第十章 皇帝の嫉妬
春が近づいてきた。
まだ雪は残っているけれど、日差しの角度がわずかに変わった気がする。
朝の空気が、ほんの少しだけ柔らかい。
ヴィルマおばさんが「もうすぐ春ですよ」と言っていたけれど、私にはまだその実感が薄い。
それでも確かに、季節は動いている。
ノルディアへ来て、三か月が過ぎた。
気づけば城の生活がすっかり日常になっていた。
ノルディア語もだいぶ聞き取れるようになって、簡単な会話なら自分でできる。
エルナ先生には「すでに中級者です」と言っていただけた。
外交の勉強も続けていて、先月からはヴォルター氏と一緒に実際の書類整理を少し手伝わせてもらっている。
王国での経験が役立っていて、分類と優先順位の整理は得意だった。
ヴォルター氏が「助かります」と言ってくれる時、素直に嬉しいと思えるようになっていた。
そして皇帝との時間も、少しずつ積み重なっている。
図書室での読書の時間。
廊下での短い言葉のやりとり。
夕食後、たまに中庭を少しだけ歩くこと。
どれも長い時間ではない。
でも積み重なると、確かな重さになる。
そういう日々の中で、その日は少し特別な予定があった。
隣国リーゼンの外交使節団が、帝国を訪問する日だ。
リーゼン王国は帝国の東に位置する中規模の国で、近年は貿易関係の再構築を模索しているらしい。
ヴォルター氏から事前に資料を渡されていたので、私はきちんと予習をしてから臨んだ。
謁見の間に並んだ使節団の中に、一人目立つ人物がいた。
リーゼン王国第二王子、エルヴィン殿下。
二十代半ばほどの、柔らかい金髪と人懐っこい笑顔を持つ青年だ。
外交上の表情というより、本当に気さくな様子で、隣に立つ随員に何か小声で話しかけて笑っている。
謁見が終わって場が和らいだ頃、エルヴィン殿下が私の前に歩み寄ってきた。
「皇妃殿下、初めてお目にかかります。リーゼンのエルヴィンです」
「フィリアと申します。ようこそノルディアへ」
「ノルディア語がお上手ですね。王国のご出身とお聞きしましたが」
「来てから勉強しました。まだまだですが」
「いや、とても自然です。私などリーゼン語しか話せないのに」
エルヴィン殿下は屈託なく笑う。
話しやすい人だ、と思った。
外交の場では珍しい、警戒心のない笑顔だ。
しばらく当たり障りのない話をした。
ノルディアの冬の厳しさ、リーゼンとの貿易品目、帝国の温室で育てている野菜のこと。
エルヴィン殿下は何でも面白そうに聞いてくれて、話すうちに私もつられて笑うことが増えた。
王国の社交界では、こういうふうに気楽に笑ったことはあまりなかった。
緊張せずに話せる外交の場というのが、そもそも珍しい。
「皇妃殿下は、温室の花がお好きなんですか」
「ええ。特にシュネーブルーメが。雪の中でも咲くと聞いて、それから気になって」
「可憐ですよね、あの花。リーゼンにも咲くんですよ。春先に山の北側に群生していて……」
エルヴィン殿下が身振りを交えながら話すのを、私は微笑みながら聞いていた。
その時だった。
会話の途中で、ふと部屋の空気が変わった気がした。
なんとなく視線を向けると、広間の端にカイルハルト皇帝が立っていた。
側近と何かを話していたはずなのに、今は腕を組んで、こちらに目を向けている。
目が合った。
表情は、いつも通りの無表情だ。
でも何かが違う。
眉間が、ほんのわずか、険しい。
私は思わず視線を外した。
エルヴィン殿下は気づいていないらしく、まだシュネーブルーメの話を続けている。
「……殿下、少々失礼します。喉が渇きましたので」
「ああ、もちろん。お引き止めしてしまって申し訳なかった」
「いいえ、楽しいお話でした」
私は会話を区切って、飲み物が並んだテーブルへ向かった。
すると背後から、ぴたりと足音がついてきた。
振り返らずとも分かる。
あの規則正しい、静かな足音だ。
「……陛下」
振り返ると、皇帝がすぐ後ろに立っていた。
想定より距離が近くて、少し驚く。
「楽しそうだったな」
「外交のお話をしておりました」
「そうか」
短い返事だけれど、声がいつもより低い気がした。
気のせいかもしれない。
「エルヴィン殿下は、話しやすい方ですね」
「ああ」
「ノルディアのことを色々と聞いてくださって、つい話し込んでしまいました」
「笑っていたな」
「え?」
「今日、何度も笑っていた」
「……それは、楽しい話題でしたので」
皇帝は私の顔をじっと見た。
何か言いたそうで、でも言葉が出てこない、そういう間がある。
私はグラスを手に取りながら、皇帝の表情をそっと観察した。
眉間のわずかな険しさ。
口元の、普段より少し引き結んだ感じ。
腕を組んだまま、視線だけが私とエルヴィン殿下がいた方向の間を行き来している。
まさか、と思った。
それからもう一度、目の前の皇帝を見た。
まさか本当に、この人が。
「陛下」
「何だ」
「もしかして……機嫌が悪いですか」
皇帝の目が、わずかに動いた。
「そんなことはない」
「そうですか」
「普通だ」
「はあ」
普通、と言った割に、その声はやはりいつもより低い。
私はグラスを置いてから、できるだけ穏やかに言った。
「エルヴィン殿下は、とても礼儀正しい方でした。リーゼンの外交姿勢についても、誠実なお考えをお持ちで」
「そうか」
「ただ、話していて楽しいというだけで、他に何かあるわけではありません」
皇帝は無言だった。
私はそのまま続けた。
なぜかこういうことを、言わなければならない気がした。
「私がよく笑うとすれば、それはここでの暮らしが楽しいからです。今日に限ったことではなく」
皇帝がこちらを見た。
「ノルディアが、ですか」
「ええ。それから……陛下のそばが、落ち着くから、だと思います」
口に出してから、少し恥ずかしくなった。
改めて言葉にすると、思ったより直接的だった。
皇帝はしばらく黙っていた。
私は視線を逃がすこともできず、なんとなくグラスを見ていた。
やがて、低い声が静かに降ってきた。
「……あまり他の男に笑いかけるな」
顔が、じわりと熱くなった。
聞こえなかったふりをしようかと思ったけれど、そういう器用なことは得意ではない。
「……善処します」
「善処、とは」
「努力いたします、ということです」
皇帝は一瞬だけ、何かを言いかけた。
でもそのまま口を閉じた。
視線が、わずかに逸れる。
もしかして、この人は照れているのだろうか。
そう思ったら、おかしくなってしまいそうだった。
必死に口元を引き締めながら、私はグラスを持ち直した。
その夜、謁見の場が終わってから、後始末の書類を確認していたヴォルター氏が私のそばへ来た。
ひそひそと耳打ちをしてくる。
「妃殿下、今日は陛下のご機嫌がよろしくない一幕がございましたが」
「……気づいていましたか」
「側近一同、震えておりました。陛下がああいった表情をされた時は大抵、何か大きな問題が起きた時なのですが、今日に限っては」
ヴォルター氏が言葉を濁した。
「今日に限っては?」
「妃殿下がエルヴィン殿下と話されている時だけ、でございました」
「……」
「側近たちが首をひねっておりましたが、私には大体の見当がついております」
ヴォルター氏は表情一つ変えずに言った。
でも口元に、かすかに笑みがあった気がした。
私は何も答えず、静かに資料を閉じた。
部屋に戻る廊下を歩きながら、今日のことを頭の中で整理した。
「あまり他の男に笑いかけるな」
あの低い声が、また耳の中に蘇る。
この人は不器用だ、と思う。
嫉妬しているとは絶対に言わない。
機嫌が悪いとも認めない。
それでも行動と言葉の端に、ちゃんとそれが滲み出ている。
三十年近く、誰も信じずに生きてきた人が、こんなふうに感情を持て余している。
そのことが、少し愛しかった。
愛しい、などという言葉を自分の中に見つけて、私は少し立ち止まった。
廊下の窓の外に、月が出ていた。
ノルディアの月は大きい。
冬の空気が澄んでいるから、輪郭がくっきりと見える。
私はその月を少しの間眺めてから、また歩き出した。
自分の気持ちのことは、もう少し後で、ゆっくり考えることにした。
今夜はまだ、その言葉を心の中で転がしているだけで、十分な気がしたから。




