第十三章 崩壊する王国
初夏の日差しが、ノルディアにも届くようになってきた。
王国の夏ほど眩しくはないけれど、低い角度から差し込む光が、城の石畳を淡く金色に染める。
中庭の花壇には色とりどりの小花が咲いて、馬番のクラウスが照れながら「今年はよく咲いた」と教えてくれた。
あの夜から、皇帝との距離がまた少し変わった。
変わった、といっても劇的なことは何もない。
図書室での時間が増えた。
廊下で行き合う時の沈黙が、前よりずっと穏やかになった。
夕食を共にする回数が、週に三度になった。
ただ、確かに変わっている。
皇帝が私の名前を呼ぶ時、その声の質が少し違う。
私が話しかけた時、目の向け方が少し違う。
その違いを言葉にするのは難しいけれど、そばにいる私には分かった。
そして私自身も、前とは違う。
この人のそばにいたいと、今は迷いなく思える。
それだけで、毎日が少し明るい。
そういう穏やかな日々の中で、王国から知らせが届いたのは、ある晴れた朝のことだった。
差出人は父ではなかった。
帝国の王国駐在大使からの外交報告書で、ヴォルター氏が「妃殿下にもご確認いただいた方がよいかと」と持ってきた。
封を開けて読み始めた瞬間から、内容が重かった。
まず外交の失敗についての記述がある。
王国がここ数か月で締結しようとしていた近隣二か国との貿易協定が、どちらも交渉決裂になったらしい。
理由は「王国側の窓口担当者が交代を繰り返し、話し合いの継続性が保てなかったため」とある。
次に財政悪化の報告だ。
例年この時期に行われる春の貴族会議での税率調整が今年は紛糾し、結論が先送りになった。
それによって国庫への入りが見込みを大きく下回り、夏の軍備費に不足が生じているという。
そして最後の項目を読んだ時、私は少し目を止めた。
王太子殿下の婚約者候補であったミレーユ・フォンタン嬢が、別の侯爵家の次男と婚約したという一節だ。
私はその箇所を二度読んだ。
ミレーユ嬢が、レオニス殿下から離れた。
驚きはなかった。
むしろ、そうなるだろうと思っていた気がする。
ヴォルター氏が以前、「計算高い方のようです」と言っていたことを思い出す。
王国の状況が傾いてきた今、殿下の隣にいることの旨味が薄れたのだ。
報告書を閉じてから、私はしばらく窓の外を眺めた。
中庭の花が、風に揺れている。
白い小花が、光を受けてちかちかと瞬いていた。
かわいそうだとは思う。
思う、けれど。
それ以上の感情が、うまく出てこなかった。
五年間、私があの場所でやってきたことの意味は、今回の報告書の中にある。
外交交渉の継続性。
貴族会議の調整。
誰かが静かに担い続けなければ、積み上がらないものがある。
殿下はそれに気づかなかった。
ミレーユ嬢も、そういう仕事には関心がなかっただろう。
だから今、それが一気に露見している。
ヴォルター氏が部屋の隅で静かにこちらを見ていた。
「ご気分はいかがですか」
「大丈夫です」
「……本当に?」
珍しく、ヴォルター氏が念を押した。
「本当に。ただ少し、色々と考えていました」
「左様ですか」
「王国の現状は、私がどうにかできることではありません。ただ、自分がやってきたことは無駄ではなかったと、改めて思いました」
ヴォルター氏が、静かに頷いた。
「妃殿下がノルディアにいらしたことは、帝国にとって幸いでした」
「そんな大げさな」
「大げさではございません。陛下が変わられました。それは事実です」
私は少し俯いた。
その言葉の重さを、素直に受け取るには、まだ少し慣れが必要だ。
その日の夕方、皇帝が執務室から出てきたところに行き合った。
側近二人を連れていたが、私を見ると歩調を緩める。
「どうした。顔色が少し悪い」
「王国からの外交報告を読んでいたので」
皇帝が側近に目を向けた。
側近たちが察して、少し距離を取る。
「内容は」
「外交失敗、財政悪化、それからミレーユ嬢が別の方と婚約されたと」
「ミレーユというのは」
「元婚約者……レオニス殿下の新しい婚約者候補だった方です。王国の状況が悪化したので、離れたようです」
皇帝は少しの間、私を見ていた。
「それで、お前は」
「私は?」
「何か思ったか」
正直に答えた。
「かわいそうとは思いました。でもそれ以上は……あまり。もうずいぶん遠いことのように感じています」
「そうか」
「はい。それより」
私は少し考えてから、続けた。
「王国の外交が立て直せるかどうかが、帝国にとっても無関係ではないかもしれません。国境を接している以上、向こうの混乱が長引けば影響が出る可能性があります」
皇帝の目が、わずかに動いた。
「……それを考えていたのか」
「外交史を読んでいて気になりまして。もし何か参考になることがあれば、ヴォルター氏と一緒に整理してみようかと思っています」
「やれ」
短い許可だったけれど、その声に温度があった。
夜、リナに今日のことを話すと、彼女は少し複雑な顔をした。
「……フィリア様は、本当に変わりましたね」
「変わった?」
「以前なら、王国のことを聞いて、もっと揺れていたと思います」
「そうかもしれない」
「今日は、ほとんど揺れていませんでしたよね」
「うん」
私は膝の上の刺繍を見ながら、静かに言った。
「あの国で私が大切にしてもらえなかったことは、本当のことだわ。傷がないとは言わない。でも今は、ここの方がずっとリアルなの」
「ここ、というのは」
「ノルディアが、帝国が、この城が。それからここにいる人たちが」
リナが、優しい顔で微笑んだ。
「そうですね」
「だから王国がどうなっていても、私の足元は揺れない。もうあそこに足がついていないから」
窓の外で、風が木々を揺らした。
初夏の風は、王国のものに少し似ている。
温かくて、少しだけ湿り気を帯びた。
でも、ここはノルディアだ。
翌朝の執務の合間に、ヴォルター氏と一緒に資料をまとめ始めた。
王国と帝国の国境付近の貿易ルートと、過去の外交案件の整理だ。
黙々と作業をしていると、扉が開いて皇帝が顔を出した。
執務の合間に立ち寄ったらしい。
私とヴォルター氏が顔を上げると、皇帝は資料の山を一瞥してから言った。
「進んでいるか」
「ある程度は。もう少し時間があれば、提案書にまとめられます」
「急がなくていい。丁寧にやれ」
「はい」
皇帝がひとつ頷いて、出て行こうとした。
扉に手をかけてから、ふと止まる。
振り返らずに、言った。
「……無理するな」
「はい」
「王国のことで、余計なものを抱えるな。お前がここにいればそれでいい」
返事ができなかった。
声が出なかったのではなく、この人の言葉が胸の奥まで届くのに、少し時間がかかったからだ。
扉が閉まった。
ヴォルター氏が手元の資料から目を上げず、静かに言った。
「陛下は、妃殿下のことを大切に思っておられます」
「……知っています」
「そして妃殿下も、陛下のことを」
「ヴォルター氏」
「はい」
「続きを進めましょう」
「かしこまりました」
ヴォルター氏が小さく笑った気がした。
私も笑いを堪えながら、資料に目を戻した。
王国はきっと、これからもしばらく混乱が続くだろう。
外交も財政も、すぐに立て直せるものではない。
でもそれは、もう私の物語ではない。
私の物語は、ここにある。
この城に、この人たちに、この国に。
初夏の日差しが窓から差し込んで、資料の白い紙を明るく照らしていた。




