第二章 氷の皇帝
ノルディア帝国の首都、ヴァルドシュタットが見えてきたのは、王国を発って五日目の昼過ぎのことだった。
山脈を越え、針葉樹の森を抜けると、突然視界が開ける。
石造りの建物が整然と並ぶ都市が、灰色の空の下に広がっていた。
王国の華やかさとは似ても似つかない、無駄を削ぎ落としたような景観だ。
でも不思議と、その無骨さの中に確かな力強さを感じた。
馬車の窓に額を寄せながら、私はその景色をじっと見つめた。
「……大きいですね」
リナが隣でぽつりと呟く。
「ええ」
短く答えながら、私は都市の中心にそびえる建物へと視線を向けた。
ノルディア帝国の皇城、ヴァルトブルク。
黒みがかった石を積み上げた、どこか要塞に近い印象の城だ。
装飾は少なく、尖塔は空を突くように高い。
王国の白く優美な王宮とは、何もかもが違う。
それでも、見れば見るほど目が離せなかった。
馬車が城門をくぐると、整列した兵士たちが無言で敬礼した。
その動きは一分の狂いもなく、まるで機械のようだ。
私は思わず背筋を伸ばした。
城の内部に案内されると、出迎えたのは年配の侍従長らしき男性だった。
銀髪を丁寧に整え、礼儀正しく一礼する。
「アステル伯爵令嬢、ようこそノルディアへ。私はヴォルター、侍従長を務めております」
「フィリア・アステルです。よろしくお願いいたします」
「陛下はただいま政務をご処理中でございます。謁見は夕刻に。それまで部屋でお休みになるよう、陛下よりご指示がございました」
「承知いたしました」
案内される廊下を歩きながら、私は周囲をさりげなく観察した。
すれ違う使用人たちは皆、仕事ぶりは丁寧だが、どこか緊張した様子がある。
背筋が伸びすぎているというか、表情が固いというか。
廊下の角を曲がった時、ちょうど二人の侍女がひそひそと話しているのが聞こえた。
「……今日は陛下のご機嫌はいかがかしら」
「さあ……朝から難しいお顔をされていたわ。近づかない方が無難ね」
「本当に。先月も書類を渡しに行っただけで、三日間ご機嫌が悪くて……」
二人は私に気づくと、さっと口をつぐんで深々と頭を下げた。
私も会釈を返しながら、心臓がじわりと縮む感覚を覚えた。
書類を渡しに行っただけで、ご機嫌が悪くなる。
その皇帝に、私は今夜謁見するのだ。
案内された部屋は、思いのほか広かった。
天蓋付きの大きなベッドに、窓際には読書用の椅子まで置かれている。
暖炉には火が入っており、冷えた体にじんわりとした熱が届いた。
「素敵なお部屋ですね」
リナが目を丸くしながら言った。
「……そうね」
私は正直、それどころではなかった。
夕刻の謁見まで、残り数時間。
ドレスを何に着替えればいいか、どう挨拶するべきか、失礼のない立ち居振る舞いは何か。
頭の中でぐるぐると考え続けながら、私はひとまず椅子に腰を下ろした。
こんな時、緊張してもどうにもならないと分かってはいる。
でも体というのは正直で、指先がかすかに冷えているのを感じた。
夕刻、侍従長に案内されて謁見の間へと向かった。
廊下を歩くたびに、すれ違う使用人たちが目線を落とす。
誰も余計な言葉を発しない。
静かすぎるほど静かな城だと思った。
謁見の間の扉は、どっしりとした黒い木でできていた。
侍従長が静かにその扉を開ける。
「アステル伯爵令嬢、ご入来」
一歩踏み込んだ瞬間、冷たい空気が肌を包んだ。
広い部屋だ。
天井が高く、柱が左右に並んでいる。
奥に向かってまっすぐ延びた赤い絨毯の先に、玉座がある。
そしてその玉座に、一人の男が座っていた。
足が、ほんの一瞬だけ止まりそうになった。
肖像画で見た通りの人だと思った。
いや、それ以上だ。
切れ長の瞳は涼やかで、整いすぎた顔立ちに光が当たっている。
肩幅の広い体躯に、黒を基調とした軍服が映えていた。
表情は無い。
笑ってもなく、怒ってもなく、ただそこにいるだけで空気を変えてしまうような存在感がある。
カイルハルト皇帝。
"氷の皇帝"の名は、伊達ではなかった。
私は震えを悟られないよう足を踏み出し、玉座の前で丁寧に礼をとった。
膝を折り、頭を下げる。
「アステル伯爵家が長女、フィリアと申します。此度はお招きいただきまして、光栄にございます。どうぞよろしくお願いいたします」
完璧な礼儀作法で言い切った。
指先は冷えていたが、声は震えなかった。
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
一秒が十秒のように感じられる。
頭を下げたまま、私はじっと待った。
やがて、低い声が静かに届いた。
「……長旅で疲れただろう」
それだけだった。
顔を上げると、皇帝はまだ無表情のままこちらを見ていた。
目が合った瞬間、体の奥でぴりっとした感覚が走る。
でもその瞳は、冷たいだけではなかった。
何か、測るような色がある。
私はひとつ呼吸を置いて、答えた。
「はい、少々。ですが、城のお部屋が暖かく、おかげさまで休めました」
皇帝の視線が、私の手元へと動いた。
気づいていなかったのだが、私の両手はかすかに赤くなっていたようだ。
山脈越えの寒さが残っていて、指先がまだ十分に温まっていなかった。
皇帝は無言のまま視線を上げ、傍らに控えていた側近の一人に目を向けた。
「この部屋の暖炉を増やせ。妃殿下の居室も含め、すべての経路に熱が届くよう手配しろ」
「は……はっ」
側近が明らかに驚いた様子で、それでも素早く礼をして下がっていった。
私の後ろで、案内役の侍従長もわずかに息を呑む気配がした。
謁見の間に、また沈黙が満ちる。
皇帝は再び私を見ていた。
表情は変わらない。
でも、あの短い言葉の後から、空気が少しだけ違う。
何が起きたのか、うまく整理できなかった。
ただ一つだけ分かったのは、"恐怖政治の冷血皇帝"が最初に口にしたのは、命令でも試問でもなく、「長旅で疲れただろう」という言葉だったということだ。
「夕食は部屋へ運ばせる。今夜はゆっくり休め」
「……ありがとうございます」
礼をとりながら、私は内心で首をかしげた。
怖い人だ、とは思う。
あの圧倒的な存在感は、確かに只者ではない。
でも何かが、私が想像していたものとは違う。
謁見の間を出ると、廊下でリナが待っていた。
小走りで近づいてきて、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「フィリア様、大丈夫でしたか! お顔が青ざめているように見えて……」
「大丈夫よ」
「皇帝陛下はどんな方でしたか。やはり恐ろしい方でしたか」
少し考えてから、私は正直に答えた。
「……よく分からなかったわ」
「よく分からない、とは?」
「怖いのは怖いの。でも、私の冷えた手を見て、暖炉を増やすよう命じてくださったわ」
リナの目が、まん丸になった。
「え……それは、その……やさしくないですか?」
「だから、よく分からないと言ったのよ」
私は苦笑しながら、廊下を歩き出した。
部屋へ戻ると、本当に暖炉が増えていた。
もともとあった一台に加え、もう一台が壁際に置かれており、部屋全体がほんのりとした熱に包まれている。
私は暖炉の前に立って、両手を広げた。
冷えていた指先に、じわじわと温かさが戻ってくる。
あの人が、命じたのだ。
私の手が冷えているのを見て、一言も余分なことを言わずに。
"氷の皇帝"が。
夕食が運ばれてきた。
スープに焼いた肉、根菜の煮込み。
王国の料理とは味付けが違うが、体が温まる素朴な味だ。
一口食べるたびに、五日分の疲れが少しずつほぐれていく気がする。
食事を終えて、窓の外を眺めた。
ヴァルドシュタットの夜は、王都よりずっと暗い。
街灯の数が少なく、空には星が鮮明に見えた。
王国では、こんなに星が見えなかった。
明かりが多すぎて、星が霞んでしまっていたから。
私は静かに窓枠に額を当てながら、今日の謁見を思い返した。
あの低い声。
「長旅で疲れただろう」という、たった一言。
表情のない顔と、でも確かに私の手を見ていた視線。
恐ろしい人なのかもしれない。
実際、あの場にいた誰もが緊張していた。
侍従長も、側近も、皇帝が口を開くたびに体を固くしていた。
でも私に向けられた言葉は、冷たくなかった。
ならばあの人は、いったいどんな人なのだろう。
答えは、まだ分からない。
でもこの国で生きていくのなら、いつかは知らなければならないことだ。
私はそっと目を閉じた。
怖い。
それは変わらない。
でも今夜、ここに温かい部屋がある。
それだけは、確かなことだった。




