第6話 天ノ川さらは、非日常を感じたい
十二月の空気は、硬質な刃のように澄み渡っていた。窓から差し込む西日が、埃さえも金色に輝かせている。
放課後の教室には、暖房の低い唸りと、下校を急ぐ学生たちの弾んだ声だけが残されていた。
私はその日最後のレポートをファイルに挟み、鞄の口を閉じようとしていた。一日の終わりの気だるさが、肩のあたりにじんわりと滲んでいる。
その時だった。
教室にわだかまっていた空気が、何か予兆めいたものを孕んで、ふっと張り詰めた。
「ねえ、梅沢さん!今週末、もしよかったら──私とデートしない?」
顔を上げると、天ノ川さら会長が立っていた。ミルクティー色の髪が窓からの光を受けて緩やかに波打ち、放課後の教室にはあまりにそぐわない輝きを放っている。
(……え。ええええ~~~っ!?な、なんで会長がここに!?)
帰り支度をしていた教室が、一瞬で静止した。紬葵ちゃんたちまで一斉にこちらを振り返る。
「え、うそ、生徒会長……?」
「一年の教室に、しかもうめめのところに……?」
教室のあちこちから「さら会長……?」という囁きが広がり、視線が一気に私へ集中した。
舞台の上にたった一人だけ取り残されたような感覚に、私はどうしていいか分からなくなっていた。
「あの、急にどうされたんですか、会長!すみません、一度廊下に出てください!」
顔から火が出そうな思いで袖を引き、連れ出した廊下は西日に染まって薄い紅色を帯びていた。誰もいない廊下に、私たち二人分の影だけが長く伸びて重なっていた。
さら会長は困ったような、それでいてどこか愉しげな微笑を浮かべていた。
夕陽を受けたその横顔に、見惚れてしまいそうになる自分を、私は慌てて咎めた。
「先日、生徒会室であなたの話を聞いて……あなたの飾らない言葉や、この学院の隅々を大切にする感性に、私はとても興味を持ったの。……ダメかしら?」
天ノ川グループの令嬢として、幼い頃から丁寧に磨き上げられた箱庭のような世界で育ってきたのだという会長。
その箱庭の外側を覗くための小さな窓として、彼女は私という、なんの後ろ盾も持たない一学生を選んだのだと言った。
その真っ直ぐな瞳に射抜かれてしまえば、断る言葉など、どこにも見つけられるはずがなかった。
夕暮れの光を映したその瞳の奥に、これまで見たことのない、どこか縋るような色が滲んでいる気がした。
生徒会長ほどの人が、わざわざ一年生の教室まで足を運んで私を誘いに来た。その事実だけで、まだ胸の奥がふわふわと落ち着かない。
「あ、あの……連絡先、交換してもいいですか?」
自分から切り出しておきながら声が上擦る。相手は生徒会長だ。個人的に連絡先を尋ねるだけでも、途方もなく高い壁を越えるような緊張がある。
「ふふ、もちろん。私からお願いしたいくらいよ」
会長は嬉しそうにスマートフォンを取り出した。
「私のクラスメイトたちは、大抵お家の方を通して連絡先を伺うから、こうして直接というのは実は新鮮だわ」
小さな電子音が一つ鳴り、画面に『天ノ川さら』という文字が浮かぶ。それを見て、これが現実に起きていることなのだと、ようやく実感が追いついてきた。
「……週末、楽しみにしているわね」
そう囁いて悪戯っぽく片目を閉じる会長に、私はただ頷くことしかできなかった。
その直後、廊下の曲がり角から海寧先輩が誰かを探すように姿を現した。革靴の硬質な足音が、静かな廊下に規則正しく響く。
会長を見つけると、海寧先輩はほんの少し眉根を寄せ、歩み寄ってきた。
「さら、一年の教室にわざわざ何の用があった。少し騒ぎになっていたぞ」
「ふふ、内緒。ただの私用よ」
会長は涼しい顔でそう躱すと、悪戯っぽく片眉を上げてみせた。その笑みには、副会長の追及すら軽々とかわしてしまう余裕が滲んでいる。
会長と海寧先輩の間に、どこか張り詰めた空気が流れているのを感じた。
海寧先輩の視線が一瞬だけ私へ向けられたけれど、その意味までは分からなかった。
ただ、その視線に射抜かれた瞬間、胸の奥に奇妙なざわめきが生まれるのを感じた。
先輩と後輩、それだけの関係のはずなのに。
どうして、こんなにも鼓動がうるさく響くのだろう。
夕暮れの廊下に立ち尽くしたまま、私はただ、自分の胸の内で暴れる感情の名前を、まだ見つけられずにいた。
──迎えた土曜日。
会長と二人で出かけると思うと、いつもより少しだけ服選びに時間がかかった。
結局、淡いカーキのニットとプリーツスカートに落ち着き、鏡の前で最後にもう一度だけ確認する。
誰に見せるでもない確認のはずなのに、心臓だけが妙に急いていた。
◇
待ち合わせ場所である学院近くの駅前、噴水広場に着くと、会長はすでにそこにいた。
淡いベージュのロングコートを纏い、マフラーの隙間から覗く白い首筋が、冬の澄んだ光にほのかに映えている。
学院でいつも目にする、隙のない会長の顔ではなく、どこか柔らかな空気を纏った私服姿の彼女に、私は思わず息を呑んだ。
噴水の縁に腰掛け、行き交う人々を眺めるその横顔からだけ、辺りの喧騒が静かに切り取られているようにさえ見えた。
「ふふ、私服姿の私に見惚れちゃった?……なんて、冗談よ」
悪戯っぽく笑った会長は、不意に手を伸ばし私の髪をひと撫でした。指先が触れた場所だけ、じんわりとくすぐったいような感覚が走る。
「今日の梅沢さん、なんだかいつもと違うわね。とても素敵よ。可愛い」
(会長の方が、とってもお綺麗ですが!!!)
◇
まずは会長の提案で、近くのクレープ屋へ。
赤いひさしの下、生地の焼ける甘い香りが通りにまで漂っている。彼女は初めて訪れる場所を探検する子どものような無邪気な表情で、壁一面のメニュー表を一つひとつ丁寧に目で追っていた。
「こんなにたくさん種類があるのね。迷ってしまうわ」
「会長でも迷うことってあるんですね」
「あら、失礼ね。私だって普通の女の子なのよ」
唇を尖らせるその仕草は、生徒会室で見せる凛とした顔とはまるで違っていて、私はついつい頬が緩んだ。
結局、会長はいちごとカスタードのクレープを、私はチョコバナナを選んだ。
「ねえ、これ一口食べてみて。私、こういうの憧れてたの」
差し出されたクレープを、私はおずおずと受け取る。
友人同士なら当たり前のやり取りのはずなのに、彼女がすることの一つひとつが、どうしてこんなにも特別に思えてしまうのだろう。
「私も、そちらを一口いただいてもいいかしら」
「もちろんです」
差し出したクレープに会長は迷いなく口をつける。
「こっちも美味しいわね。今度は、私もこの組み合わせにしようかしら。海寧やさゆり、紫苑にも教えてあげたいわ」
口元に小さくクリームをつけたまま嬉しそうに話す会長に、私はそっとハンカチを差し出した。
「ありがとう。梅沢さんは、気が利くのね」
冬の澄んだ空の下、二人でクレープを頬張りながら歩く時間は、これまで経験したことのない不思議な心地よさに満ちていた。
天ノ川女学院では誰もが一目置く会長でも、街ではただの一人の女の子だ。何を頼めばいいのか、どこに並べばいいのか。そのたび私の顔を窺ってくる会長を見て、学院では決して逆転しない私たちの立場が、今日だけはひっくり返っているのだと気付く。
案内するのは、いつも私の方だった。
クレープ屋を出て少し歩くと、ゲームセンターが見えてきた。
会長が不意に私の腕に飛びついて、入口のプリクラ機を指さす。
「梅沢さん!あれってもしかして……プリントシール機!?」
目を輝かせる会長は、普段学院で目にする姿とは随分違って、少し幼く見えた。
運よくすぐにブースへ入れる。パネルを見ただけでも楽しそうな会長を見ていると、私まで嬉しくなった。
私が簡単に操作を教えると、会長は「まあ!」と声を上げながら次々とポーズを試していく。
「な、何を真似したらいいの!?」
「真似しても、好きなポーズでも大丈夫ですよ」
狭いブースの中、ビニールのカーテンを引くと外の喧騒がふっと遠のき、私たち二人だけの気配が満ちる。
無邪気にはしゃぐ会長の笑顔を見ていると、ふと、この人とこんな風に毎日過ごしたら、きっと楽しいんだろうなと思った。
二人でハートを作ろうと肩が触れるほど身を寄せ合うと、思いのほか近い距離に、私は少しだけドキドキしてしまう。
(会長は、どんな気持ちだったんだろう)
──そんなことをちらりと考えているうちに撮影は終わり、続くらくがきタイムも会長は「案外奥が深いのね」と真剣な顔で楽しんでいた。
「とっても楽しかったわ。まさかシールがあんなところから出てくるなんて」
完成したシールを、会長は大事なものを見つめるように眺めていた。
◇
「せっかくだから、カラオケにも行ってみます?」
「あら、それは名案ね」
同じ並びにあった、チェーン展開のカラオケ店。部屋が空いているか確認すると、スムーズに入れるようだった。
案内された部屋に入ると、防音扉の向こうから漏れ聞こえていた喧騒が遠くなる。薄暗い照明とミラーボールの控えめな光が、壁一面に貼られた無数の楽曲ポスターを淡く照らし出していた。
「実はこういう場所も初めてだからわくわくしちゃうわ」
「じゃあ、今日は初めてづくしですね」
先に会長からどうぞと促すと、会長は迷いなくリモコンを操作した。流れ出したのは、最近人気急上昇中のアイドルグループの一曲。
「え、会長、それ……!」
「私、結構アイドルには詳しいのよ」
戸惑う私をよそに、会長は堂々とした歌声を響かせ始めた。
普段の凛とした佇まいからは想像もつかない、無邪気にはしゃぐような表情。頬を紅潮させて高音のサビを歌いきる姿に、私はすっかり見惚れてしまった。
「実は私、キラキラした可愛い子やアイドルを見るのが昔から大好きなの。こんなこと、あまり人には言わないのだけれど」
歌い終えて息を弾ませながら、会長は少し照れくさそうに打ち明けてくれた。
「意外です。でも、なんだか嬉しいです。会長のこと、また一つ知れた気がして!」
マイクを差し出す会長の頬は、歌い終えたあとの熱のせいか、それとも別の理由か、ほんのりと赤く染まったままだった。
薄暗い部屋の中で、二人だけの時間はまだ、もう少しだけ続いていく。
カラオケのあとは、繁華街の一角にある雑貨店へ立ち寄った。
木目の温かみを活かした店内には、ガラス細工のオーナメントや手作りのアクセサリーが並んでいる。
天井から吊るされた小さなランプが、暖色の光を店内いっぱいに落としている。
会長は棚の小さなパールのチャームを手に取ると、「これ、梅沢さんに似合うと思うの」と、私の胸元にそっと合わせてみせた。
真剣な眼差しで見つめる彼女に、店内の喧騒が遠い水音のように霞んでいく。
「やっぱり、思った通りね」
満足そうに頷く会長は、いつもより声が弾んでいた。
その後も、会長は可愛らしいマスコットや凝った意匠の便箋を見つけては「こういうものに憧れていたの」と、少し照れくさそうに目を輝かせていた。
「会長は、こういうお店にあまり来られないんですか?」
「ええ、あまり。いつも誰かが先回りして、必要なものを揃えてしまうから」
その一言には、恵まれた環境の裏側にあるささやかな寂しさが滲んでいるようだった。私はそれ以上、深くは聞かなかった。
「梅沢さん、少しだけ待っていてちょうだい」
会長は先ほど見ていたマスコットや便箋を手に、レジへ向かった。私は少し離れた場所で待つことにする。
会長は店員に何かを伝えながら、どこか楽しそうに微笑んでいた。
店を出ると、あたりはすでに夕暮れの気配を帯び始めていた。空の端が、淡い橙色に染まっていく。
大通り沿いのベンチで、会長が私の袖をそっと引く。
「ねえ、梅沢さん、ここに座ってもらえる?」
腰を下ろすと、吐く息が白く色づいて二人の間をゆっくりと漂っていった。会長は上着の内側から小さな袋を取り出す。
「これ、受け取ってちょうだい」
「え?」
「もしかして、さっきのお店で……?」
「ええ、今日付き合ってくれたお礼をしたくて」
夕暮れの光を浴びて、会長の瞳が小さく揺れる。
袋の中の包みをゆっくりと開き、現れたパールのチャームを、私は零れ落ちないよう両手でそっと包み込んだ。
橙色の光を受けて、控えめに真珠が輝きを放っている。
「やっぱりこれは、あなたに似合うと思って」
「私、誕生日以外でこういう贈り物をもらうの、実は……初めてかもしれないです」
「そうなの?それはとても光栄だわ。梅沢さんの初めての相手になれるなんて。私がつけてあげる」
差し出した手のひらに私がチャームを渡すと、会長は今日持ってきた鞄につけてくれた。
「ありがとうございます、会長。絶対大事にします!」
◇
行き交う人々の輪郭が、街灯の淡い光に滲みはじめている。
昼間の賑わいが少しずつ夜の静けさへと移り変わっていくその境界の時間に、私たちは駅へ続く道をゆっくりと歩いていた。
吐く息はもう白く色づき、頬に触れる空気は昼間よりもいっそう冷たさを増している。
「本当はまだ……あなたと試してみたいことがいっぱいあるんだけど、そろそろ帰らなくちゃね」
隠すことなく名残惜しそうな表情を浮かべる会長。
夕闇に沈みかけた街灯の光を受けて、その横顔にはいつもの凛とした余裕とは違う、どこか儚げな翳りが差していた。
(そんな顔をされたら私まで……)
そう思っていると、先を急ぐ人の肩が私にぶつかり、会長の胸へ倒れ込むようにして体勢を崩してしまった。
咄嗟に抱き留める会長。一瞬遅れて、今、自分が会長の腕の中にいることを脳が理解する。
コートの生地越しに伝わる体温、規則正しい心音。それらが一度に押し寄せて、思考が真っ白になった。
「す、すすすすすいません!!」
慌てて離れようとする私を、会長は優しく抱きしめ直す。
落ち着いた様子のまま、照れる私に追い討ちをかけるように耳元へ唇を寄せた。
「──今日は、本当に楽しかったわ。ありがとう、杏奈」
(今、……私の名前)
会長がこんなふうに、苗字ではなく名前を呼んでくれたのは初めてだった。
たったそれだけのことなのに、耳に残った響きが胸の奥深くまで沈み込んでいく。
「また……一緒に遊んでくれる?」
懇願にも似た声にそう聞かれて、私が拒めるはずもなかった。
ううん、お願いされなくたって、実際、私も今日は楽しすぎるくらい楽しかった。答えに迷いは一切ない。
「もちろん、喜んで!」
その言葉を聞くと、会長は安心したように微笑んで、抱きしめた腕を解いた。
「それじゃあ、またね!」
名残惜しいけど、そんな穏やかなムードのまま会長は自分の家がある方へ歩き出し、私は会長の後ろ姿を見送った。
街灯の光の輪を一つ、また一つと抜けていくその背中が、やがて夜の闇へと溶けていく。
まさか、そんな様子を誰かが見ているなんて、知ることもなく──。
「あれは……さらと梅沢!?どうして二人が抱き合って……」
◇
「はぁ、今日は本当にとっても楽しかった」
帰り道、今日一日のことをさらは思い返していた。
(チャームも似合うと思って渡したけれど、杏奈は本当に喜んでくれたかしら。喜んでくれていたら良いけれど……)
さらは、抱きしめた時のことを思い出し、自分の頬がまだ少し熱を残していることに気付いた。
(初めは、ただの興味対象。──それだけ。これまでの学院にはいなかったタイプのあの子が、どう天ノ川女学院で立ち回るのか、高みの見物をするつもりでいた。けれど今日一日、隣を歩いてみて分かったことがある。あの子は、見ているだけでは足りない)
「……ふふ、私ったらきっと」
(興味対象などと呼ぶには、もう遅いのね。別に、驚くようなことでもない。欲しいと思ったものを、欲しいと言えずにいたことなんて、これまで一度もなかったのだから……)
帰路に就くさらの足取りは、なんの迷いもなく、軽やかだった。




