第五章 王国で始まる後悔
ノルディアへ来て、三週間が経った。
言語の授業は順調で、簡単な挨拶ならノルディア語でできるようになった。
城の構造もだいたい把握して、厨房がどこにあるか、図書室がどこにあるかも分かる。
使用人たちの顔と名前も、少しずつ一致するようになってきた。
まだ慣れないことは多い。
寒さも、食事も、言葉も。
でも不思議と、「早く帰りたい」とは思わなかった。
帰る場所が、もうどこにもないからかもしれない。
あるいは、ここが少しずつ「場所」になってきているからかもしれない。
そんなある日の昼過ぎ、ヴォルター氏が部屋を訪ねてきた。
手に一通の書簡を持っている。
「妃殿下、アステル伯爵家より書簡が届いております」
「父から?」
「はい。外交ルートで届きましたゆえ、少し時間がかかりましたが」
封蝋を確認すると、確かにアステル家の紋章だ。
私はヴォルター氏に礼を言って部屋に戻り、封を開けた。
父の字は相変わらず、力強くて少し読みにくい。
でも一文字ずつ追っていくうちに、内容が頭に入ってきた。
読み終えた時、私は書簡を膝の上に置いて、しばらく窓の外を眺めた。
「フィリア様? お顔の色が……」
「大丈夫よ。驚いただけ」
「何が書かれていたのですか」
「……王国が、少し大変なことになっているらしいわ」
リナが首をかしげる。
私はもう一度書簡に目を落とした。
父の言葉を要約すれば、こういうことだ。
私がいなくなってから、王宮の事務処理が滞り始めた。
貴族間の調整で揉め事が増え、いくつかの外交文書の返答が遅れている。
さらに、例年であれば春の貴族会議の前に済んでいるはずの各家への根回しが、今年はまったく手がついていないらしい。
父はその原因を、「あれらはすべてフィリアが担っていた仕事だったと、今になって気づいた者たちがいる」と書いていた。
私は書簡を折りたたみながら、小さく息をついた。
書類整理。
貴族の調整。
外交の補助。
殿下の婚約者として五年間やってきたことの中に、そういった仕事が含まれていた。
誰かに頼まれたわけでも、評価されたわけでもない。
「婚約者として恥ずかしくないように」という一心で、気づけばやっていたことだ。
必要とされているとは、思っていなかった。
ただ、目の前に滞っていることがあれば、黙って片付けるのが性分だったから。
だからまさか、私がいなくなってそれに気づく人がいるとは、想像もしていなかった。
「フィリア様は、王宮でそんなに多くのことをされていたのですか」
リナが驚いた様子で言う。
「たいしたことではないわ。ただ、誰もやっていないことがあれば動いていただけで」
「それはたいしたことだと思いますが……」
「でも、誰にも気づかれていなかったから」
そう言って、自分でも少し苦くなった。
気づかれていなかった。
五年間、ずっと。
いなくなってから初めて気づかれるというのは、なんとも皮肉な話だ。
父の書簡にはもう一つ、気になる一文があった。
「レオニス殿下が、お前の仕事の引き継ぎを誰に任せればよいか、困っておられるそうだ」という一節だ。
困っておられる。
私はその言葉を心の中で繰り返した。
怒りがあるかと問われれば、少しはある。
でも、それよりずっと大きいのは、奇妙な静けさだった。
「やっぱり」という、諦めにも似た感覚。
最初から、殿下は私を人として見ていなかったと思う。
婚約者として、都合のいい存在として、そこにいることを当然だと思っていた。
だからいなくなった時、「困った」と感じる。
悲しむのではなく、困る。
そういう人だった。
書簡をもう一度開いて、父が最後に書いた言葉を読む。
「フィリア、向こうで元気でいるか。お前が幸せでいてくれることが、父の願いだ」
その一文だけが、胸に温かく沁みた。
夕方、散歩がてら城の図書室へ向かった。
ノルディア語の本はまだ読みこなせないけれど、図鑑のような絵の多い本なら眺めるだけで楽しい。
北の植物や動物が描かれた本を一冊抱えて、窓際の椅子に腰を下ろした。
ページをめくりながら、ぼんやりと考える。
王国が大変なことになっているといっても、私にできることは何もない。
もう私はあそこにいないのだから。
関わることもできないし、関わるつもりもない。
ただ、一つだけ思うことがあった。
五年間、私がやってきたことには意味があったのだ。
誰にも言われなかった。
誰にも気づかれなかった。
でも確かに、それは必要なことだったのだ。
そう思うと、少しだけ、胸の中の何かが解けた気がした。
図書室の扉が開く音がした。
顔を上げると、カイルハルト皇帝が入ってきた。
私は慌てて立ち上がろうとしたが、皇帝が手で制した。
「そのままでいい」
「しかし……」
「構わない。私も本を取りに来ただけだ」
皇帝は迷いなく棚の一角へ向かい、一冊を引き抜いた。
それから、なぜか私の向かいの椅子へ腰を下ろす。
図書室には他に誰もいない。
窓から差し込む西日が、斜めに室内を照らしていた。
私は少し緊張しながら、視線を本へ戻した。
皇帝も無言で本を開いている。
ふわりと静かな時間が流れた。
これが不思議と、居心地が悪くはない。
沈黙が気まずいというより、それぞれが自分のことをしているだけの、穏やかな静けさだ。
しばらくして、皇帝が口を開いた。
「王国から書簡が届いたと聞いた」
「はい。父からです」
「内容は」
少し迷ったが、正直に答えることにした。
「私がいなくなってから、王国の事務仕事が滞っているそうです。私が担っていた仕事だと、今頃気づいたようで」
皇帝は本から目を上げた。
「どんな仕事だ」
「書類の整理や貴族間の調整、外交補助など。婚約者として五年間やってきたことです。誰かに頼まれたわけではないのですが、目の前に滞っていることがあれば、つい動いてしまう性質で」
「……それで、相手は何と言っていた」
「困っている、と」
私は少しだけ苦い笑みを浮かべた。
「気づくなら、もう少し早く気づいてくれればよかったと思いますが。今更でも、無駄ではなかったのだと分かりましたから、それで十分です」
皇帝はしばらく黙っていた。
私は視線を窓の外へ逃がした。
夕暮れの空が、橙と紫の混ざった色に染まっている。
ノルディアの夕焼けは、王国のそれより少し暗くて、でもどこか深みがある。
不意に、皇帝が静かに言った。
「それだけの仕事を、五年間黙ってやっていたのか」
「……はい」
「評価もされずに」
「されていなかったのだと、今日改めて実感しました」
「そうか」
それきり、皇帝は黙った。
何かを言うでもなく、慰めるでもなく、ただ「そうか」と受け取った。
でもその一言の重さが、なぜか胸に落ちた。
同情でも、哀れみでもない。
ただ、聞いてくれた。
それだけのことが、じんわりと温かかった。
図書室を出る頃には、すっかり夜になっていた。
廊下でリナが心配そうに待っていて、すぐに傍へ寄ってくる。
「フィリア様、遅かったですね。夕食はどうなさいますか」
「部屋でいただくわ。それと、リナ」
「はい?」
「今夜は温かいスープが飲みたい気分。頼んでもらえる?」
「もちろんです」
廊下を並んで歩きながら、私は父の言葉を思い出した。
「お前が幸せでいてくれることが、父の願いだ」
今日一日、王国のことを考えていた。
滞った仕事のことも、レオニス殿下のことも。
でも不思議と、傷つかなかった。
少し苦くはあったけれど、それ以上に、今ここにいる自分の方が、ずっとリアルだった。
図書室のあの静かな時間。
「そうか」という、短い一言。
夕焼けに染まる窓の外。
王国にいた頃の私には、ああいう時間がなかった。
ここにある静けさが、少しずつ、私のものになっている気がする。
廊下の突き当たりの窓から、星空が見えた。
今夜もノルディアの星は多くて、冷たい空に白くびっしりと広がっている。
私はその星を一瞬だけ見上げてから、また歩き出した。




