第三章 優しさを知らない令嬢
ノルディアで目覚めた最初の朝は、静かだった。
王国の朝は賑やかだ。
鳥の声、馬車の音、使用人たちが廊下を行き交う足音。
アステル家の屋敷は常に何かしらの音で満ちていた。
でもここでは、聞こえるのは風だけだ。
窓の向こうで、低くうなる北風。
それ以外は、しんと静まり返っている。
私はしばらくその静けさの中に横たわっていた。
天蓋の白い布を見上げながら、ここがノルディアだということを、ゆっくりと思い出す。
起き上がると、部屋の暖炉はすでに誰かの手で整えられていた。
昨夜より火が大きい。
部屋の隅まで、じんわりとした熱が届いている。
着替えを手伝いにリナが来て、続けて城の侍女が二人、朝食を運んできた。
二人とも年若い、おそらく私より少し下だろう。
丁寧に礼をとり、テーブルに皿を並べる手際は見事だった。
「ご朝食をお持ちいたしました。本日はスープと黒パン、それから温かい紅茶でございます」
「ありがとう」
私が礼を言うと、二人はわずかに目を瞬かせた。
まるで、礼を言われることに慣れていないような表情だった。
彼女たちが下がってから、私はテーブルについた。
スープを一口すすると、野菜の甘みがじんわりと広がる。
黒パンは王国のものより目が詰まっていて、ずっしりとしていた。
「フィリア様、お顔の色が昨日よりよくなりましたね」
リナが隣でほっとした様子で言う。
「五日間の旅疲れが出ていたのでしょう。今日はゆっくりできそうだから、体を休めるわ」
「そうなさってください。……ところで、このお部屋」
リナが部屋をぐるりと見回した。
「本当に豪華ですね。あのベッドの天蓋、刺繍が細かくて……」
「そうね」
私もつられて視線を上げた。
昨夜は疲れていてじっくり見る余裕がなかったのだが、改めて部屋を眺めると、なかなかに調度が整っていた。
天蓋の白い布には銀糸で草花の刺繍が施されており、窓際には読書に向いた椅子と小机まである。
暖炉の上には花瓶が置かれており、白い小花が活けてあった。
寒い国だというのに、どこで調達したのだろう。
私はその花を眺めながら、少しだけ眉をひそめた。
豪華な部屋。
丁寧な侍女たち。
暖炉の火。
朝食の紅茶。
どれも、過不足なく整っている。
なのに、素直に喜べない自分がいる。
「……何か、裏があるのかしら」
思わず口から出た言葉に、リナが目を丸くした。
「裏、とは?」
「これだけ丁寧に扱われると、逆に怖くなるの」
私は正直に言った。
「レオニス殿下の婚約者だった五年間、こんなふうに扱われたことはなかったから」
リナがすこし困ったような顔をした。
それから、ぽつりと言う。
「……それは、殿下が間違っていたのです」
「そうかもしれない。でも、私の中の基準がそこにあるから」
五年間で私が学んだことの一つは、「良くしてもらうことには理由がある」ということだ。
殿下が優しい時は、必ず何か頼みたいことがあった。
貴族たちが話しかけてくる時は、アステル家に何か用があることが多かった。
純粋な好意というものを、私はうまく受け取れるようになっていない。
だからこの温かな部屋が、この行き届いた世話が、どこか現実のように感じられない。
「とにかく」
私は気持ちを切り替えて、スープの残りを飲み干した。
「今は余計なことを考えず、まずこの国に慣れることを考えるわ」
「そうですね」
「ノルディアの習慣や言語も、少しずつ学ばなければ。侍従長のヴォルター様に、勉強の機会を作っていただけるか聞いてみましょう」
「フィリア様は本当に……まず勉強のことを考えるのですね」
リナが苦笑した。
「だって、手ぶらでいるのは落ち着かないもの」
それだけは、昔から変わらない。
何もしていない時間が、私は苦手だった。
昼前、侍従長のヴォルター氏が様子を見に来た。
言語の家庭教師を手配することと、城内の案内をすることを申し出てくれた。
私がすぐに快諾すると、彼はわずかに驚いた様子を見せた。
「……妃殿下は積極的でいらっしゃるのですね」
「何もしないでいる方が落ち着かない性質なので」
「左様でございますか」
彼は何かを考えるように少し間を置いてから、静かに言った。
「陛下も、それをお聞きになれば喜ばれるかと存じます」
「陛下が、ですか?」
「はい。陛下は……その、口数が少ないお方ゆえ、なかなか直接お伝えにはなりませんが」
ヴォルター氏はそこで言葉を濁した。
何か言いかけて、やめたような間があった。
私は追いかけて聞くことはしなかった。
ただ、小さな疑問だけが残った。
その日の午後。
私は部屋で刺繍をしていた。
旅の荷物の中に、針と糸だけは必ず入れる。
刺繍は子どもの頃から続けている唯一の趣味で、手を動かしていると、不思議と頭の中が静かになる。
白い布に、青い糸で小鳥を刺していると、廊下の向こうからかすかに声が聞こえた。
低い声と、それより少し高い声。
扉越しで、はっきりとは聞こえない。
でも一つの声には、聞き覚えがあった。
カイルハルト皇帝の声だ。
私は思わず手を止めた。
「妃殿下の食事は、今日はどうだったか」
「はっ。朝食はほぼ召し上がっていただけました。ただ、昼の量が……少し残っておりました」
「そうか」
少しの沈黙。
「彼女は痩せすぎだ」
「……はい」
「食事が口に合っていないのか。それとも旅疲れか」
「おそらくは、慣れない環境ゆえかと」
「料理長に言え。王国寄りの味付けのものを一品加えるよう。無理に変えろとは言わない。ただ、選べるようにしろ」
「かしこまりました。……あの、陛下」
「何だ」
「妃殿下は、よく笑うお方ではないのですが……その、怯えているというより、何か考え込んでいるご様子で。ヴォルターも申しておりましたが、自ら言語の勉強を申し出てこられたそうで」
また沈黙があった。
「……そうか」
それきり声は遠ざかり、廊下が静かになった。
私は刺繍の針を持ったまま、しばらく動けなかった。
皇帝が、側近に。
私の食事のことを、真剣に相談していた。
痩せすぎだ、食事が合っているか、選べるようにしろ。
そんなことを、あの無表情の人が言っていた。
なんだか、うまく呑み込めなかった。
レオニス殿下は、私の食事を気にしたことは一度もなかった。
体調が悪くても、「大事な舞踏会があるから出席しろ」と言われることの方が多かった。
誰かに「痩せすぎだ」と心配してもらったことなど、記憶の限りない。
あの人は、なぜそんなことを気にするのだろう。
私は布の上の小鳥を見つめた。
まだ片翼しか刺し終えていない、未完成の小鳥。
裏があるのかもしれない。
そう考えようとする自分が、まだいる。
でも廊下の向こうの声は、誰かに聞かせるためのものではなかった。
あれは、本当にただ心配していただけの声だったように、聞こえた。
どちらが正しいのか、今の私には分からない。
夕食の時間になると、いつもより皿が一つ多かった。
白いスープで、口にすると香草の優しい香りがした。
王国風の、慣れ親しんだ味に近い。
私はそのスープをゆっくりと飲み干した。
どんな気持ちで飲めばいいのか、まだよく分からない。
ありがたいとは思う。
でもそれ以上に、どう受け止めればいいのかが分からない。
好意を、素直に受け取ることが。
私にはまだ、ひどく難しかった。
窓の外では、今夜も北風が低く鳴いている。
星は昨夜よりも多く、冷たい空にびっしりと散らばっていた。
私はスープの皿を静かに置いて、その星を眺めた。
ここが、私の新しい場所。
まだ怖くて、まだ慣れなくて、まだ何もかもが手探りだ。
でも、温かいスープがある。
暖炉の火がある。
未完成の小鳥の刺繍がある。
それだけで、今夜は十分かもしれない。
そう思うことにした。




