第六章 初めて褒められました
ノルディアへ来て、一か月が過ぎた頃、初めてお茶会への招待状が届いた。
差出人はフォン・ハルツ侯爵夫人。
帝国の有力貴族の一人で、ヴォルター氏によれば「社交界の中心にいる方」だそうだ。
招待状の文面は丁寧だったが、どこかを値踏みするような匂いが滲んでいた。
長年の社交界経験が、そういう勘を育ててしまっている。
「行った方がよいと思います」
ヴォルター氏は迷いなく言った。
「帝国の貴族たちは、妃殿下のことをまだよく知りません。こういった機会に顔を出されることは、長い目で見ればお力になるかと」
「分かりました。参加いたします」
「ただ……」
ヴォルター氏がわずかに声を低めた。
「フォン・ハルツ侯爵夫人は、腹の読めないお方ではあります。どうかご注意を」
「心得ております」
お茶会の当日、私はノルディアから贈られた深青のドレスを着た。
翡翠の首飾りと、アメジストの耳飾りを合わせる。
鏡の前に立つと、リナが満足そうに頷いた。
「完璧です、フィリア様」
「大げさね」
「大げさではありません。そのドレス、本当によくお似合いで」
私は鏡の中の自分をもう一度見た。
王国にいた頃は、いつも地味な色のドレスを選んでいた。
目立たない方が良いと、自然にそう思っていたからだ。
でもこの深青は不思議と、自分のものとして馴染む気がした。
会場はフォン・ハルツ侯爵家の別邸で、城から馬車で三十分ほどの場所にある。
到着すると、すでに十数人の貴婦人たちが集まっていた。
皆一様に私を見て、次の瞬間には互いに視線を交わしている。
値踏みされていると分かっても、動じる気持ちはなかった。
五年間の社交界で、そういう視線には慣れている。
フォン・ハルツ侯爵夫人は四十代ほどの、背筋のしゃんと伸びた女性だった。
笑顔は優雅だが、目が笑っていない。
「よくいらしてくださいました、妃殿下。遠いところを」
「ご招待いただき光栄です、侯爵夫人」
挨拶もそこそこに、着席して茶が配られた。
会話が始まる。
最初は和やかな雑談だった。
ノルディアの冬の過ごし方、城の庭の花、最近の社交界の動向。
私は相槌を打ちながら、場の空気を読んでいた。
異変が始まったのは、しばらくしてからだ。
侯爵夫人の隣に座っていたゴルトシュミット男爵夫人が、さりげなく話の矛先を変えた。
「そういえば妃殿下、王国ではどのようなご活躍をされておりましたの?」
「婚約者として、外交補助や書類整理などを」
「まあ。それはずいぶん……地味なお仕事ですこと」
笑顔のまま、刃のような一言だ。
数人がくすりと笑いを堪えている。
「ノルディアでは、妃殿下にそのようなことはお任せできませんわねえ。なにしろ帝国の外交は複雑で、専門の知識がなければ……」
「そうですね」
私は静かに答えた。
「ですから今、ノルディア語を学ぶと同時に、帝国の外交史も勉強しております。先月だけで関係する文書を五十冊ほど読みました」
男爵夫人の笑顔が、わずかに固まった。
「五十冊……?」
「ええ。特に北方三国との関係については、過去の条約の経緯が複雑で、読み解くのに時間がかかりましたが。ただ、現在の貿易摩擦の原因が第三条約の解釈の齟齬にあることは理解できました」
室内が、少し静かになった。
私は続けた。
語気は柔らかく、しかしはっきりと。
「もちろん、勉強を始めたばかりの私が実務をお手伝いできるとは思っておりません。ですがこの国に嫁いだ以上、この国のことを知る努力は惜しまないつもりです。それが妃としての最低限の礼儀だと思いますので」
フォン・ハルツ侯爵夫人が、初めて本当の意味で私を見た気がした。
それまでの値踏みとは違う、何かを確かめるような目だ。
「……妃殿下は、帝国の外交史をどちらでお学びになったの?」
「城の図書室です。ヴォルター氏にご紹介いただきました」
「一か月で、五十冊」
「まだ入り口に過ぎませんが」
侯爵夫人は少しの間、私を見ていた。
それからゆっくりと、口元に笑みを作った。
今度はさっきとは違う、本物の笑みに近い表情だった。
「……なるほど。陛下がお選びになった方は、なかなかどうして」
その一言で、場の空気が変わった。
男爵夫人のとげとげしさが引いて、残りの貴婦人たちがそれぞれに穏やかな顔に戻る。
話題が別の方向へ流れ始めた。
お茶会が終わり、帰りの馬車に乗り込んだところで、リナが感嘆したように言った。
「フィリア様、さすがです」
「別に大したことはしていないわ。知っていることを話しただけよ」
「でも、あの場の空気が一変しましたよ。男爵夫人もその後は態度が変わっていましたし」
「そうね……」
私は窓の外を眺めた。
曇り空の下に、針葉樹の森が続いている。
内心では、少し手が震えていた。
あそこで切り返せなければ、今後の帝国での立場がかなり難しくなっていたと思う。
勘が正しければ、あのお茶会はある種の試験だった。
フォン・ハルツ侯爵夫人が、私を値踏みするために設けた場だ。
王国でもそういう場は多かった。
だから怯まなかった。
でも終わった後の疲れは、相変わらずじわじわと来る。
城へ戻ると、夕刻でもないのに、廊下でヴォルター氏が待ち構えていた。
「お帰りなさいませ、妃殿下。いかがでしたか」
「なんとかなりました」
「左様でございますか。それは……」
ヴォルター氏がそこで言いかけた時、廊下の奥から足音が聞こえた。
顔を向けると、カイルハルト皇帝が数人の側近を連れて歩いてくる。
私は姿勢を正して礼をとった。
皇帝は立ち止まり、私を見た。
「戻ったか」
「はい。先ほど」
「どうだった」
短い問いだ。
私はどう答えようか一瞬考えてから、正直に答えた。
「少々手厳しい場でしたが、なんとか乗り切りました」
皇帝は私を見たまま、わずかに沈黙した。
それから側近たちに向き直って、はっきりした声で言った。
「私の妃は優秀だ」
え、と思った瞬間、側近たちが揃って「はっ」と頭を下げた。
ヴォルター氏も深く礼をとっている。
私は固まっていた。
皇帝はもう一度私に目を向けた。
表情は変わらない。
でもその目は、確かに私を見ていた。
「ご苦労だった。今夜はゆっくり休め」
それだけ言って、皇帝は廊下を歩き去った。
側近たちがその後ろに続いていく。
気づけば廊下に私とリナだけが残されていた。
しばらく、動けなかった。
「私の妃は優秀だ」
その言葉が、頭の中でもう一度響いた。
皆の前で。
誰かに言い聞かせるのでも、あしらうのでもなく。
ただ、当然のこととして、断言した。
私は五年間、殿下に褒められたことがなかった。
「よくやった」でも「助かった」でも、何でもよかった。
一言でもそう言ってもらえたなら、もう少し違っていたかもしれない。
でも一度もなかった。
だから今、どんな顔をすればいいのか分からない。
胸の奥が、じわじわと熱くなっている。
泣くほどのことでもないと分かっているのに、目の奥が少しだけ熱かった。
「フィリア様」
リナが、そっと私の袖に触れた。
「……大丈夫よ」
声が、わずかに揺れた。
「ただ、ちょっと」
言葉が続かなかった。
リナは何も言わずに、ただそこにいてくれた。
廊下の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。
オレンジ色の光が、石畳の床に長く伸びている。
私の妃は優秀だ。
こんな言葉一つで、こんなにも体の奥が揺れるものなのか。
そのことが、少し怖かった。
どれだけ飢えていたのだろう、私は。
誰かに認められることを。
ただそれだけを、ずっとずっと、待っていたのだ。
夕食の時間になっても、しばらくは食欲が出なかった。
でもスープを一口飲むと、体に温かさが戻ってきた。
リナが心配そうに見ているので、私は無理のない程度に笑顔を作った。
「美味しいわ、今日のスープ」
「……よかった」
「明日からも、ちゃんと勉強を続けるわ」
「はい」
「この国のことを、もっとよく知りたい」
それは本音だった。
帝国の外交史を読んでいる時、私は久しぶりに純粋に何かに熱中していた。
誰かのためでも、褒められるためでもなく、ただ面白いと思ったから。
この国を知りたいと思うのは、この国に居たいからだ。
そしてきっと、この国の人を。
その先まで考えかけて、私は静かに思考を閉じた。
まだ、そこまで考えるのは早い。
ただ今夜は、あの言葉の温かさを、そっと胸の中に仕舞っておくことにした。
私の妃は優秀だ。
初めて、人生で初めて、正面から認められた言葉だった。




