最終章 世界で一番幸せな花嫁
秋になった。
ノルディアの秋は短い。
夏の終わりと冬の始まりの間に、ほんの少しだけ差し込む季節だ。
木々が赤や黄に染まって、落ち葉が石畳の上を転がっていく。
王国の秋とは違う、野性的な美しさがある。
私はその秋の中で、結婚式の準備をしていた。
正確に言えば、準備をされていた。
ヴォルター氏が段取りを組み、フォン・ハルツ侯爵夫人が式典の作法を教えてくれて、アンネたちが毎日嬉しそうにドレスの話をしに来る。
城中が、何か月も前から浮き足立っていた。
私はといえば、どこかまだ現実のこととして受け止められていなかった。
正式な婚儀は、皇帝から申し出てくださった。
あの夏の日、レオニス殿下が帰った翌週のことだ。
夕食の後、いつものように図書室で並んでいたら、皇帝がいつもより長い沈黙の後に言った。
「正式な式を挙げたい」
本を持ったまま固まった私に、皇帝は続けた。
「お前が嫌なら無理にとは言わない。だが、私はそうしたい」
私は少しの間、本の文字を見つめていた。
視線を上げると、皇帝が静かにこちらを見ている。
表情はいつも通りだ。
でも目の奥に、緊張に似た何かがある。
この人が緊張している。
そう気づいた瞬間、胸の奥から温かいものが溢れてきた。
「……はい」
「はい、とは」
「喜んで、という意味です」
皇帝が、わずかに目を瞬かせた。
それから、あの小さな笑みが口元に浮かんだ。
十二章の夜以来、時々見せてくれるようになった笑みだ。
「そうか」
「はい」
それだけの会話だった。
でも、それで十分だった。
結婚式の当日、私は夜明け前から起きていた。
眠れないというより、目が開いてしまったのだ。
天蓋を見上げながら、ここへ来た最初の夜のことを思い出した。
あの夜も同じ天蓋を見ていた。
怖くて、不安で、ここが自分の場所になるとはまだ思えなかった。
今は違う。
ここが私の場所だ。
疑いなく、迷いなく、そう言える。
リナが部屋に入ってきたのは、窓が白み始めた頃だった。
「フィリア様、起きていらしたのですか」
「眠れなかったわけではないの。ただ、目が覚めてしまって」
「緊張されていますか」
少し考えた。
「緊張というより……嬉しくて、目が覚めた気がする」
リナが、ふわりと笑った。
「よかった」
「ええ」
「では、準備を始めましょう」
白いドレスは、帝国の職人が一から仕立てたものだ。
生地は絹で、裾に向かって少しずつ広がっている。
胸元と袖口に、細かい銀の刺繍が施されていた。
その刺繍の図案を、私が提案した。
シュネーブルーメだ。
冬でも根を張り続ける、北の白い花。
皇帝の母君が好きだった花を、花嫁衣装に入れたかった。
職人さんが見本を持ってきた時、皇帝は少しの間黙ってそれを見ていた。
それから、低い声で「これでいい」とだけ言った。
あの時の声が、今でも耳に残っている。
髪を整えてもらい、ドレスを着て、鏡の前に立った。
鏡の中の自分を、しばらく眺めた。
王国にいた頃の自分とは、違う。
顔立ちは変わらないのに、目の色が変わった気がする。
あの頃は、いつもどこか緊張で張り詰めていた。
今は、ただそこにいる。
ここにいていい、という確信が、表情に出るものなのかもしれない。
「綺麗です、フィリア様」
リナが、少し声を詰まらせながら言った。
「ありがとう、リナ。ずっとそばにいてくれて」
「私の方こそ。フィリア様が幸せそうで、本当によかったです」
リナの目が赤くなっていた。
私も同じになりそうで、慌てて上を向いた。
「泣いたら化粧が崩れるわよ」
「そうですね、ふふ」
二人で笑って、どうにか持ちこたえた。
式典の会場は、城の大広間だった。
扉の前に立った時、中から音楽が聞こえてきた。
ノルディアの伝統的な弦楽器の音色で、荘厳で、でも温かみがある。
扉が開く。
一歩踏み出した瞬間、目に入ったのは人の多さだった。
帝国中の貴族が集まっている。
フォン・ハルツ侯爵夫人が最前列で、珍しく柔らかい顔をして立っている。
ヴィルマおばさんがいる。
クラウスがいる。
アンネが手を口に当てて、今にも泣きそうな顔をしている。
エルナ先生が目を細めて微笑んでいる。
城で出会った全ての人が、ここにいる気がした。
ゆっくりと歩きながら、私は前を見た。
祭壇の前に、カイルハルト皇帝が立っていた。
黒の礼服に、胸元に金の勲章。
整いすぎた顔は、いつも通りの無表情だ。
表情一つ変えずに、ただまっすぐ前を向いている。
でも私には分かる。
目の奥に、あの笑みの気配がある。
まだ表には出ていない、でも確かにそこにある。
歩みを進めるたびに、その距離が縮まっていく。
皇帝の前に立った時、目が合った。
周囲の音が、少しだけ遠くなった気がした。
音楽も、人の息遣いも、何もかもが少し遠ざかって、目の前の人だけがはっきりと見える。
この人の目を、私は知っている。
冷たいのではない。
深いのだ。
たくさんのものを抱えて、それでもここに立っている。
誓いの言葉を読み上げる声が、広間に響いた。
帝国の作法に従った、長い誓いだ。
私の番になった時、私は皇帝の目を見たまま言葉を紡いだ。
ノルディア語で。
三か月かけて覚えた言葉だ。
エルナ先生に何度も直してもらって、リナに聞いてもらって、それでも不安で、昨夜も声に出して練習した。
「あなたの隣に、ずっといます」
最後の一文だけは、自分で考えた言葉だ。
決められた誓いの文言の後に、一言だけ付け加えた。
皇帝の目が、わずかに動いた。
式典官が一瞬だけ戸惑った気配がしたけれど、それを上回る速さで皇帝が頷いた。
「……私もだ」
決められた誓いにはない言葉だった。
でも広間は、その言葉を静かに受け取った。
誰かがどこかで、小さく息を呑む音がした。
皇帝が手を差し伸べた。
私はその手に、自分の手を重ねた。
大きくて、温かい手だ。
初めてこの城に来た日、私の冷えた手を見て暖炉を増やすよう命じた人の手だ。
指が絡まって、そのまま握られた。
式典が進んで、最後の祝福の言葉が述べられた時、広間が一斉に沸いた。
拍手と歓声が重なって、音楽が再び流れ始める。
城が、帝国が、今日という日を祝っている。
皇帝はそれでも無表情のままで、前を向いていた。
さすがだと思う。
これだけの人の前で、表情一つ変えないのだから。
でも、私だけが知っている。
握った手が、ほんの少しだけ、力を込めたことを。
人々が近づいてくる前の、ほんのわずかな時間に、皇帝が私に顔を向けた。
皆の視線がまだ少し遠い、その一瞬だけ。
口元が、ゆっくりと動いた。
皆の前では見せない、あの小さな笑みが、今日は少しだけ大きかった。
「……よかった」
声は小さくて、私にしか届かない。
「何がですか」
「お前が来て、よかった」
胸の奥が、温かく震えた。
泣かないと決めていたのに、今度こそ涙が来そうで、私は唇を噛んだ。
深呼吸して、どうにか笑顔を作る。
作ったはずが、自然に笑えていた。
「私も、ここに来てよかったと思っています」
「そうか」
「はい」
「……これからも、そう思ってくれるか」
珍しく、問いかけだった。
この人らしくない、少し不安の滲んだ問いかけ。
私はその目を見て、はっきりと答えた。
「あなたに嫁げて、幸せです」
皇帝が、また口元を動かした。
今度の笑みは、今までで一番大きかった。
まだ小さいけれど、でも確かに、この人の笑顔だ。
「……私もだ」
その声が、胸の一番深いところに落ちた。
人々が寄ってくる。
ヴォルター氏が丁寧に礼をとって、フォン・ハルツ侯爵夫人が目を潤ませて、アンネが遠くから手を振っている。
ヴィルマおばさんは豪快に泣いていた。
皇帝の手はまだ、私の手を握っていた。
人の波の中に立ちながら、私は小さく息をついた。
怖かった。
あの舞踏会の夜、婚約破棄を告げられて、氷の皇帝のもとへ嫁げと言われた夜。
馬車の中で、震える手を膝の上で重ねていた夜。
この城に着いて、無表情の皇帝と初めて目が合った夜。
全部、怖かった。
でも今、この場所に立っている。
あの恐ろしいほど美しい肖像画の人が、今私の隣にいる。
あの人が、私の手を握っている。
人生というのは、不思議なものだと思う。
失ったと思ったものの先に、こんな場所があるとは思わなかった。
でも確かに、ここにある。
私の場所が。
私の人が。
私の幸せが。
城の大広間に、秋の光が差し込んでいた。
高い窓から入る光が、石畳を金色に染めて、人々の上に降り注いでいる。
その光の中で、帝国が笑っていた。
そして私も、笑っていた。
世界で一番幸せな花嫁として、ここに立って、この人の隣で。
シュネーブルーメの刺繍が施された白いドレスの裾が、光を受けて静かに輝いている。
雪の下でも根を張り続ける花と同じように、私もここに根を張った。
この国に。
この人に。
この場所に。
それだけで、もう十分だった。
終幕




