第7話 仙石海寧は、上手な嘘が吐けない
天ノ川女学院の長い廊下を歩く海寧の足音は、いつも通り、一切の乱れを許さないほど正確なリズムを刻んでいた。磨き上げられた床にヒールの音が規則正しく響き、冷え切った空気の中へ吸い込まれていく。
彼女にとって、この学院とは秩序そのものだった。完璧な規律、完璧な礼節。副会長として、その背骨を正すことに己のすべてを捧げてきたはずだった。
けれど、この数日だけは違う。
視界の端に、先日街で見かけた光景がちらつく。人混みの中、さらの腕に深く抱き寄せられていた杏奈の姿。二人の輪郭は重なり、人目も憚らず身を寄せ合う様子は、海寧の知らない親密さに満ちていた。
なぜあの場から目を逸らし、逃げるように立ち去ってしまったのか。理由は今も分からない。ただ、あの光景を思い出すたび、胸の奥に正体不明の重たいものが広がっていく。
それ以来、海寧はあからさまに杏奈を避けてしまっていた。顔を合わせれば、何だか杏奈に冷たくしてしまいそうで、それが嫌だった。
廊下ですれ違えば言葉を交わす前に足早に通り過ぎ、生徒会室で姿を見かければ、即座に書類の山へ目を落として実務的な会話以外を避ける。
理由も分からないまま、今の海寧はただ、距離を取ることでしか、この落ち着かない感情をせき止められないでいた。
◇
今日は、冬休みを控えたクリスマス礼拝。
天ノ川女学院の伝統行事の一つで、全校生徒がチャペルに集まり、一年の終わりを静かに省みる日だ。海寧は、その進行を管理する立場にあった。
チャペルの中は、冬の冷気と無数のロウソクの灯りに満ちていた。蝋の焼ける仄かな匂いが、静謐な空気にひとすじ溶け込む。厳かな讃美歌の調べが、高いアーチ天井へと吸い上げられていった。
海寧は聖歌隊席の裏手に立ち、生徒たちの整列を見渡していた。
その視線が、ふと一箇所で止まる。
──梅沢杏奈。
ステンドグラスから差し込む淡い光とキャンドルの炎が交差し、彼女の横顔をなぞっていた。
いつもなら、生徒会の報告書や礼儀作法といった、観察の対象として見ているだけだったはずだ。今も、そのつもりで彼女を眺めているだけだと、海寧は自分に言い聞かせた。
遠ざけようとすればするほど、むしろ杏奈という存在は海寧の中で重みを増していた。
歌声がふっと途切れ、チャペルを重い沈黙が満たす。キャンドルの炎だけが、微かに揺れて息づいていた。
その刹那、杏奈がふとこちらへ顔を向けた。
──目が合った。
海寧は息を呑み、慌てて視線を逸らした。心臓が、不規則に大きく跳ねる。
(何をしている、落ち着け。お前は今、業務中だぞ)
そう自分に言い聞かせても、冷たいはずのチャペルの中で、頬にじわりと熱がにじんでいた。
◇
礼拝が終わり、荘厳な余韻の残るチャペルから生徒たちが去っていく。
残されたのは、祭壇の片付けを任された会長のさら、書記のさゆり、副会長の海寧、そして手伝いの杏奈だけだった。
海寧はいつものように的確な指示を出していたが、その声はどこか硬く、普段の明瞭さとは違う響きを帯びている。
杏奈の姿が視界に入るたび、瞬時に視線を滑らせ、別の方角の備品チェックへ没頭してしまう。
杏奈は、海寧が自分をあからさまに避けていることを肌で感じ取り、そのたびに胸の奥がキュッと締め付けられるような寂しさを覚えていた。
(海寧先輩……この前一緒に帰った時は、もっと仲良くなれそうだったのにな)
無意識に、小さな溜息が漏れる。
「海寧、そんなに急いで片付けなくても、今夜はそう簡単に門は閉まらないわよ。もっとゆっくりやっていいのよ?」
そんな二人の様子を見かねたように、さらが柔らかな声で海寧に声をかけた。
「そうだよ、海寧ちゃん。あまり張り詰めすぎると、せっかくのクリスマスの夜なのに息が詰まっちゃうんじゃない?」
さゆりも穏やかに言葉を添える。
二人は視線を交わし、何かを確認するように小さく頷いた。
「さて、今日の作業はここまでね。あとは重い装飾品を生徒会室へ戻せば終わりだけれど……海寧、その大きな燭台を一人で運ぶのは大変でしょう?梅沢さん、手伝ってあげてくれるかしら」
海寧の背筋が、ぴくりと震えた。
拒絶の言葉を口にするよりも早く、杏奈が「はい、喜んで!」と明るく返事をしてしまう。
「……必要ない。一人で運べる」
海寧の素っ気ない拒絶に、杏奈は一瞬だけ表情を曇らせた。その様子が、海寧の胸に小さな痛みを与える。
しかし、さらが追い打ちをかけるように続けた。
「海寧、副会長としてあなたも分かっているはずよ。生徒会室の整理整頓も重要な職務だってこと。それに、梅沢さんは貴重な戦力でしょう?遠慮なんてしていたら、冬休みまで終わらないわよ」
「海寧ちゃん、梅沢さんの手際なら、往復の手間も半分で済むと思うけどな。……まさか、梅沢さんと二人きりになるのが不満、なんてことないよね?」
さゆりの意味深な微笑みが、海寧の心臓を射抜く。
海寧は、さらたちが何を考えているのか分からなかったが、首を横に振ることはできなかった。
「……わかった」
結局、海寧は従うしかなかった。それが規律であり、副会長としての役割だからだ。
杏奈が近寄ってくる。二人で重い燭台を抱え、誰もいない廊下を歩き出す。
◇
人気のない校舎は、夜の帳が下りて冷え切っていた。
重なる二人の足音だけが、静まり返った廊下に規則正しく響く。先ほどまでの礼拝の厳粛さが嘘のように、二人きりの空間は妙に息苦しかった。
「あの、海寧先輩」
沈黙を破ったのは杏奈だった。
「何か用か。今は作業中だ」
海寧はあえて冷たく切り捨てた。しかし、その声は微かに震えていた。
「最近、私、何か気に障るようなことをしてしまいましたか?先輩が、その、すごく……避けているような気がして」
直球の問いかけに、海寧の指先が不自然に強張る。
海寧は杏奈を見ようとせず、前だけを見据えて歩いた。
「勘違いだ。単に業務が立て込んでいるだけだ」
「そうですか。それなら、いいんです。先輩が忙しいだけなら」
杏奈が控えめな笑みを浮かべる。それが、海寧の胸をさらに締め付けた。
自分自身が突き放したはずなのに、その結果として杏奈が寂しそうにしているのを見ると、喉の奥が痛んだ。そんな顔をされると、自分でもまだ正体の分からない何かを、隠しきれなくなりそうだった。
生徒会室に辿り着き、燭台を棚に収める。
狭い室内の空気は、二人を閉じ込めるように淀んでいた。窓の外を見ると、いつの間にか冬の夜空から白く冷たい雪が舞い落ち始めている。
さらの思惑通り、二人は完全に二人きりになってしまった。
言葉を探すこともできぬまま、沈黙だけが重くのしかかる。
◇
「会長、良かったんですか?二人にしてしまって」
残ったチャペルで、さゆりがそっとさらへ問いかけた。
窓の外に舞い始めた雪が、街灯の光を受けて淡く輝きながら落ちていく。
「ふふ、さゆり。それはどういう意味?」
さらは片付けの手を止めないまま、涼やかな声で聞き返した。
「海寧ちゃん、最近ずっと梅沢さんを避けているように見えましたし。それに、本当に二人になりたかったのは、会長の方なのでは?」
さらはそれ以上答えず、ただ小さく笑った。
けれど、その笑みがいつもよりほんの少しだけ取り繕われていることを、長い付き合いのさゆりは見逃さなかった。
「少し、海寧の背中を押してあげただけよ。海寧は不器用だもの」
さゆりはそれ以上追及せず、いつもと変わらない距離感で、さらの隣に寄り添い続けた。
◇
燭台を置き、二人はチャペルへ戻った。
生徒会室への往復を終えて戻った頃には、さらとさゆりの姿はもうなく、取り残されたような静けさだけが満ちていた。
海寧は、あの日以来、意識的に杏奈を視界から排除していた。
人混みの中でさらと寄り添っていたあの光景が、視界の端に杏奈の影が映るたびに蘇るからだ。
一方の杏奈は、海寧が自分を突き放し、目を逸らし続ける日々に、耐え難いほどの寂しさを覚えずにはいられなかった。
海寧が何故そんな態度を取るのか理由は分からない。それでも、自分に向けられる冷たさの裏側には、悪意というよりも、どこか切実なものを感じていた。
杏奈は、備品をまとめる海寧の硬い背中に向かって、一歩足を踏み出した。
(うん……やっぱり、このまま気まずいまま先輩と別れるのは嫌だ。もし私が何かしてしまったなら、ちゃんと直したい。このまま冬休みに入って、せっかく近づけた距離まで消えてしまうのはもっと嫌だ)
「あの、海寧先輩!」
杏奈の呼びかけに、海寧の肩が小さく強張った。
彼女は振り返ることなく、淡々と燭台を布で拭き続ける。
「……何だ」
背中越しに響く海寧の声は硬質で、突き放すような冷たさを孕んでいた。その言葉とは裏腹に、燭台を持つ指先は白くなるほど強く締め付けられている。
杏奈は深呼吸をして、震える指先を制服の裾で握りしめた。
海寧に嫌われたくないという気持ちと、拒絶を恐れずに踏み込みたいという勇気が、彼女の中でせめぎ合う。
「このまま、何も分からないままでいるのは嫌です。備品の片付け、私にも手伝わせてください!そのあと……もしよろしければ、一緒に帰ってもいいですか?」
海寧の動作が、ふいに止まった。
金属の燭台が、布の上でほんの少し高い音を立てる。沈黙がチャペルの延長のように重くのしかかり、窓の隙間から吹き込む冬の風が、二人の間の温度を奪っていった。
杏奈からの、あまりに率直な誘い。
いつもなら業務を理由に即座に断っていたはずだった。それなのに、ここ数日、杏奈を避けながらも、その実は誰よりも杏奈の視線を求めていたのではないかと、海寧はどこかで気づき始めていた。
「……どうしたんだ、急に。自分の業務が終われば、後は冬休みだぞ。私を手伝うことに何の利点がある」
振り返るとそこには、不安げに、それでもまっすぐに海寧を見つめる杏奈の瞳があった。
その瞳の中に、自分の中にあるものと同じ、名付けようのない熱のようなものを見た気がした。
「利点とかそんなんじゃなくて。私は、ただ……先輩と、帰りたいんです」
飾りのない直球の言葉だった。
海寧は一瞬、返す言葉を失った。拒絶しても諦めずに歩み寄ってくる杏奈の真っ直ぐな姿に、海寧の中の頑なな何かが、音を立てて崩れていくのを感じた。
そして、その崩れた隙間から、自分でもまだ名前をつけられない淡い感情が、ほんの少しだけ顔を覗かせた。
「……分かった。ただし、帰る際は寄り道は一切許さない。……さっさと終わらせるぞ」
海寧は杏奈の返事も待たず、重い燭台を抱えて足早にチャペルを後にした。その歩幅は、いつもよりわずかに乱れていた。
杏奈は海寧の背中を追いかけながら、冷たかった先輩がようやく少しでも自分を受け入れてくれたことに、胸がじんわりと弾んでいた。
◇
校舎を出た途端、頬を刺すような冷気とともに、白い結晶が視界を舞った。街路樹に灯るイルミネーションが、降り積もる雪を透かして幻想的な光の粒となって揺れている。
二人は並んで歩いていた。雪を踏みしめる靴音が、夜の静寂に規則正しく響く。
隣を歩く杏奈を意識するだけで騒ぐ鼓動は、もはや規律や業務では制御できそうになかった。
海寧は、先日街で見た光景がまだ頭から離れずにいた。晴れない不快感と、一緒に帰りたいと言われた甘い高揚感が、胸の中で絡み合っている。
「……海寧先輩」
沈黙を破ったのは、杏奈の小さな声だった。
彼女は雪道で足を止め、真っ直ぐに海寧を見つめる。
「自分が、先輩に嫌われてしまうようなことを……何かしてしまったのかと思いました」
直球の言葉だった。
海寧の手が、防寒手袋の中で不自然に強張る。彼女の瞳を見ていると、いつもの副会長としての矜持が、あっけなく崩れ落ちそうになった。
杏奈が本当にそんな風に思っていたのだと知り、海寧の胸に申し訳なさが刺さった。
「……勘違いだ。別に、嫌うようなことなどお前はしていない。先程話した通り、業務が立て込んでいただけだ」
「それなら良かった〜〜……!せっかく先輩と仲良くなれそうな気がしてたのに……って、本当に気が気じゃなかったんです」
杏奈の声から安心したように力が抜けていた。
それほどまでに自分のことを気にされていたのかと思うと、海寧の中で張り詰めていた糸が、音もなく緩んでいく。
同時に、ずっと抑えていた言葉が、堪えきれずに口をついて出た。
「先日、お前とさらを街で偶然見かけた。……二人でいただろう。随分と……その、親しげに」
普段通りに言葉を発しているつもりでも、言い方に少し棘があったかもしれない。
海寧は、気まずさから視線を伏せた。
杏奈は一瞬、何のことかと目を丸くしたが、すぐに状況を理解したようだった。
「え?……ああ!あれは会長が遊びに誘ってくださって」
「何?さらが?」
「そうか。二人で遊びに出かけるほど、お前たちが親しくなっていたとは、知らなかった」
(なぜ?どうして私が、こんなにイライラするんだ。別に、梅沢は何も悪いことは言っていないのに)
「帰りに歩いてる人にぶつかられて、危うく転ぶところだったんですけど、会長が咄嗟に……」
「……もう、いい」
杏奈の言葉は、海寧の心に冷水を浴びせた。
事故。抱き合っているように見えたのは、ただの事故だったのか。
それまでの葛藤が、あまりにも空虚な思い違いだったのかと思うと、安堵と共に、何とも言えない複雑な想いがせり上がってくる。
(……私は、梅沢と学外で会ったことなど、一度もないのに)
「えへへ。海寧先輩、もしかして……ヤキモチですか?」
杏奈は冗談のつもりで、ふわりと笑って言い放った。その無邪気で核心を突く言葉が、海寧の取り繕おうとしていた心を粉々に砕いた。
「な……ッ!?」
意表を突かれ、瞬時に真っ赤に染まった海寧の顔が、街灯の光に晒される。
「ば、バカを言うな!私は、私はただ……!」
「……なんて、海寧先輩がそんなわけないですよね。あ!でも、会長と海寧先輩、すごく仲が良いですし、信頼関係や絆が深いから、会長のことが大切で、だから妬いちゃうのも無理もないか!って……あれ?海寧先輩?」
よりにもよって杏奈はあらぬ方向に納得してしまい、海寧の心中をさらへの嫉妬だと思い込んでいる。
その勘違いが、海寧の中で何かのスイッチを強制的に押し切った。
「違う、私は……!!」
柄にもなく、海寧の声が裏返る。
杏奈が不思議そうに海寧の方を向き、顔を覗き込もうと距離を詰めてくる。海寧は咄嗟にその手を掴み、顔を赤くしたまま睨みつけた。
「……っ、私が妬いていたとしたら、なんだと言うんだ」
それは海寧自身も驚くような、あまりにも脆く、震えを帯びた声から咄嗟に零れた言葉だった。
杏奈が呆然と声を漏らし、足を止める。
海寧は自分の口から出た言葉に息を止め、即座に「しまった」と内心で悲鳴を上げた。
だが、一度放たれた言葉は、冷たい雪の中に残り、二人の間に重い沈黙をもたらす。掴んだ手を、やんわりと離す。
「……ばーか、冗談だ」
海寧は作りこんだ不敵な表情を見せて言い捨てると、逃げるように足早に歩き出した。
その表情を保つだけで精一杯で、顔の熱はなかなか引かない。心臓がうるさすぎて、思考が追いつかなかった。
「え、……ええええ〜〜っ!?冗談!?せ、先輩も冗談言ったりするんですね!意外でした!」
顔を赤くしたまま後を追いかけてくる杏奈。
「……フン、私だって冗談くらい言える」
そんな強がりを言いながら、海寧は必死に表情を隠す。
杏奈はそんな海寧の背中を見て、小さな笑みをこぼす。
(──まだ、帰りたくない。明日から冬休みだなんて、信じたくない)
胸の底に浮かんだその想いに、海寧は自分でも戸惑いながら、雪の中を歩き続けた。
二人の足音が、夜の静寂の中に溶け合っていく。二人の間に流れる空気が、さっきまでの硬質なものから、少しずつ形を変え始めていた。
◇
積もった雪を蹴る二人の靴音が、夜の静寂の中に規則正しく重なり合う。
街灯の下を通り過ぎるたび、雪の結晶が一粒ずつ、はっきりとその形を主張しながら舞い落ちていく。人通りの絶えた住宅街は、まるで世界からこの二人だけが切り離されてしまったかのように静まり返っていた。
隣を歩く杏奈の存在感は、先ほどよりも濃厚に、海寧の意識をじりじりと占め続けている。
歩幅を合わせるでもなく、ただ自然に並んで歩いているだけなのに、その距離の近さが、これまで感じたことのない落ち着かなさを海寧に与えていた。
先ほど自分の口から零れた言葉を思い返すと、まだ落ち着かなかった。
自分が勝手に妬き、たった一人の後輩にここまで乱されていた。その事実を思えば、羞恥で息が詰まりそうになる。
(……これでは、まるで……)
その先だけは、考えなかった。
今ここでこの感情に名前を与えてしまえば、もう後戻りできなくなる気がした。
このまま別れてしまえば、明日からは杏奈のいない、静まり返った冬休みが始まる。
この胸の奥に渦巻く熱の正体を、分からないまま放置して年を越すことなど、到底できそうになかった。
杏奈の家の前まで辿り着こうとした時、海寧は不意に足を止めた。街灯の光が、彼女の横顔に淡い影を落とす。
「梅沢」
海寧の声が、冷えた大気に溶けるように小さく、けれど明確に響いた。
「はい?」
杏奈が足を止め、こちらを見る。ぼんやりとした光の中で、彼女の瞳が海寧を捉えた。
「冬休み中、生徒会室の備品整理を行う予定だ。礼拝の後片付けだけでなく、全学期の帳簿の整合性を取る必要がある。これは避けて通れない、重要な業務だ」
海寧は努めて事務的な響きを繕った。鼓動が耳元でやかましく鳴り響く。
「……お前の予定が空いているのならだが、顔を出してもいい」
顔を見られないよう、海寧は頑なに顔を背けたまま言葉を紡いだ。
自分から「会いたい」とは言えない海寧が、業務を名目に杏奈をそばに繋ぎ止めようとする、彼女なりの精一杯の「誘い」だった。
一瞬の沈黙が落ちる。
降り続ける雪だけが、二人の間の静寂を静かに埋めていった。
沈黙の間、拒まれることへの恐れと、受け入れてほしいという期待が、海寧の胸の中でせめぎ合っていた。
「私も参加していいんですか!?」
杏奈の声が弾んでいた。
海寧は確信した。杏奈は、自分が遠ざけていたことも、この不器用な誘いに隠された本音も、すべて飲み込んだ上で、歩み寄ってくれているのだと。
ふと、さらが杏奈を遊びに誘っていたことを思い出した。
「業務が早く片付けば、……その後は好きにするといい」
海寧は言い捨てると、逃げるように再び早足で歩き出した。動悸がなかなか収まらない。平静を装うだけで、精一杯だった。
「絶対早く片付けます!!海寧先輩、私の仕事ぶりに期待していてください!」
満面の笑みを浮かべる杏奈を家まで送り届け、海寧は踵を返した。
◇
自宅に戻ってからも、海寧は心の中で密かに、この何とも言い難い温かな感情を、もう少しだけ抱きしめていたいと願っていた。
自室の窓辺に立つと、外は一面、深々と降り積もる雪に覆われていた。
海寧はブレザーを椅子の背にかけ、しばらく窓の外を眺め続けた。
(梅沢杏奈は観察対象のはずだ。なのに……今のこの鼓動は、そんな言葉では説明がつかない。この熱の正体を確かめる必要がある)
それを恋の始まりかもしれないと認めるには、副会長としてのプライドが邪魔をする。
それでも、彼女への想いから目を逸らし続けることは、もう出来そうになかった。




