第八章 あなたの隣にいたい
雪が一段と深くなった頃、私は城の人々と少しずつ打ち解けていた。
厨房のヴィルマおばさんは、私がノルディア語で「美味しかったです」と言うたびに破顔して、翌日必ず新しい料理を試してくれる。
馬番のクラウスは無口だけれど、私が馬に話しかけているのを見て以来、馬の名前を一頭ずつ教えてくれるようになった。
アンネは相変わらず明るく、廊下で会うたびに何かしら話しかけてくる。
王国にいた頃、使用人と親しくなることは少なかった。
「令嬢らしくない」と言われることを、どこかで気にしていたからだ。
でもここでは、そんなことを気にする必要がない。
気づけば自然に、城の人たちの顔と声が、日常の一部になっていた。
リナも、最近は見違えるほど明るい。
「王国にいた頃より、よく笑うようになりましたね」
ある朝、着替えを手伝ってもらいながら言うと、リナは鏡越しにこちらを見て微笑んだ。
「フィリア様が楽しそうだから、私もつられているんだと思います」
「私が?」
「ええ。以前のフィリア様は、いつもどこか遠くを見ているような目をされていました。今は、ちゃんとここを見ている目です」
その言葉に、私は少し考えた。
ここを見ている。
確かにそうかもしれない。
王国にいた頃の私は、常に「どこかで何かが間違っているかもしれない」という緊張を手放せなかった。
失敗してはいけない、目立ってはいけない、迷惑をかけてはいけない。
そういう構えが、いつも体の中にあった。
でも今は、そういう緊張がずいぶん薄くなっている。
なぜだろう、と思う。
環境が変わったから、というだけではない気がした。
その答えは、少し後になって、分かった気がした。
その夜のことだ。
城の夜は早い。
夕食が終われば使用人の多くは下がり、廊下はひっそりと静まり返る。
私も普段はそれに合わせて早めに眠るのだけれど、その夜は目が冴えていた。
理由は単純だ。
寒いのだ。
その夜は特別に冷え込んで、暖炉の火が十分に部屋を温めきれていなかった。
毛布を重ねて横になっても、足先がじんと冷たいままで、どうにも眠れない。
しばらく天蓋を見上げてから、私は諦めて起き上がった。
暖炉に薪を足そうと立ち上がった時、廊下から微かに足音が聞こえた。
規則正しい、しっかりとした足音だ。
聞き慣れた音が、扉の前でぴたりと止まる。
トン、と扉が二回、軽く叩かれた。
「……フィリアか」
カイルハルト皇帝の声だった。
こんな時間に、なぜ。
戸惑いながらも、私はガウンを羽織って扉を開けた。
皇帝は廊下に立っていた。
執務用の黒い上着をまだ着たままで、片手に薪を数本抱えている。
「起きていたか」
「……眠れなくて」
「寒いだろうと思った」
それだけ言って、皇帝は部屋に入ってきた。
私が何か言う前に、暖炉の前にしゃがみこんで、慣れた手つきで薪を加えていく。
火が勢いを取り戻して、部屋がじんわりと温かくなり始めた。
皇帝が立ち上がって振り返ると、私はまだ扉の近くに突っ立っていた。
「夜分に失礼した」
「い、いえ。ありがとうございます。でも、なぜ陛下が直接……」
「夜回りの途中だ」
「夜回りを、ご自身で?」
「ああ」
皇帝は当然のように言った。
城の警備を自分の目で確かめる習慣があるらしい。
母君を亡くしてから、内側への不信感が強いというヴォルター氏の言葉を思い出した。
この人は、今でも自分の目でしか信じられないのだ。
皇帝は帰りかけて、ふと足を止めた。
私のベッドに目を向けて、無言で棚のところへ歩いていく。
引き出しを開けると、中から予備の毛布を一枚取り出した。
それを持ってベッドのそばへ来て、掛け毛布の上に静かに重ねる。
「これで足りるか」
「……十分です。ありがとうございます」
「眠れそうか」
「はい。暖かくなりましたから」
皇帝は一つ頷いた。
扉の方へ歩き出して、そこで一瞬だけ立ち止まる。
振り返りはしない。
ただ、わずかに首だけ動いた。
「おやすみ」
「……おやすみなさいませ」
扉が、静かに閉まった。
私はしばらくその扉を見つめていた。
それから、ゆっくりとベッドに戻った。
二枚になった毛布の中に潜り込むと、温かさがじんわりと体を包む。
暖炉の火が、パチリと小さく音を立てた。
あの人は夜回りの途中に、この部屋が寒いだろうと思って薪を持ってきた。
毛布を重ねてくれた。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、目の奥がじわりと熱くなった。
王国にいた頃、私の体調を気にかけてくれた人はほとんどいなかった。
風邪をひいても、舞踏会があると言われれば出席した。
寒くても暑くても、誰かに言えるような空気ではなかった。
でもこの人は、夜中に薪を持ってくる。
毛布を重ねる。
「眠れそうか」と聞く。
言葉は少ない。
表情もほとんどない。
でも行動は、いつも正確に私の方を向いている。
翌朝、リナに昨夜のことを話すと、彼女は目を丸くした。
「陛下が、直接薪を……!」
「廊下で足音がして、扉を叩かれたのよ」
「それはもう、完全に……」
「完全に、何?」
リナが口をつぐんだ。
でも顔はにこにこしている。
「いえ、何でも。それよりフィリア様、今日は顔の色がいいですね」
「よく眠れたから」
「それはよかったです」
リナはそれ以上何も言わなかったが、ずっと機嫌よく鼻歌を歌っていた。
午後、図書室で勉強をしていると、皇帝が来た。
最近は週に二、三度、こうして互いに本を読む時間ができていた。
最初は偶然の一致だったのが、今ではなんとなく当然の時間になっている。
皇帝はいつものように、棚から一冊を選んで向かいの椅子に腰を下ろした。
どちらも口を開かない。
ただ、静かな時間が流れていく。
私はノルディア語のテキストを読みながら、ふと思った。
この静けさが、好きだ。
何かを話さなければならないわけでも、何かを演じなければならないわけでもない。
ただ、ここにいることを許されている感覚。
その安心が、どこからくるのか少し考えた。
この人が、私を無理に変えようとしないからだ、と思った。
地味だと言わない。
もっと社交的にと言わない。
笑えとも、明るくしろとも言わない。
ただ今の私を、そのまま受け取っている。
それがどれほど珍しいことか、王国での五年間が教えてくれた。
ページをめくる音だけが、静かに図書室に響いている。
皇帝も本を読んでいる。
西日が斜めに差し込んで、石畳の床に暖かな光の帯を作っていた。
不意に皇帝が言った。
「テキストを読んでいるのか」
「はい。ノルディア語の動詞の活用が、まだ慣れなくて」
「どこが分からない」
「えっ」
「見せろ」
躊躇なく言われたので、私は思わずテキストを差し出した。
皇帝は受け取って、ざっと目を通す。
それから、やや手前の椅子を引いてこちらに向きを変えた。
距離が、少し近くなった。
皇帝はテキストの一か所を指差した。
「これは規則変化ではない。北部方言に由来する語幹だ。例外として覚えてしまった方が早い」
「あ……そういう理由があったのですね」
「語源を知ると覚えやすい。他に引っかかっているところはあるか」
気づけば、皇帝がテキストを手にしたまま、一つずつ説明してくれていた。
声は静かで、説明は的確だ。
回りくどいところがない分、すっと頭に入ってくる。
私が「なるほど」と言うたびに、皇帝はわずかに目元がやわらかくなった。
昨日も、一昨日も気づかなかったことが、今日は少し分かる。
この人の表情の変化は、ほんのわずかだ。
でも確かにある。
目元の緩み、眉間のわずかな解け方、口角のかすかな動き。
小さな、でも確かな変化が、ここにある。
気づいている自分が、少し驚いた。
いつの間に、こんなに近くで見るようになっていたのだろう。
「理解できたか」
「はい。おかげで整理できました。ありがとうございます」
「構わない」
皇帝はテキストを返した。
その時、ごく自然に指先が触れた。
ほんの一瞬のことだ。
でも私は思わず手を引いてしまって、それに気づいた皇帝がわずかに目を動かした。
「……すみません」
「いや」
短い返事の後、また静けさが戻った。
私は本を手に持ったまま、視線を落とした。
頬が、少し熱い気がする。
暖炉が近いせいかもしれない。
きっとそうに違いない。
日が沈んで、図書室に夕闇が満ちてきた頃、私はテキストを閉じた。
「そろそろ失礼します」
「ああ」
立ち上がって扉に向かいかけて、ふと足を止めた。
振り返ると、皇帝はまだ本を開いたまま椅子に座っている。
この人の隣は、静かだ。
落ち着く。
怖くない。
そういう場所が、ここにある。
それだけのことが、今日はなぜかとても大切なことに思えた。
「陛下」
「何だ」
「昨夜は、ありがとうございました」
皇帝は顔を上げた。
「よく眠れたか」
「はい。とても」
「そうか」
短い返事だけど、今日はちゃんとその重さが分かる。
私は小さく礼をして、図書室を出た。
廊下に出ると、冷たい空気が頬を撫でた。
でも今夜は、その冷たさがそれほど辛くない。
胸の中に、じんわりとした温かさがある。
この国の冬は長い。
それでも、温かい場所がある。
この人の隣が、私にとってそういう場所になりかけている。
そのことを、私はまだうまく言葉にできないでいた。
ただ、確かにそう感じていた。




