第5話 ようこそ、天ノ川女学院生徒会室へ
放課後の生徒会室には、独特の静けさが満ちていた。
天ノ川さら――現生徒会長にして学院長の孫。生徒会長を天ノ川の娘が務めることは家系上の既定路線だったが、さらはその立場に甘えることなく、誰よりも学院のために力を尽くし、圧倒的なカリスマ性と実力で「さらが会長であること」を誰にも文句を言わせない当然のものにしていた。
そんなさらが幼少期から誰よりも信頼しているのが、副会長の仙石海寧だ。生徒会結成時、「副会長はあなたにしか務まらない」と海寧を指名したのはさら自身だった。海寧のストイックさと公正さ、その実務能力への深い信頼があったからこその人選である。
書記の卯ノ花さゆりは、そんな強すぎる二人の間に立ち、議論の角を取りながら学院全体を柔らかくまとめ上げる調整役だ。さらとさゆりは中学時代からの友人で、昔は「さらちゃん」「さゆり」と呼び合っていた仲。今のさゆりは会長を立てるため学院内では敬語と会長呼びを徹底しているが、「二人きりの時くらい昔みたいに呼んでよ」とさらがねだれる程度には、今も気安い間柄が続いている。
演劇部部長の阿良々木紫苑は生徒会役員ではないが、さゆりの幼馴染として、時折こうしてこの部屋に顔を出す。さら、海寧、さゆり、紫苑――四人の間には、昔から積み重ねてきた共有の空気があった。
◇
その頃、弓道場では乾いた弦音が響いていた。
海寧は練習中の後輩に「射形が崩れている」と指摘し、「弓道は己を射るのと同じだ。心の乱れは矢に伝わる。的に向き合っている間は、瑣末な雑念をすべて道場の外へ置くといい」と淡々と説いた。その後、自らも弓に向き直る。
(……雑念はない)
そう己に言い聞かせた直後、脳裏をよぎったのは、先日のバザーで見た杏奈の姿だった。怪我を負いながらも最後まで責任を果たそうとしていた、あの編入生。会長が――さらが気にかけている生徒。自分がまだ測りかねている、予測不能な存在。
指先にわずかな力みが走り、放たれた矢は的の中心から少し逸れて突き刺さった。
「……私としたことが」
仙石家の娘として、弓道部の精鋭として、ほんの僅かでも的を外すなどという失態は、あってはならないことだった。それに、先程後輩に指南したばかりだというのに。
あの時さらが杏奈へ向けていた、自分に対するものとは少し違う、どこか無防備で柔らかな表情も、なぜか胸に引っかかっている。杏奈は、さらという高潔なリーダーの周りに集うには、あまりに平凡すぎる存在のはずだ。それなのに、あの真っ直ぐな瞳が、なぜか思考をかき乱す。
正体の分からないこの焦燥感を、海寧は私情として押し殺そうとした。副会長という役職にも、今向き合っている部活にも、そんな不純物は一切不要だ。
◇
着替えを終え、いつもの冷静な仮面を取り戻して、海寧は生徒会室へ戻った。
「お疲れ様、海寧」
さらとさゆりが待つ、完璧な秩序の空間。予算案の修正、提携校との調整――生徒会は単なる学校行事の係ではなく、彼女たちがいずれ担うことになる実務を先取りする現場でもあった。
「今日の予算案の修正だけど、一部、提携校との調整で意見が分かれているの。海寧、あなたならどういう論理で先方を納得させる?」
さらの問いに、海寧はモニターの数字を鋭い眼光で追い、即座に論理的な妥協案を返す。視線だけで次に何をすべきかを共有できる、二人の間の深い信頼がそこにあった。
「頼りにしてるわ。さすがね」
と、その時生徒会室をノックする音が聞こえた。
◇
放課後。私は、生徒会室の重厚な扉の前に立っていた。
バザーの際に負った左腕の包帯は、昨日ようやく取れたばかりだ。それでも、ふとした瞬間に傷跡がまだ少し疼くことがある。
(会長に、「遊びに来ないか」って言ってもらったからお言葉に甘えて来てみたけど……本当にいいのかな)
校舎の最奥、格式高い生徒会室の扉は、私にとってまるで異界への入り口のように思えた。せっかくお誘いしてもらったし、この機会に聞きたいこともある。会長たちと話すチャンスでもあるし!と自分を奮い立たせ、深呼吸をして、意を決してノックする。
中から「どうぞ」という、静かな凛とした声が響いた。その響きに背筋が伸びる。ゆっくりと重厚な扉に手をかけ、押し開いた。
室内の空気は、廊下とは明らかに違っていた。磨き上げられた床。静寂の中に香る、微かなティーリーフの香り。部屋の奥では、茜色に染まった西日が、三人だけを特別な存在のように照らしている。
さら会長、海寧先輩、そしてさゆり先輩。三人が、一つの絵画のように収まっている。その完璧な調和の中に、私が足を踏み入れることへの場違いな感覚が、胸をざわつかせた。
「し、失礼します!」
絞り出すような自分の声が、静寂を汚した気がして身が竦む。
会長が顔を上げ、こちらを向いた。
「梅沢さん、よく来てくれたわね。怪我の方はもう大丈夫なの?」
会長の声は、驚くほど親密で柔らかいものだった。そのギャップに私は一瞬戸惑い、自分の心拍数が上がるのを感じる。
「は、はい!おかげさまで。……あの、突然押しかけてしまってすみません。今日、少し時間があったので、ずっと気になっていたことを聞きたくて」
「気になっていたこと?何かしら?」
会長が目を輝かせる。私は緊張を隠すように、促されるまま空いている椅子に腰を下ろした。
「はい。この天ノ川女学院という場所のことや、会長たちが担っている生徒会という場所が、実際にはどんな役割を果たしているのかを。遠くから見ていて、いつもすごいなと思っていたので」
私の言葉に会長は驚いたように目を瞬かせ、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「そうね……ここへ来る生徒のほとんどは、要望や不満を抱えてやってくるわ。純粋にこの場所を知りたいという動機で扉を叩いたのは、あなたが初めてかもしれない」
会長はデスクの端に置かれた書類の山を一瞥すると、少しだけ肩の力を抜いたように椅子に深く座り直した。
「天ノ川女学院はね、歴史という重圧の上で成り立っているの。でも、それ以上に、生徒一人ひとりが自分らしくあるための場所であるべきだと私は信じているわ。生徒会は、そのための秩序を維持する番人よ。予算の管理から校風の維持、時には外部との折衝まで……私たちは学院の心臓を止めないように走り続けているの」
「心臓……ですか」
無意識に復唱していると、今度は海寧先輩が静かに口を開いた。彼女の声はどこか冷ややかだが、不思議と嫌な響きはなかった。
「言葉通りの意味だ。生徒たちの活動が、この学院という組織の中で健全に回るよう、私たちは規律という名の血を送っている。甘えは許されないが、規律があるからこそ自由がある。それを理解しようとする姿勢は、……まあ、悪くない」
海寧先輩の真っ直ぐな視線に射抜かれ、私は小さく背筋を正す。すると、隣にいたさゆり先輩が、頬を緩めながらカップに紅茶を注いでくれた。湯気が細く立ちのぼり、甘い香りが静かに鼻先をくすぐる。
「……要するにね、私たちは学院の調整役なの。会長が目指す理想の形を、現実の校則や行事の枠組みに落とし込んでいく。それは時には堅苦しい作業だけど、全部は会長が掲げる『誰もが居心地の良い庭』を作るためなのよ」
三人それぞれの視点から語られる生徒会。それは、私が遠くから見ていたような、ただ権威を振りかざす場所ではなかった。
「……すごく、大変そうですね」
私が小さく呟くと、三人は顔を見合わせ、会長が温かな笑みをこぼした。
「ええ、とても。でも、こうして誰かが興味を持ってくれて、私たちの想いを知ろうとしてくれることが、何よりの活力になるわ。……ねえ、梅沢さん。今度はあなたの話も聞かせてもらえないかしら?以前の学校ではどんなふうに過ごしていたのか、以前からずっと気になっていたのよ」
会長の真っ直ぐな瞳に見つめられ、私は少しだけ躊躇ったあと、ティーカップを両手で包み込んだ。
◇
掌に伝わる仄かな温もりが、緊張で強張っていた指先を少しずつ解いていく。
「私の前の学校は、この学院とは比べ物にならないくらい小さくて、本当に普通で、でも、そこでは……」
私はゆっくりとその頃の日常や、自分が部活の助っ人として過ごした日々のことを話し始めた。この学院とはずいぶん違う、泥臭くて、でもどこか温かい日常。話し始める前は緊張で震えていた指先も、紅茶の温もりと彼女たちの真剣な眼差しに触れているうちに、次第に落ち着きを取り戻していった。
「部活の助っ人だなんて、頼りにされていたのね」
優しい声でさゆり先輩がそう言ってくれて、私は少し照れてしまった。
「へへ、そうだと嬉しいんですけど。それからお休みの日は、クラスの友達と出かけたりもして」
そんな何気ない話をしていると、会長の瞳に輝きが宿る。
「お友達とは、どこへお出かけするの?何をして遊ぶのかしら?」
「カラオケとか?ショッピングですかね?他にも……」
そんな話をしていると、羨ましいと言わんばかりの色の混じった溜息が聞こえてきた。
「え?」
自分の中では、ごくごく普通のなんでもない話をしているつもりだった。それなのに何がそんなに羨ましいのか分からなくて、私はつい不思議そうな顔で会長を見てしまった。
それを見ておかしそうに笑うさゆり先輩と、何となく会長の反応の意図を察している様子の海寧先輩。
「会長はね、そういう普通のことに憧れているのよ。……ううん、それは会長に限った話じゃなくて、私もそうかもしれないし、もしかしたら海寧ちゃんだって。……ねえ?」
さゆり先輩が海寧先輩に視線を投げると海寧先輩は目を逸らした。
「やっぱり梅沢さんの話は新鮮でとっても楽しいわ!」
会長の瞳には、かつて見たことのないほど純粋な憧れが宿っていた。私には当たり前だった毎日を、会長たちはまるで自分の知らない景色のように聞いている。そのことが、なんだか少しくすぐったかった。
ふと窓の外に目を向けると、先ほどまで茜色に染まっていた西日はとうに姿を消し、校舎のシルエットは深い藍色の帳に包まれていた。いつの間にか、時計の針は私たちが話し始めた時間を大幅に過ぎている。
「あら……、こんな時間まで引き止めしてしまってごめんなさい。お話が楽しすぎて、すっかり時を忘れてしまったわ」
会長が少しだけ慌てたように立ち上がると海寧先輩もまた、正確な動作で自分の手元を片付け始めた。海寧先輩は、私を一瞥すると先ほどまでの鋭さは鳴りを潜め、どこか穏やかな表情でこう言った。
「梅沢、また気が向いた時にでも顔を出すといい」
その言葉は、彼女なりの精一杯の歓迎なのだと分かった。さゆり先輩もまた、最後の一口を飲み干した私に優しい微笑みを向けてくれた。
「今日の話の続きも、またゆっくり聞かせてね。暗くなってきたから送っていきたいところだけど、会長も私もこの後の書類整理が少し残っているから……」
「ごめんなさいね。梅沢さん、今日は本当にありがとう。あなたの飾らない言葉に、今日一番の癒しをもらったわ」
生徒会室を出る際、会長は扉の前まで見送りに来てくれた。廊下に出た私の後ろから、椅子の引かれる音がして、ヒールの硬質な足音が響いてくる。振り返るとそこには海寧先輩の凛とした姿があった。
「さら、卯ノ花。あとの書類は、二人で頼む。私が梅沢を送っていく」
「海寧ちゃんが?それは心強いわね」
さゆり先輩が頷き、会長もまた「お願いできるかしら」と、海寧先輩に全幅の信頼を寄せるような眼差しを向けた。
「構わん」
海寧先輩は顔を背け、そう言ったが、その表情は先ほどより少しだけ柔らかい。私は慌てて頭を下げる。
「ありがとうございます、海寧先輩。すみません、書類の整理があったはずなのに……」
「気にしなくていい。ついでに、弓道場の施錠確認も済ませたいだけだ」
先輩は、私の数歩前を歩き出す。その背中は、やはり格好良かった。重厚な扉が閉じられ、会長とさゆり先輩の話し声が遮断される。廊下には、私たち二人の足音だけがリズミカルに響き始めた。夜の校舎は、昼間とは違う静寂に包まれていた。
◇
窓の外はすでに闇に沈み、等間隔に並ぶ廊下の照明だけが、二人分の影を長く床へ落としている。
隣を歩く海寧先輩が、時折こちらを気遣うように視線を向けてくるのを感じつつ、私はこの不思議な送りの時間を大切に噛みしめた。廊下を歩く海寧先輩の足取りは、昼間と変わらず凛としていた。
「……梅沢」
ふいに、海寧先輩が前を向いたまま声をかけてきた。
「はいっ!」
あまりの声音の真剣さに、私はついつい直立不動になってしまう。そんな私を見て、海寧先輩は小さく鼻で笑った。
「そんなに緊張しなくていい。先程、さらが言っていたことだが、お前が話していたカラオケやショッピングについて。実際、どういう楽しさがあるんだ?」
意外な問いだった。規律と伝統の中に生きる先輩が、そんな世俗的なことに興味を持つなんて、想像したこともなかった。
「えっと……。カラオケは、好きな曲を大きな声で歌ってストレスを発散したり、みんなで盛り上がったりするところが楽しいです。ショッピングは、可愛い雑貨を見つけたり、友達と服を選び合ったりして……。特別なことをするわけじゃなくて、ただ誰かと一緒に時間を共有するのが楽しい!みたいな感じですかね」
たどたどしい説明になってしまった。それでも先輩は、真面目な顔で耳を傾けている。少し考え込むような沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「なるほどな。目的のために動くのではなく、ただ一緒にいることそのものを目的にするのか」
「はい。……海寧先輩は、友達とそういうふうに過ごしたことはないんですか?」
聞いてから、すぐに後悔した。仙石家という名家で育ち、副会長という重責を担う彼女にとって、無遠慮すぎる質問だったかもしれない。海寧先輩は怒ることもなく、ただ窓の外の夜空を仰いだ。
「私にとっての時間は、常に何かを成し遂げるためか、維持するためにあった。誰かとただ無為に時を過ごすという概念は、私の辞書にはなかったのだ。……だが、今日お前の話を聞いていて、少しだけ興味が湧いた。それが、さらたちが抱いている憧れの正体なのだとしたら――」
そのまま校舎を出て、街灯の灯り始めた夜道を私たちは並んで歩いた。会話が途切れると街路樹の枝を渡る夜風の音が、やけに大きく耳に届く。吐く息は白く、街灯の光の中で淡く滲んでは消えた。
自宅のある方向へと続く角を曲がろうとした、その時だった。
海寧先輩が足を止め、訝しげな表情で私を見下ろす。私も先輩に合わせて、反射的に足を止めた。
「……梅沢。お前もそっちなのか?」
「え?はい。ここを真っ直ぐ行って、信号を右に曲がったところが家なんですけど……」
私の返答を聞いた先輩は、眉を顰め、意外そうに目を見開いた。
「……奇遇だな。私もその先だ。このまま歩けば、あと十分もしないうちに私の家の門を通り過ぎることになる」
「え、本当ですか!?奇遇ですね!」
生徒会室ではあれほど雲の上の存在に思えた海寧先輩が、実は同じ学区内に住んでいるなんて、想像もしていなかった。
「これまで一度も見かけなかったのは、帰る時間帯が合わなかっただけのことだろう。私は弓道部の稽古と最終下校の確認が定例だからな」
先輩は視線を前方に戻すと何事もなかったかのように歩き出した。その背中を追って、私は不思議な感慨を覚える。格式高い仙石家の住まいと私の平凡な家。住む世界は違っていても、同じ夜風に吹かれ、同じ道を通っているという事実は、先輩との距離を少しだけ……物理的に縮めてくれたような気がした。
「あの、海寧先輩って、家ではどんなふうに過ごされているんですか?」
何気なく好奇心で聞いてしまった。先輩は少しだけ歩調を緩め、夜空を見上げ、考え込むように言葉を探す。
「そうだな……。家に戻れば、父も母も規律には厳しい。舞踊の稽古や座学の復習を終えれば、一日は終わりだ。お前が先程話していた娯楽とは、無縁かもしれないな」
「そうなんですか。でも、たまにはゆっくりしたい時だってありますよね?」
「まあ、な。私にも一応好きなことは……あ、いや、」
先輩は何かを言いかけて口を噤み、ふと遠い目をした。
「時折、夜更けに窓を開けて、外の風に当たる時間は嫌いではない。この街は静かだからな。今日お前から聞いたような、友人と街を歩くという話は新鮮だった。……不自由を感じているわけではないが、未知の体験を聞くのは、思考の整理には悪くない」
そう言って先輩は、わずかに口元を緩めた。生徒会室でのあの威厳ある副会長とは違い、今はただ近所に住む先輩として、隣を歩いている。その距離の近さが、なんだかくすぐったかった。
「またこうして帰りが重なる時は、……話の続きでも聞かせてくれ。弓道部の稽古を終えた後の時間帯なら、お前を見かけることもあるかもしれない」
「はい、是非!良かったら……その時は、先輩の話も聞けたら嬉しいです」
私の言葉に先輩は「ああ」と短く応えただけだった。それは決して社交辞令のような柔らかさではなく、彼女なりの誠意なのだと、私は勝手に解釈した。
交わるはずのなかった二人の帰路が、同じ方向を向いているという事実に、私は言葉にならない充足感を覚えていた。
「……そういえば、梅沢」
先輩がふと声を落とした。さっきまでの冷静な口調に、ほんの少しだけ迷いが混じっている。
「今日の弓道のことだが。部活中、私としたことが……的を外してしまってな」
意外な告白だった。完璧な副会長である彼女が、自らそんな個人的な失敗を口にするなんて。
「何かあったんですか?」
「……いや。ただ、今日の部活中にふと、お前のことが頭をよぎった。バザーの時に見た、あの迷いのない表情が。怪我を押してまで役割を果たそうとしていた、お前の真っ直ぐな姿だ」
完璧主義で知られる海寧先輩が、そんなふうに私のことを覚えていたなんて。胸の奥が、じわりと熱を持つ。
「自分の責務に確信を持っている人間は、ああして眩しく見えるものなのかもしれない。……いや、今の言葉は忘れてくれ」
先輩はすぐにいつもの厳格な表情に戻ろうとした。街灯の光に照らされたその横顔は、かすかに上気して見えた。
「え!?そ、そんな~~!嫌ですよ。忘れません!先輩にそう言ってもらえるなんて、すごく光栄で貴重なことですから!!」
嬉しさのあまり、うるさかったかもしれない。先輩はそんな私を見て、これまで見てきた中で、一番おかしそうに笑ってくれた。
「……フッ、お前って奴は、こちらが何を言っても臆さないんだな。──本当に、おかしな奴だ」
その声には、微かな戸惑いと、どこか安堵したような響きが滲んでいた。
静かな住宅街に、二人の規則正しい足音が重なっていく。普段は家まで急ぐだけの見慣れた道も、海寧先輩とこうして並んで歩くと別の場所を歩いているような不思議な感覚に包まれる。取り留めもない話をしながら歩いているうちに、いつの間にか私の自宅の明かりが見えてきた。
私が足を止めると、隣を歩いていた先輩も自然と立ち止まる。
「あ……ここ、私の家なんです」
「……そうか」
先輩は私の家の門をひと目見ると小さく頷いた。それだけの仕草なのに、二人の間には、どこか名残を惜しむような、わずかな間があった。
「今日は、送っていただいてありがとうございました」
「気にしなくていい。近所だからな。偶然、帰路が同じだっただけのこと」
先輩は少しだけ目元を和らげると、視線をそらした。街灯の光の加減か、その頬が、ほんの少し赤らんで見えた。
「……梅沢。弓道場での私の失態は、誰にも言うなよ。副会長が的を外したなどと知れ渡れば、学院の秩序に関わるからな」
「もちろんです!私と先輩だけの秘密ですね!……なんて」
先ほどの会話の余韻のまま、少しおどけて言うと、先輩はわずかに眉を下げた。
「……ああ」
それきり、会話は途切れた。先輩は何か言いかけるように、一度だけ小さく息を吸う。しかし、その先の言葉は結局出てこないまま、静かに吐息だけが白く夜に溶けていく。
沈黙が、いつもより長く感じられた。
夜風が二人の間を通り抜けていくのに、どちらも動こうとしない。本当はもう少しだけ、この時間が続けばいいのにと思っていた。だけど、それを言葉にする勇気はなくて、ただ先輩の次の言葉を待つことしかできなかった。
「……また明日、学院で」
先輩は、そう言って一歩、踏み出す。
そして、二歩目を踏み出す前に、ふと足を止めた。
「……梅沢」
「はい?」
「……いや。何でもない」
先輩は小さく首を振ると、今度こそ迷いのない足取りで歩き出した。
私は、門の前に立ったままその背中を見送る。街灯の光を一つ、また一つとくぐるたびに、先輩の輪郭が浮かび上がっては、また闇に溶けていった。角を曲がる直前、先輩がほんの一瞬だけ、こちらを振り返った――ような気がした。
私は、しばらくそこに立ち尽くしていた。
もう少しだけ、話していたかった。
どうして……そんな風に思ったんだろう?
冬の夜気が、開いた玄関の隙間からふわりと室内へ流れ込む。振り返った先には、もう先輩の姿はない。それでも、今日という日の温もりだけは、まだ胸の奥に残っていた。




