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婚約破棄されたので隣国へ嫁ぎます ~“氷の皇帝”は冷酷だと聞いていたのに、なぜか私にだけ甘すぎます~  作者: カルラ


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第十四章 もう遅いのです

夏が深まった頃、王国から使者が来た。

予告なしの訪問だった。

ヴォルター氏が朝一番で知らせに来た時、私は図書室で資料の整理をしていた。

 

「王国の使者が城門に来ております。レオニス王太子殿下の名代と名乗っております」

 

「……名代、ですか」

 

「はい。妃殿下に直接お会いしたいと申しているとのことで」

 

私はしばらく考えた。

来るとは思っていなかった。

いや、正確には、もう来ないと思っていた。

手紙に返事を出して、それで終わりにしたつもりだった。

でも向こうはそうではなかったらしい。

 

「陛下には?」

 

「すでにご報告しております。陛下は、妃殿下のご意向に任せると」

 

「そうですか」

 

私は資料を閉じた。

逃げても何も変わらないし、逃げるつもりもない。

 

「お通しください。応接室で」

 

「かしこまりました」

 

応接室に向かう廊下を歩きながら、私は自分の気持ちを確かめていた。

緊張はない。

怒りもほとんどない。

あるのはただ、穏やかな確信だけだ。

応接室に入ると、使者はすでに待っていた。

三十代ほどの、見覚えのある男だ。

王宮でたまに見かけた、殿下の側近の一人だと思う。

でもその横に、もう一人いた。

レオニス殿下が、直接来ていた。

私は一瞬だけ目を瞬かせた。

名代と聞いていたのに、本人が来るとは思っていなかった。

殿下は相変わらず端整な顔をしていた。

金色の髪、翡翠の瞳。

でも以前より少し頬がこけていて、目の下に影がある。

疲れているのだと分かった。

 

「フィリア」

 

殿下が立ち上がった。

 

「レオニス殿下」

 

私は礼をとった。

以前のような婚約者としてではなく、他国の妃として。

その違いを、体が自然に表現していた。

 

「久しぶりだな」

 

「はい。お変わりありませんか」

 

「……変わりなくはない」

 

殿下が苦い顔をした。

私は椅子を勧めて、向かいに座った。

リナが控えていて、茶を用意してくれる。

しばらくの沈黙の後、殿下が口を開いた。

 

「率直に言う」

 

「どうぞ」

 

「戻ってきてほしい」

 

私は黙って続きを待った。

 

「お前がいなくなってから、多くのことが上手くいかなくなった。外交も、貴族の調整も、財政の見通しも。お前がどれだけのことをやっていたか、今になって分かった」

 

「そうですか」

 

「分かったんだ、フィリア。お前の大切さが」

 

「……」

 

「ミレーユのことは、私の判断が間違っていた。彼女は私が思っていたような人ではなかった。だがお前は違う。お前は五年間、ずっと誠実だった。それが分かった今、私はお前に戻ってきてほしいと、そう思っている」

 

殿下の言葉は真剣だった。

演技ではない。

本当に、そう思っているのだと伝わってくる。

だから余計に、私の返事は変わらない。

私は静かに、でもはっきりと言った。

 

「戻りません」

 

殿下の表情が、わずかに揺れた。

 

「フィリア」

 

「殿下、少し聞いていただけますか」

 

「……ああ」

 

「私は今、幸せです」

 

まず、それを伝えたかった。

 

「ここへ来た時は、正直怖かった。氷の皇帝のもとへ嫁ぐのだと、皆に同情された。私自身も、覚悟を決めるのが精一杯でした」

 

「だが今は……」

 

「今は、ここが私の場所です」

 

殿下が口をつぐんだ。

 

「陛下は、私を大切にしてくださいます。言葉は少なくても、行動で、いつも。私がここにいていいと、言ってくださいます」

 

「それは……」

 

「私が五年間、殿下のそばでほしかったものです。気づいてほしかった言葉です。でも殿下からもらえることは、一度もありませんでした」

 

責めているのではなかった。

ただ、事実を言っていた。

殿下は何も言えない様子で、視線を落とした。

 

「今更ここから離れることは、私にはできません。したくないと言う方が正確かもしれませんが」

 

「……本当に、そうなのか」

 

「はい」

 

「幸せなのか」

 

「はい」

 

殿下がゆっくりと顔を上げた。

その目に、何か複雑なものがある。

後悔と、羨望と、疲労が混じったような色だ。

 

「そうか」

 

「はい」

 

しばらく沈黙が落ちた。

リナが淹れてくれた茶の湯気が、静かに立ち上っている。

 

「……お前が幸せなら、それでいい」

 

殿下が、ぽつりと言った。

声に、覇気がなかった。

いつも自信に満ちていた殿下の声が、今日はひどく疲れた音をしている。

かわいそうだとは思う。

だが、引き留められない。

私の気持ちは、もうここにしかない。

 

「殿下」

 

「何だ」

 

「王国のことを、どうか大切になさってください。民が困っているとすれば、それは殿下が立て直さなければならないことです」

 

「……説教か」

 

「いいえ。ただ、あの国に育てていただいた者として。それだけです」

 

殿下は少し黙ってから、わずかに笑った。

力のない、疲れた笑みだ。

 

「変わったな、フィリア」

 

「そうですか」

 

「昔のお前なら、こんなにはっきり物を言わなかった」

 

「……そうかもしれません」

 

「それが、本来のお前なんだろうな」

 

その一言は、少しだけ胸に刺さった。

悪い意味ではなく、ただ静かに痛い。

本来の私。

王国にいた五年間、私は本来の自分を出せていなかったのかもしれない。

目立たないように、迷惑をかけないように、ただ空気のようにそこにいることを選んでいた。

ここへ来て初めて、私は少しずつ自分を出せるようになった。

それはこの国が、この人が、私にそれを許してくれたからだ。

殿下が立ち上がった。

使者も続いて立つ。

 

「引き留めて申し訳なかった」

 

「いいえ」

 

「……達者でいろ」

 

「殿下も、どうかお元気で」

 

殿下が扉に向かった。

そこで一度だけ振り返った。

その目に、何かが揺れていた。

悲しみでも怒りでもなく、もっと静かな、諦めのような色だ。

でも私は、その目から視線を逸らさなかった。

扉が閉まった。

応接室に、私とリナだけが残された。

リナが静かに近づいてきて、そっと私の隣に立った。

何も言わない。

ただ、そこにいてくれた。

私は深く息を吐いた。

終わった、と思った。

本当の意味で、全部終わった。

胸の中が、静かだ。

泣きたくもない。

怒りたくもない。

ただ、すっきりと晴れた空のような清々しさがある。

応接室の窓から、夏の庭が見えた。

花が咲いていて、風に揺れている。

眩しいほど緑が深くて、光がきらきらしている。

私はここにいる。

ここにいて、幸せだ。

それが今、何より確かなことだった。

夕方、皇帝が執務室から出てきたところで行き合った。

今日は側近を連れていない。

廊下に二人だけだ。

 

「終わったか」

 

「はい」

 

「どうだった」

 

「戻りません、とお断りしました」

 

皇帝は私を見た。

 

「後悔はないか」

 

「ありません」

 

即答すると、皇帝がわずかに目を細めた。

怪訝ではなく、何かを確かめるような表情だ。

 

「なぜ」

 

「私はここで幸せですから」

 

廊下の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。

オレンジ色の光の中で、皇帝が私を見ている。

しばらくの沈黙の後、皇帝がゆっくりと手を伸ばした。

私の頭に、そっと大きな手が乗る。

子どもをあやすようなしぐさかもしれない。

でも、その手の重さが、ひどく温かかった。

 

「……そうか」

 

それだけだった。

でもその一言に、たくさんのものが詰まっている気がした。

よかった、とか。

ありがとう、とか。

お前がいてよかった、とか。

言葉にならないものが、あの短い「そうか」の中にある。

私はその手の重さを感じながら、静かに目を閉じた。

ここにいる。

この人の隣に、ここにいる。

それだけで、今日という日が完結する気がした。

夕暮れの廊下に、二人の影が長く伸びていた。




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