第七章 氷の皇帝の過去
その日の午前中、私はいつものように図書室で勉強をしていた。
ノルディア語の文法書を開きながら、脇に外交史の資料を積んで、二つを行き来するのが最近の習慣だ。
言語と歴史は切り離せない。
条約の文面を読んでいると、語彙が自然に増えていく。
エルナ先生にそう話したら、「理想的な学び方です」と褒めてくれた。
窓の外では、また雪が降り始めていた。
ノルディアの雪は静かだ。
音もなく、ゆっくりと白が積もっていく。
最初は寒さが苦手だったけれど、最近は少し好きになりかけている。
この静けさが、どこか落ち着くのだ。
昼過ぎ、図書室に若い侍女のアンネが顔を出した。
普段から話しかけてくれる、明るい子だ。
「妃殿下、よろしければ一緒にお昼はいかがですか。今日は厨房が特別なスープを作ったと聞きまして」
「ありがとう。でも今日は部屋でいただくわ。もう少しここで読みたいから」
「承知しました。では、お部屋にお持ちします」
「ありがとう」
アンネが去って、また静けさが戻る。
ページをめくりながら、私は少し前から気になっていたことを思い出した。
カイルハルト皇帝のことだ。
この一か月、彼のことを少しずつ知るようになった。
無口で、表情が乏しい。
贈り物を山ほど送ってくる割に、直接言葉で気持ちを伝えることはほとんどしない。
側近たちには厳しいが、不当な命令は出さない。
使用人への扱いは、見ている限り公平だ。
そして、誰もが彼を恐れている。
それは最初から感じていた。
廊下でぴりと空気が変わる感覚も、皆が余計な言葉を発しない緊張感も。
皇帝が通り過ぎるたびに、城全体がわずかに息を詰めるような気がする。
でも私は、怖いと思いながらも、どこかで「違う」という感覚を持ち続けていた。
あの人は、冷たくはない。
それだけは確かだ。
ちょうどそんなことを考えていた時、扉のノック音がした。
「どうぞ」と答えると、入ってきたのはヴォルター氏だった。
手に一冊の古い本を持っている。
「妃殿下、少しよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん」
ヴォルター氏は部屋に入り、私の向かいの椅子に腰を下ろした。
いつもの丁寧な姿勢だが、今日は少し違う空気がある。
何かを話したくて来た人の顔だ。
「今日は少し、陛下のことをお話ししてもよいでしょうか」
私は本を閉じた。
「はい。ぜひ」
ヴォルター氏は手の中の本を見ながら、ゆっくりと話し始めた。
陛下は幼い頃、母君を亡くされている。
それは知っていた。
だが、その経緯については聞いたことがなかった。
「毒殺でございました」
ヴォルター氏の声は、静かで平坦だった。
だからこそ、言葉の重さがじんわりと染みてくる。
「陛下が八歳の時です。当時、帝国内では皇位継承をめぐる争いが激しく、皇后陛下は複数の貴族派閥から命を狙われておりました。護衛を増やしても、最終的には……側近の一人が内通者だったのです」
「……」
「陛下はその場に居合わせました。母君が倒れるのを、目の前で見ていたのです」
私は何も言えなかった。
八歳の子どもが、母親が倒れるのを目の前で見ていた。
しかも、信頼していた側近の裏切りによって。
その後の皇帝が、どれほど人を信じられなくなったか。
想像するだけで、胸が締め付けられた。
「それ以来、陛下はほとんど誰も心を開かなくなりました。側近も、貴族も、誰であっても一定の距離を保たれる。"氷の皇帝"という呼び名は、そこから来ているのです」
「そうだったのですか……」
「外敵が多いのも事実ですが、陛下が強権的にならざるを得なかった理由の一つは、内側への不信感でもございます。信じれば、裏切られる。そう学んでしまった幼い皇帝が、少しずつ力で国を守るようになった」
ヴォルター氏は、手の中の本を私に差し出した。
受け取って見ると、古い写本のようだ。
開いたページには、幼い少年が描かれた細密画がある。
黒い髪、切れ長の瞳。
今より丸みのある顔だが、確かにカイルハルト皇帝だと分かった。
絵の中の少年は、笑っていなかった。
ただまっすぐ前を向いている、小さな子どもの顔だ。
「なぜ、これを私に」
ヴォルター氏は少しの間、窓の外の雪を眺めた。
それから、静かに続けた。
「妃殿下がいらしてから、陛下が変わったとは申しません。ですが、変わり始めているとは、感じております」
「……変わり始めている?」
「陛下がご自身で石を選んで贈り物をしたのは、生まれて初めてのことです。執務の合間に図書室へ行かれるようになったのも、最近のことでございます。以前は、本を取りに来るなどという用途で、執務を中断されることはありませんでした」
私は手の中の写本を見つめた。
笑っていない、小さな皇帝。
この人が三十年近くかけて積み上げてきた壁が、少しずつ、どこかで変わり始めているとしたら。
それは、怖いことではないかと思った。
ずっと信じることを恐れてきた人間にとって、信じ始めることは、むしろ怖いことだ。
「私には、何もできませんが」
「そのままで構わないと思います」
ヴォルター氏は穏やかに言った。
「妃殿下は見返りを求めずに接しておられる。陛下はそれを、ちゃんと見ておられますから」
ヴォルター氏が去った後、私はしばらく写本を持ったままでいた。
見返りを求めずに、と言われた。
でも私は、特別なことをしているつもりはない。
ただ普通に、目の前の人に丁寧に接しているだけだ。
それが特別に見えるとしたら、この人の周りにいる人たちが、ずっとそうではなかったということだ。
八歳の少年が、母を失って。
信じた人間に裏切られて。
それ以来、誰も信じずに生きてきた。
だとすれば、あの無表情の奥にあるものが、少し違う形で見えてくる。
冷たいのではない。
怖いのだ、きっと。
また傷つくことが。
窓の外では、雪がまだ静かに降り続けていた。
夕刻、廊下を歩いていると、執務室の前で皇帝と行き合った。
今日は側近が離れていて、廊下には二人だけだ。
私は礼をとった。
皇帝は立ち止まって、いつも通りの無表情でこちらを見る。
「何か用か」
「いいえ、通りかかっただけです」
「そうか」
少しの沈黙が落ちた。
皇帝は歩き出しそうで、でも動かない。
何か言いたいのか、ただ通り過ぎるだけなのか、判断できない間があった。
私は少し迷ってから、口を開いた。
「陛下、一つ聞いてもよいでしょうか」
「何だ」
「城の温室に、白い花がありますね。私の部屋に活けてくださっているもの。あれはどんな花なのでしょう」
唐突な質問だったかもしれない。
でも皇帝は表情を変えずに答えた。
「シュネーブルーメという。北の冬に咲く花だ。寒さに強く、雪の下でも根を張り続ける」
「綺麗な名前ですね」
「……母が好きだった花だ」
静かな一言だった。
皇帝がそれを言ってから、わずかに目を伏せた。
ほんの一瞬だけ。
すぐに元の無表情に戻ったが、その一瞬が確かにあった。
「だから、温室で育てさせている」
「……そうなのですね」
私はそれ以上何も言わなかった。
言えなかった、というより、言葉にする必要がないと思った。
皇帝も黙ったまま、しばらくその場に立っていた。
廊下の窓の外で、雪がふわりと舞っている。
「寒くないか」
不意に皇帝が言った。
「少し」
「部屋に戻れ。暖炉の薪を増やすよう言っておく」
「ありがとうございます」
皇帝は短く頷いて、執務室の方へ歩き出した。
その背中が廊下の曲がり角に消えるまで、私はそこに立っていた。
シュネーブルーメ。
雪の下でも根を張り続ける花。
母が好きだった花だと、この人は言った。
誰にも話さないようなことを、なぜ私に言ってくれたのだろう。
聞かれたから、だけではない気がした。
私の部屋に毎週届けられていた白い花。
あの花には、そういう意味があったのだ。
胸の奥で、何かがゆっくりと動いた。
温室の白い花のことを思いながら、私は自分の部屋へ戻った。
暖炉の前に座って、両手を温めながら、今日ヴォルター氏が話してくれたことを反芻する。
信じれば裏切られる、と学んでしまった人間が、それでも少しずつ何かを変えようとしているとしたら。
私にできることは何もない、とは言ったけれど。
ただ、ここにいることならできる。
逃げずに、嘘をつかずに、普通に接し続けること。
それだけが、今の私にできる唯一のことだった。
窓の外の雪は、夜になっても降り続けていた。
温室の中では今頃、シュネーブルーメが白い花を咲かせているだろう。
雪の下でも根を張る、北の小さな花が。




