見ていると胸がすっとした。

窓を少しだけ開けると、冷たい空気が流れ込んでくる。

針葉樹の香りと、雪の匂いが混じっていた。

最初は苦手だったこの匂いが、今では朝の合図になっている。

リナに髪を整えてもらいながら、私は今日の予定を考えた。

午前中はエルナ先生との授業。

午後は溜まっている刺繍の続きと、帝国語の文書読解の練習。

夕方にはヴォルター氏と、先日から取り組んでいる帝国北部の農政改革についての資料をまとめる約束がある。

忙しい一日だ。

でも、こういう忙しさは好きだった。

手が動いていると、頭が静かになる。

午前の授業が終わって昼食を済ませ、刺繍の続きを始めた頃、ヴォルター氏が部屋を訪ねてきた。

手に書簡を二通持っている。

その顔が、いつもより少し硬かった。

 

「妃殿下、王国から書簡が届いております」

 

「父から?」

 

「一通はアステル伯爵閣下より。もう一通は……王太子殿下より、です」

 

私は刺繍の針を止めた。

レオニス殿下から。

なぜ今更、という気持ちと、やはり来たかという気持ちが半分ずつだった。

 

「ありがとうございます。置いておいてください」

 

「……お読みになりますか」

 

「後で」

 

ヴォルター氏は何も言わずに深く礼をして、出て行った。

私はしばらく、テーブルの上の二通の封書を見ていた。

アステル家の封蝋と、王家の封蝋が並んでいる。

先に父の手紙を開けた。

父の字は相変わらず力強くて、少し読みにくい。

内容は近況報告と、私の体調を気遣う言葉が中心だった。

最後の行に、「王宮の混乱は続いているが、お前が心配することは何もない。元気でいなさい」と書かれていた。

その一文を読んで、私は小さく息をついた。

父は何も言わないけれど、「元気でいなさい」という言葉の裏に、色々なことが詰まっているのが分かる。

王宮の混乱が続いているのは、五章の書簡からすでに知っていた。

父はきっと、今も苦しい立場にいる。

ありがとう、とページに向かって心の中で言ってから、折りたたんで胸元に仕舞った。

次に、王家の封書を手に取った。

封蝋を見つめながら、少しの間、このまま開けないでいようかとも思った。

でも、知らないままでいる方が後になって尾を引く。

それは経験上、分かっている。

封を切って、折りたたまれた紙を広げた。

レオニス殿下の文字は、相変わらず流麗だった。

見目だけは整っている。

読み始めて、すぐに胸の奥に鈍い何かが生まれた。

怒りとは少し違う。

もっと冷たくて、静かな感覚だ。

殿下は書いていた。

「フィリア、君の大切さに気付いた。今からでも遅くはないはずだ。帰国することを考えてほしい。君がいなくなってから、私は多くのことを失った。そのことに気づくのが遅すぎたことは認める。だが、今からでも取り戻せると信じている」

私は手紙から目を上げて、窓の外を見た。

今日の水色の空は、午後になっても変わらず広がっていた。

薄い雲が端の方に出てきていたが、まだ青が見えている。

気付いた、か。

気付くのが、遅すぎた、か。

感情が波立つかと思ったのに、不思議と静かだった。

怒りもない。

悲しみもない。

ただ、ひどく遠くのことのように思えた。

五年間の記憶が、走馬灯のように流れるわけでもない。

ただ、この手紙を読んでいる今の私と、殿下の婚約者だった頃の私が、別の人間のように感じられた。

あの頃の私は、ここにいない。

今の私が立っているのは、ノルディア帝国の、冬の城の中だ。

手紙をゆっくりと折りたたんだ。

テーブルの上に置いて、立ち上がった。

リナが部屋の隅で、心配そうにこちらを見ている。

 

「フィリア様……」

 

「大丈夫よ」

 

本当に大丈夫だった。

思った以上に、大丈夫だった。

 

「王太子殿下から、帰国を求められていたのですか」

 

「ええ。大切さに気付いたから帰ってきてほしい、と」

 

リナの顔が、みるみる険しくなった。

普段は穏やかな子なのに、珍しい表情だ。

 

「……ずいぶんと、ご自分に都合よくお考えで」

 

「そうね」

 

私は小さく笑った。

怒りがないわけではないかもしれない。

でも今感じているのは、怒りよりずっと穏やかな確信だ。

帰らない。

帰る理由が、何もない。

あそこには私の場所はなかった。

五年間、ずっとなかったのだ。

殿下が「気付いた」と言っても、それで場所ができるわけではない。

私は刺繍道具を脇に置いて、便せんと羽ペンを取り出した。

返事を書く。

短くていい。

しばらく考えてから、ペンを走らせた。

「殿下、お手紙拝見いたしました。私は現在、ノルディア帝国の皇妃として、この国での暮らしを築いております。帰国の意思はございません。どうかお体にお気をつけてお過ごしください」

最後の一文は少し余計かもしれない。

でも、悪意はなかった。

ただ、もうそれだけの人だというのが正直なところだった。

封をして、ヴォルター氏に外交便で送るよう頼んだ。

ヴォルター氏は書簡を受け取って、中身を確認するでもなく、静かに頭を下げた。

 

「承知しました」

 

「ありがとうございます」

 

その夜、夕食の後に皇帝と廊下で行き合った。

執務から戻るところらしく、側近が一人だけ後ろについている。

私は礼をとった。

皇帝は立ち止まって、私を見た。

 

「顔色が優れないが」

 

「そうですか。自分ではあまり感じていませんでした」

 

「何かあったか」

 

少し迷った。

話すほどのことでもないとも思ったし、でも隠すほどのことでもないとも思った。

 

「王国から手紙が来ました。王太子殿下から、帰国を求められました」

 

皇帝の目が、わずかに動いた。

 

「それで」

 

「お断りしました」

 

短く答えると、皇帝はしばらく私を見ていた。

何を考えているのか、いつも通り表情では読めない。

それから、静かに口を開いた。

 

「無理に断る必要はない。お前が戻りたければ、戻る権利がある」

 

「存じております」

 

「だが」

 

皇帝は一呼吸置いた。

 

「戻る気がないなら、もう気にしなくていい」

 

「はい」

 

「向こうの事情は、向こうで片付けることだ」

 

それはひどく的確な言葉だった。

私が自分に言い聞かせていたことと、同じことを言っている。

向こうの事情は、向こうで片付けることだ。

そうだ。

そういうことだ。

 

「……そうですね」

 

「食欲はあるか」

 

唐突な問いに、私は少し驚いた。

 

「あ、はい。夕食はちゃんと食べました」

 

「そうか」

 

皇帝はまだ私を見ていた。

それから一言だけ付け加えた。

 

「お前はここにいていい」

 

声は静かで、特別な色があるわけでもない。

でも、その言葉の輪郭が、胸の奥にはっきりと刻まれた。

お前はここにいていい。

涙が出るかと思ったけれど、出なかった。

それよりもっと、体の奥の深いところに何かが落ちていく感覚があった。

静かで、重くて、温かい。

そういう何かが。

 

「……ありがとうございます」

 

声が少し低くなったけれど、ちゃんと言えた。

皇帝は一つ頷いて、廊下を歩き出した。

後ろの側近がついていく。

私はその背中が見えなくなってから、ゆっくりと深呼吸した。

私はもう、あの国では生きられない。

それは今日初めて思ったことではなく、ずっと心の底で分かっていたことだ。

でも今夜、それをはっきりと言葉にできた気がした。

あの国は私に居場所をくれなかった。

でも今、ここに「いていい」と言われた。

それだけで、十分だった。

部屋に戻ると、テーブルの上にレオニス殿下の手紙がまだ残っていた。

私はそれを手に取って、暖炉の前に立った。

少しの間だけ眺めてから、火の中へ静かに手放した。

紙が端から燃えていく。

インクの黒が消えて、白が消えて、やがてすべてが灰になる。

火が落ち着いたところで、私は暖炉から離れた。

胸の中が、不思議なほど静かだった。

凪いだ水面のような、あの静けさ。

終わりにしよう。

あの五年間のことも、あの人のことも、もう全部。

今夜から、ここだけを見ていく。

ノルディアの星空は、今夜も冷たく、鮮明だった。








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