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婚約破棄されたので隣国へ嫁ぎます ~“氷の皇帝”は冷酷だと聞いていたのに、なぜか私にだけ甘すぎます~  作者: カルラ


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第十二章 私はあなたを守りたい

あの夜から、何かが変わった。

変わった、というより、積み重なってきたものがある一点を越えた、という感じだ。

堤防がゆっくりと水を溜めて、ある時静かに溢れるように。

皇帝は翌日から陰謀に関わった貴族派閥の処理に入った。

尋問、証拠の精査、関係者の拘束。

それらを淡々と、しかし一切の手加減なく進めていく。

廊下で側近たちと話す皇帝の声は低くて、聞こえてくる言葉には一語も揺らぎがない。

こういう時、この人が「氷の皇帝」と呼ばれる理由が分かる気がした。

感情で判断を曇らせない。

必要なことを、必要なだけ、正確にやる。

でも私はもう知っている。

その冷静さの奥に、何があるかを。

貴族派閥の処理が一段落した頃、皇帝が図書室に来た。

いつもより少し遅い時間で、私はちょうど刺繍を片付けようとしていた。

扉が開いた瞬間、顔を上げて目が合う。

最近はこういう時、どちらも特に言葉を探さなくなっていた。

皇帝は棚から本を取って向かいに座り、私は刺繍の続きを広げる。

ただ、今夜は少し違った。

皇帝が本を開いたまま、しばらく視線を落としていた。

でも目が動いていない。

読んでいるふりをして、何か考えている。

その横顔を、私はそっと眺めた。

疲れているのだと思う。

表情には出さないけれど、目の下にわずかな影がある。

あの夜から、まともに眠れていないのかもしれない。

 

「陛下」

 

「何だ」

 

「今日の処理は、一通り終わりましたか」

 

「ほぼな。残りは明日だ」

 

「そうですか」

 

少しの間を置いてから、続けた。

 

「無理をしていませんか」

 

皇帝が顔を上げた。

 

「無理とは」

 

「あの夜から、お顔の色が優れません。私が気づかないとお思いですか」

 

皇帝はしばらく私を見ていた。

何か言いたそうで、でも何を言えばいいか分からないような間がある。

 

「……お前は、よく見ている」

 

「陛下のことは、少し分かるようになりましたから」

 

「そうか」

 

短い返事の後、皇帝は本を閉じた。

膝の上に置いて、今度は窓の外を見る。

夜の窓には、春の星空が広がっていた。

私は刺繍の針を置いた。

それから、ずっと胸の中にあった言葉を、静かに口にした。

 

「陛下のそばにいたいと、思っています」

 

皇帝の視線が、窓から私へと動いた。

 

「それは……どういう意味だ」

 

「言葉通りの意味です」

 

「フィリア」

 

名前を呼ばれた。

いつもは「お前」と言うのに、今夜は名前だった。

それだけで、胸の奥が小さく揺れた。

 

「今回のことで、分かりました。陛下が危ないかもしれないと思った時、私は怖かった。陛下のことが、怖かった」

 

「私が、怖い?」

 

「違います。陛下に何かあることが、怖かったのです」

 

皇帝は何も言わなかった。

ただ、じっと私を見ている。

私は続けた。

言葉が、自然に出てくる。

 

「ずっと、誰かに大切にされることばかりを考えていました。ここへ来てから、陛下にたくさんのことをしていただいて、それが嬉しくて、でも受け取り方が分からなくて戸惑っていました」

 

「……ああ」

 

「でも今は違います。今度は私が、陛下を支えたいと思っています。守りたいと思っています。それが、ただの礼儀や義務からではなく、私自身の気持ちだと、今夜はっきり分かりました」

 

部屋が静かだった。

暖炉の火が揺れる。

窓の外の星が、じっとそこにある。

皇帝はしばらく、私を見ていた。

その目の奥に、何かがある。

いつもの冷静さではなく、もっと柔らかくて、でも深いところにある何か。

三十年近く、誰にも見せなかったものが、今夜だけ少しだけ表に出てきているような。

やがて皇帝が立ち上がった。

私のそばへ、ゆっくりと近づいてくる。

椅子に座ったまま見上げると、見下ろす目に、いつもと違う光がある。

 

「フィリア」

 

また名前を呼ばれた。

 

「はい」

 

「お前が来るまで、誰かにそういうことを言われると思っていなかった」

 

「……」

 

「守りたいと思われると」

 

声が、普段より低い。

でも怖くはない。

むしろ、この人の声が今夜ほど温かく聞こえたことはなかった。

 

「ずっと、誰も信じなかった」

 

「知っています」

 

「それでも……お前のことは」

 

言葉が続かなかった。

この人は言葉が得意ではない。

思っていることを、言葉にして渡すことが、きっとひどく苦手だ。

だから贈り物をする。

だから行動で示す。

だから名前を呼ぶ。

私は静かに立ち上がった。

皇帝と向き合って、少しだけ上を見る。

 

「言葉にしなくても、伝わっています」

 

「そうか」

 

「はい」

 

皇帝が、ゆっくりと手を上げた。

私の頬に、大きな手が触れる。

冷えているかと思ったけれど、温かかった。

いつだって、この人の手は温かい。

目が合ったまま、どちらも動かなかった。

それから皇帝が、ゆっくりと距離を縮めた。

額が触れそうになって、止まる。

問いかけるような間があった。

私は目を閉じた。

それが答えだと、伝わったのだと思う。

唇に、静かなものが触れた。

花びらが落ちるような、そっとした触れ方だった。

一瞬で、でも確かに。

離れた時、私はまだ目を閉じていた。

もう一度開けると、皇帝が近くにいる。

その表情が、今夜は少し違った。

無表情ではない。

何か、ほぐれたような。

氷が、端のほんの少しだけ解けたような、そういう顔だ。

 

「……フィリア」

 

「はい」

 

「失礼したか」

 

少し考えてから、首を横に振った。

 

「いいえ」

 

「そうか」

 

皇帝がわずかに目を伏せた。

それから、かすかに、本当にかすかに、口元が動いた。

笑っている。

あの人が、笑っている。

ほんのわずかで、見逃しそうなほど小さな笑みだけれど、確かにそこにある。

この人の笑顔を、私はおそらく今夜初めて見た。

胸の奥で、何かが温かく溢れた。

泣くほどのことではないと分かっているのに、目の奥がじんと熱くなる。

今夜二度目だ。

私はそれを悟られないように、視線を暖炉の方へ向けた。

火が揺れている。

部屋が、今夜は特別に温かい。

 

「陛下は」

 

「何だ」

 

「今夜はここで、ゆっくり休んでください」

 

「また追い出されないのか」

 

「追い出したことはありません」

 

皇帝が、また小さく笑った気がした。

二人で並んで椅子に座った。

図書室でするように、どちらも本を持つわけでもなく、ただ暖炉の前で静かにしている。

不思議と、何も話す必要がなかった。

ここにいる。

それだけで十分な夜というのが、あるものだと知った。

春の夜は、まだ冷えている。

でも部屋の中は温かくて、暖炉の火が穏やかに揺れて、隣に人の気配がある。

この人を守りたい、と思った気持ちは本物だ。

そしてきっと、この人も同じことを思っていてくれている。

言葉にしなくても、今夜はそれが分かった。

城の夜が、深く静かに更けていった。








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