第4話 命運のチャリティーバザー
十二月初旬。冬の朝は、吐く息が白く尾を引いて宙に溶けていくほど冷え込んでいた。校門をくぐった瞬間、私はつい足を止めていた。
「す、すごい!!」
目の前に広がっていたのは、見慣れたはずの校庭ではなかった。
純白のクロスで統一された、見るからに重厚なテントの群れ。朝日を弾いて銀色に光る、磨き上げられたティーセット。木目にまで職人の呼吸が宿っているような伝統工芸品の数々。艶やかに翻る和傘と繊細な刺繍の小物たち。
冬の朝日にやわらかく照らされたそれらは、一枚の絵画から抜け出してきたかのように美しく、私はしばらくその場に立ち尽くしたまま動けなかった。
今日は、天ノ川女学院最大の奉仕活動──チャリティーバザーの日。
この学院にとって、単なる学校行事ではない。創立以来受け継がれてきた『ノブレス・オブリージュ』の精神──恵まれた環境に生きる者だからこそ、その恩恵を社会へ還元する責務がある、という理念を一年に一度かたちにする、この学院で最も格式高い日だった。
展示される品々は生徒会による厳正な審査を経たものだけ。訪れるのは政財界や文化・芸術の第一線で活躍する来賓たちだ。
(私も今日、この学院の一員としてここに立つんだ!!)
編入してから、まだ日が浅いこの学院では、今でも驚かされることばかりだ。それでも今日は、同じ制服に袖を通し、同じ校庭に立っている。ただそれだけのことが、少しだけ誇らしかった。
「こらー!うめめー!ぼーっとしてる暇ないよー!」
背後から、元気の塊のような声が飛んできた。振り向くと紬葵ちゃんが大きく手を振って、駆け寄ってくるところだった。
「ごめんごめん!つい見入っちゃって」
「気持ちはわかる。アタシも朝来た瞬間、映画の撮影か?って思ったもん」
うちのクラスの担当は『和モダン・カフェ&雑貨』。
紬葵ちゃんは、いつものギャルらしい華やかさはそのままに、髪飾りや帯風のアクセントといった和の要素がさりげなく重ねられていて、それが不思議なほどよく似合っている。
今日並べられている雑貨も、彼女自身が染めた布を使い、一つひとつ手作業で丁寧に仕上げたものだった。
「ねぇ、うめめ」
紬葵ちゃんが、一つのシュシュをそっと手に取る。その指先が、心なしかいつもより控えめだった。
「これさ、染め直した布を使ってるんだけど、安っぽく見えたりしないかな?」
私は受け取って、じっと眺めた。柔らかな藍色。淡い桜色。どちらも決して派手ではない。それでも手のひらに乗せた瞬間、布の奥からじんわりと温もりが伝わってくるような気がした。
「ううん、すごく綺麗だよ!これ、見ただけでつむつむが作ったんだって分かるもん。色も優しいし、見てると何だか安心する。だから私は好き」
その一言に、紬葵ちゃんは照れくさそうに顔を伏せた。
「……もう。そういうところなんだよなぁ、うめめは。無意識なんだから困る」
「……紬葵、そこ。少しだけ配置を変えて」
凛とした声が、背後から静かに割り込んできた。振り向くと瑛良ちゃんがこちらへ歩いてくるところだった。彼女は展示棚を一目見ただけで、ふと首を傾げる。
「帯締めが隠れてる。シュシュを一段下げて」
紬葵ちゃんが慌てて商品を並べ替える。瑛良ちゃんは黙ったまま、指先で商品の位置をほんの数センチ動かした。たったそれだけ。それなのに、展示全体の印象が、不思議なくらい美しく整って見えた。
「わあ!見やすくなった!」
「商品は魅せ方も大事」
瑛良ちゃんはそれだけ言うと、もう視線を次の作業へ移していた。
ちょうどそのとき、一人の来場者がふと足を止め、吸い寄せられるようにシュシュへ手を伸ばす。
「瑛良ちゃん、すごいな」
私が呟くと紬葵ちゃんが眉を下げて笑った。
「でしょー?あっきーって、ああ見えて美的センスもヤバいんだよ。ちなみに『あっきー』って呼んでるのは全校でアタシだけだからね」
「……聞こえてる」
振り返りもせず、瑛良ちゃんが淡々と返す。仲がいいんだな、と自然と頬が緩んだ。ふいに、瑛良ちゃんがこちらを見た。
「杏奈。ぼーっとしない」
「す、すみません!」
「……ふふ」
(え?今、笑った!?いつもクールな、あの瑛良ちゃんが!?)
ほんの一瞬、口元がやわらかくほどけた気がした。そう思っているうちに、瑛良ちゃんはもう次のお客様のもとへ歩き出していた。
「今の見た?」
紬葵ちゃんが小声で耳打ちしてくる。
「あっきー、最近うめめ相手だとたまーにあんな風に笑うんだよ。本人は無自覚だけどね」
「そうなの?」
◇
チャリティーバザーが開会してから、一時間ほどが経った頃。校庭はすっかり賑わいに包まれていた。私たちの和モダン・カフェ&雑貨も、湯気とともに立ちのぼる抹茶ラテの香ばしい匂いと、紬葵ちゃんが心を込めて仕上げた手染め布の雑貨たちで、丁寧さで人の足を止めさせる空間になっていた。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
気づけば、息をつく暇もないほどの忙しさだった。それでも不思議と苦にはならなかった。目の前に誰かの笑顔があって、「ありがとう」の一言をもらうたびに、じんわりと心が満たされていくのを感じた。
(これが、誰かの役に立つってことなのかな)
そんなことを考え、注文の品を運んでいると──大きな拍手が会場中に響き渡った。
「始まった!」
誰かの弾んだ声につられ、自然と視線が舞台へ吸い寄せられる。校庭中央の特設ステージ。今年のチャリティーバザー最大の目玉、演劇部による創作劇が、今まさに幕を開けようとしていた。
「うめめ、ちょっとだけなら見てもいいよ。演劇部の舞台、毎年すごいんだから!紫苑先輩の演技見とかなきゃ損だよ」
紬葵ちゃんの優しさに甘えて舞台へ目を向けた瞬間、私は息を呑んでいた。
舞台中央。冬の澄んだ陽光を全身に浴びて、演劇部部長・紫苑先輩が静かに歩み出てくる。白を基調とした衣装をまとい、その背筋は一本の剣のように迷いなく真っ直ぐだった。彼女が舞台中央で、すっと扇を開く。たったそれだけの所作で、ざわめいていた会場が水を打ったように静まり返った。
「──恵まれた者には、その恵みを分かち合う責務があります。私たちが受け継ぐべきものは、財産ではありません。誰かを想う心です」
その微笑みは、物語の中から抜け出してきた王子のようだった。私は演劇のことなど何も知らない。だけど、これだけは分かった。紫苑先輩は、演じているのではない。その役を生きている。
「ほら、すごいでしょ?紫苑先輩、かっこいいよね〜」
「うん!ファンになっちゃう気持ち分かる気がする」
同じ制服をまとっているとは思えないほど、オーラがあって、別の世界の人のようだった。
(私は、あんな風には……)
胸の奥が、ちくりと苦くなる。私はまだ、この学院へ来たばかりだ。歴史も、伝統も、何一つ知らない。それなのに紫苑先輩は、当たり前のようにそのすべてを背負って、舞台の上に立っている。
「また比べてない?うめめ、自分と誰かを比べちゃうとこあるよね」
図星だった。私は視線を逸らす。
「みんな、本当にすごいから……つい」
「さっきおばあちゃんのお客さんいたじゃん?うめめが椅子引いてあげた人」
そういえば少し前、足元のおぼつかないお客様がいて、席まで案内したのだった。
「アタシ、あのお客様の足元に気付かなかった。あっきーも多分見えてなかった。でも、うめめだけは気付いた。それって、才能じゃん?」
「そんな、大げさだよ」
「大げさじゃないって」
紬葵ちゃんは首を左右に振り、安心させるように笑いかけてくれた。
「紫苑先輩は舞台で人を惹きつける。あっきーは完璧な仕事で支える。アタシは物作り。じゃあ、うめめは?」
「え?」
「人を放っておけないところ。それも才能だと思うな」
その言葉は、このあと起こる出来事を思えば、不思議なほど未来を言い当てていた。
「そうだ!うめめ、少しお使いお願いできる?隣のクラスから借りてた予備の茶碗、そろそろ返しに行きたいの。ついでにちょっと会場、見て回ってきて」
「うん、分かった!」
私に出来ることがあるならと頷き、賑わう校庭を横切り、隣のクラスの出店へと向かった。
◇
クラスごとの出店が並ぶ通路を抜けると、辺りの空気が変わった。白い天幕で彩られた一角から、ふわり、と甘く爽やかな紅茶の香りが鼻先をくすぐった。学院でも毎年人気を集める冬のティーサロン。茶碗を返し終えた帰り道、順番待ちの列に並んでいた来賓らしき女性たちの会話が、自然と耳に飛び込んでくる。
「あちらの卯ノ花さんという生徒さん、本当に評判ですのよ。焼き菓子まで手作りですって」
「以前伺った時も、こちらの体調を気遣って温かい紅茶をすぐに用意してくださって」
(さゆり先輩……)
私は足を止め、遠くに見える白い天幕へ目を向けた。
(今度、ゆっくり私もお邪魔してみたいな)
そんなことを思い、もと来た道を引き返す。すると、賑わう会場のさらに奥──生徒会の受付本部がある一角が、やけに慌ただしいことに気付いた。
「会長!来賓リストの確認が……!」
「南側の来場者、思ったより多くて誘導が追いつかなくなってきていますわね……」
困った役員たちの声が聞こえてくるその慌ただしさの中心に、さら会長の姿があった。来賓へ向けては優雅に一礼し、それだけで、その場の空気がすっと引き締まる。視線を戻した瞬間には、もう別人のような速さで手早く役員たちに指示を出していた。
「会長、寄付金の集計が終わりましたわ」
「ありがとう。こちらへ」
「VIP来賓がお見えです」
「応接室へご案内して」
「南側の導線が少し混み始めていますわ」
「警備担当へ連絡を」
次々と飛び込んでくる報告を会長は迷いなく捌いていく。学院全体を動かしているというのに、その表情は最後まで穏やかなままだった。
(あれが……生徒会長)
憧れという言葉だけでは、到底足りない。ただ純粋に格好いい。そんな中、ふと、受付机の端に山積みになった来場者アンケートの束が目に留まった。誰も手をつけられずにいるのが、傍から見ているだけでも分かる。
(これくらいなら……!)
「あの、何かお手伝いできることはありますか?」
近くにいた役員の先輩へ、思い切って声をかける。
「本当に助かりますわ!こちら、集計用のシートに数を転記していただけると」
「はい!わかりました!」
私は近くの椅子に腰を下ろし、渡されたアンケート用紙を一枚ずつ丁寧に確認していく。忙しい本部の片隅で少しでも役に立てているのだと思うと、不思議と手が止まらなかった。
しばらく作業を続けていると、会場の奥で小さな悲鳴のような声が上がった。小さな男の子が、勢いよく走り出していた。その進行方向には、熱い飲み物を運ぶ生徒の姿がある。
危ない。そう思った、次の瞬間には──
「失礼」
警備の持ち場についていた海寧先輩は、すでに動いていた。男の子を優しく抱き止め、その勢いをそっと受け止める。
「走ると危ない。転んだら、お母さんが心配するぞ」
男の子は、しゅんと肩を落とす。
「ごめんなさい」
「君は、素直に謝れて偉いな」
海寧先輩は男の子の頭をそっと撫でると、駆け寄ってきたお母さんへ静かに引き渡した。その一連の動きはあまりにも自然で、本部で作業をしていた役員たちの多くは、小さな出来事があったことにすら気付いていない様子だった。
会長が学院を導く人なら、海寧先輩は学院を守る人。さゆり先輩は人へそっと気を配る人。紫苑先輩は人を魅了する人。役割はまるで違う。それでも、その根っこにある想いはきっと同じだ。
──誰かのために。
(私もいつか……あんなふうに誰かの力になれる人になりたい!)
その願いが、このあと数十分もしないうちに、自分自身の行動によって試されることになるとは──この時の私は、まだ知る由もなかった。
◇
生徒会の手伝いを済ませ、賑わう通路を戻る。さっき目にした先輩たちの姿が頭から離れず、私はまた、自分との差を考えてしまっていた。
「うーめめ。また難しい顔してー」
いつの間にか戻ってきていた紬葵ちゃんが、私の顔を覗き込む。
「うめめって、ふとした時にすぐ『私なんて……』って考えちゃう顔するんだよねー」
「そんな顔してた?」
「してたしてた。でもさ」
並べてあった雑貨を少し整え、話を続けた。
「会長だって最初から会長だったわけじゃないし、海寧先輩だって最初からあんな完璧じゃなかったと思う。さゆり先輩だって、きっとそう。みーんな一年生から始まってるんだよ?」
その言葉に、私は目を丸くした。そうだ。当たり前のことなのに、考えたこともなかった。先輩たちにも、一年生だった頃がある。
「だからさ、うめめはうめめのままでいいんじゃない?誰かみたいになる必要なんてないじゃん。そのままのうめめだから、アタシは好きだし」
「つむつむ~~~……!!!」
その言葉に胸がじんと熱くなっていた、ちょうどそのとき。
一人の来場者が紬葵ちゃんの雑貨へ足を止めた。
「こちらの和雑貨、とても素敵ね」
「ありがとうございます!これ全部、私たちで企画したんですよー!」
「この染め模様、とても優しい色ね」
「実は、染め直した生地を使ってるんです。捨てるはずだった布なんですけど……もう一度、誰かに使ってもらえたらいいなって思って」
「とても素敵な考え方ね。では、こちらをいただこうかしら」
紬葵ちゃんが嬉しそうに頭を下げ、お客様を見送ると、くるりとこちらを振り返った。
「うめめ!売れたーーーっ!!」
ぱぁっと花が咲いたような笑顔に、私まで頬が緩んだ。
「おめでとう!つむつむ!!」
「さっきうめめが、『見てると安心する』って言ってくれたじゃん?あれ聞いて、ちょっとだけ自信持てたんだ。正直、ずっと怖かったの。うちのなんて端切れを使った手作りだし、見劣りするかなって」
私は、静かに首を横へ振った。
「そんなことないよ。つむつむが大事に作ったものだって、ちゃんと伝わってた。だから、選んでもらえたんだと思う」
紬葵ちゃんは、少しだけ目を潤ませ笑った。
「……もう。うめめってさぁ。そういうこと、真っ直ぐ言うからズルいんだよ」
その直後、少し離れた展示スペースで、明るく弾む声が校庭に響いていた。
「ご来賓の皆さまーーー!!!こちらの和傘、とっても綺麗なんです!近くで見ると模様もすごく素敵なので、ぜひ見ていってくださーい!」
茉子ちゃんが身振り手振りを交えて、一生懸命に和傘の魅力を伝えていた。もっと近くで見てもらいたい。そんな気持ちが、こちらにまで伝わってくる。
茉子ちゃんが、展示してある和傘を指し示そうと一歩前へ踏み出す。次の瞬間、展示用に設置された低い台へ、何気なく足を乗せた。
(あ……!)
胸の奥が、小さくざわついた。そこは、人が乗るためのものではない。でも、茉子ちゃんは気づいていないようだった。
「この角度から見るとですね──」
笑顔のまま、説明を続ける。その足元で展示什器が、ごくわずかに揺れた。最初は、本当に小さな揺れだった。周囲の誰も気づかない。それでも私の目には、その揺れが妙に大きく映った。
(ま、まずい!!!)
「茉子ちゃん!!」
無意識に声を張り上げていた。茉子ちゃんが、驚いたようにこちらを振り向いた一瞬の出来事だった。今度は誰の目にも分かるほど、展示什器が大きく傾いた。展示台の上で揺れた和傘が、一本、また一本と傾いていく。その奥に固定されていた大型の展示什器が、重たい音を立てながら前方へ倒れ始めた。
「危ないっ!!!」
誰かの叫び声が響き渡る。しかし、その場にいた誰もが突然の出来事に身体を動かせずにいた。茉子ちゃんは目の前の光景に呆然と立ち尽くしたまま、一歩も動けずにいた。
(ど、どうしよう!このままじゃ間に合わない!!!)
そう思ったはずなのに。私の身体は、もう走り出していた。
「茉子ちゃん!!!」
地面を蹴る。人混みをすり抜ける。伸ばした右手が、必死に茉子ちゃんへ届こうとする。
「梅沢ちゃん!?」
茉子ちゃんが私に気づいたその瞬間、彼女の腕を強く掴んだ。
「こっち!」
思い切り引き寄せる。勢いよく引かれた茉子ちゃんの身体が、私の胸へ倒れ込んできた。その反動で、私は茉子ちゃんを抱きかかえるように身を翻す。
直後──鈍く重い衝突音が、校庭中へ響き渡った。展示什器が地面へ倒れ込み、飾られていた和傘や装飾品が辺りへ散らばる。舞い上がる砂埃。悲鳴。ざわめき。一瞬にして、華やかだった会場の空気が、張り詰めたものへと変わった。
(……ふう、……どうにか間に合った~~~!!)
そう安堵した、次の瞬間だった。
「…………う、ぐ!」
鋭い痛みが左腕を走る。倒れた展示什器の金具が、避けきれなかった私の腕を浅く掠めていた。制服の袖が裂け、白い布地へじわりと赤い色が滲んでいく。
「茉子ちゃん……大丈夫?どこかぶつけてない?」
茉子ちゃんは震えて何度も瞬きを繰り返し、ようやく状況を理解したように小さく頷いた。その視線が、ゆっくりと私の左腕へ落ちる。
「う、梅沢ちゃん……その腕……」
「大丈夫。ちょっと切れただけだから」
制服の袖口から赤い雫がぽたりと地面へ落ちる。その一滴が、ようやく会場にいた全員へ現実を突きつけた。
「怪我してる!」「誰か救護係を!」
悲鳴にも似たざわめきが、さざ波のように会場全体へ広がっていく。
「うめめ!!!」
紬葵ちゃんが人混みを押し分けて駆けてくる。反射的に伸ばされた手が、私の左腕に触れる寸前でぴたりと止まる。
「うめめ、……大丈夫?」
「大丈夫。少しかすっただけだから」
「嘘!少しなわけないじゃん!!血、出てるよ」
その語気の強さの奥に滲んでいたのは、怒りではなく、剥き出しの心配だった。
「皆さん、少し道を空けてください」
凛とした声が、ざわめきの只中を静かに切り裂いた。瑛良ちゃんだった。落ち着いた足取りで近づいてくると、倒れた展示什器と散乱した展示品をひと目見ただけで、状況のすべてを飲み込んだらしい。
「展示物から離れてください。安全確認を行いますので、ご協力をお願いいたします」
すっと人の輪がほどけ、通路が確保されていく。
「展示担当は立入禁止の札を。救護委員へ連絡。散乱した展示品には、まだ触れないで」
「はい!」
生徒たちが一斉に動き出す。混乱しかけていた空気が、少しずつ確実に落ち着きを取り戻していった。普段は少し冷たく見える瑛良ちゃんが、非常時にはこんなにも冷静で頼りになるのだと、私はそのとき初めて知った。
「茉子!!!梅沢さん!!!」
藍ちゃんが足早にやって来る。肩を震わせていた茉子ちゃんが、ゆっくりと顔を上げた。
「……藍ちん」
「怪我は?」
「私は……大丈夫……」
「そう」
短く答えた藍ちゃんは、小さく息を吐く。そして軽く、茉子ちゃんのおでこを指で弾いた。
「いたっ!!」
「今回はさすがに本気で心配した!!」
それだけだった。怒鳴ることも、責めることもしない。その声にはどれほど気が気でなかったかが、痛いほど滲んでいた。茉子ちゃんは唇をきゅっと結び、小さく頭を下げる。
「梅沢ちゃん、助けてくれてありがとう」
「目の前に茉子ちゃんがいたから……それだけだよ」
「それだけ、じゃない」
紬葵ちゃんが小さく呟いた。
「普通、あんなとっさに飛び出せないって!」
私は視線を落とす。あの瞬間、頭の中は真っ白だった。ただ、目の前で誰かが傷つくかもしれない。それがどうしようもなく嫌だった。──それだけだった。
そんな中、会場の中央から慌ただしい足音が近づいてきた。
◇
「事故があったと聞きました!」
生徒会役員たちだった。その先頭には、天ノ川さら会長の姿もあった。澄んだ瞳だけが、隅々まで一瞬にして現場を見渡していた。倒れた展示什器。散乱した和傘。立ち尽くす来場者。そして──私の左腕。会長は目を細めたが、すぐに落ち着いた声で指示を飛ばす。
「展示エリアは一時封鎖してください。来場者の皆様を安全な場所へご案内して。怪我人は?」
瑛良ちゃんが、一歩前へ出た。
「負傷は梅沢さん一名です。倉田さんをかばった際に腕を切っています。意識ははっきりしています」
「そう」
会長は短く頷いた。「展示担当は什器の固定状況を確認。会計担当は寄付金と展示品の管理を優先。事故の経緯は後ほど報告書を作成します」矢継ぎ早に指示が出される。事故が起きたばかりだというのに、会長は誰かを責めることも、慌てることもしない。
「梅沢さん。腕を見せてもらえるかしら」
「だ、大丈夫です。本当に少しですから」
私は、おそるおそる袖を押さえていた手を離した。裂けた制服の袖。そこから覗く傷口。会長は眉一つ動かさなかった。ただ静かに傷を確認すると、そばにいた役員へ顔を向ける。その時、
「会長」
低く落ち着いた声が響く。人垣の向こうから、副会長兼今回のバザーの警備責任者──海寧先輩が歩いてくる。彼女は現場に到着するなり、倒れた展示什器を確認し、周囲の安全、そして最後に私へと視線を移す。その目が、私の腕で止まった。一瞬だけ、その表情が揺らいだ。
「怪我をしたのか」
海寧先輩にしては珍しい、動揺の滲んだ声だった。
「梅沢。腕を見せてくれ」
「心配をおかけしてすみません。でも、大丈夫です。少し切っただけなので」
慌てて袖を押さえると、海寧先輩はほんの少し眉を寄せた。
「それを判断するのは、お前ではない」
怒鳴っているわけではない。それでも、不思議と逆らえない力があった。私はおとなしく、腕を差し出す。海寧先輩は、傷口へ目を落とした。裂けた制服。滲み続ける血。その様子を見た瞬間、先輩の表情が明らかに曇った。
「海寧、救護室へお願いできるかしら」
「もちろんだ」
食い気味に、返事があった。
「本当にこんなのかすり傷なので!」
「駄目だ」
間髪入れず、返ってきた。
「でも──」
「駄目だ」
今度は、いつもよりはっきりと強い声だった。近くにいた役員たちも、思わずといったふうに海寧先輩へ視線を向ける。海寧先輩自身も、少し言い過ぎたと思ったのだろう。一度視線を伏せ、小さく息を吐いた。改めて、落ち着いた声で言う。
「怪我人を無理に動かすわけにはいかない。これは警備責任者としての判断だ。……行くぞ。救護室まで案内する」
◇
賑やかだったバザー会場を離れると校舎へ続く渡り廊下は、驚くほど静かだった。私は、海寧先輩の少し後ろを歩いていた。ふと気づくと、いつもより少しだけ歩調が緩やかだった。振り返りもせず、自然に私の歩幅へ合わせてくれている。どちらも口を開かない。会話のない時間が続いているのに、不思議と気まずさはなかった。
「痛むか」
前を向いたまま、海寧先輩がぽつりと尋ねた。
「え?」
「腕だ」
私は慌てて首を振る。
「だ、大丈夫です!」
海寧先輩は足を止めた。振り返るその表情は、さっきと同じくらい真剣だった。
「……また、その言葉か」
「え?」
「『大丈夫』だ。梅沢、お前は人を安心させようとして、その言葉を使いすぎていないか?」
言われてみれば、茉子ちゃんにも、紬葵ちゃんにも、会長にも、海寧先輩にだって。私は今日だけで何度も同じ言葉を口にしていた。
「す、すみません」
つい謝ると、海寧先輩は小さく首を振った。
「思った通りか。謝る必要はない。だが、本当に痛い時まで我慢する癖は、直した方がいい」
その声音は、驚くほど穏やかだった。叱っているというより、心から案じているような響きだった。
思わず笑ってしまう。
「おい、笑うところではない」
「すみません」
「だから謝る必要はないと……」
呆れたように言いながら、海寧先輩の口元がほんの一瞬だけ緩んだ。
(……笑った)
初めて見た。海寧先輩が、こんなふうに自然に笑うところを。
すぐにいつもの凛とした表情へ戻ったのに、その余韻が、不思議なくらい胸に残った。冬の風の中、私はそっと胸元を押さえた。
「行くぞ」
短く言って、先輩は再び歩き出した。
◇
救護室の扉を引くと外の喧騒が嘘のように遠ざかった。静けさの中に、消毒液の鋭い匂いと微かに甘い石鹸の香りが溶け合っている。
「こっちだ」
海寧先輩に促されるまま、診察用の椅子へ腰を下ろす。先輩は慣れた手つきで救急箱を取り出すと私の前で片膝を折った。──至近距離だった。冬の冷えた空気の中に、先輩の体温だけがはっきりと伝わってくる。
「少し袖をまくるぞ」
小さく息を呑むと、先輩は無言のまま動きを止めた。
「失礼する」
一言断って、私の手首をそっと支える。傷に障らないよう、驚くほど丁寧な手つき。
「手間を取らせてしまって、すみません」
無意識にそう零すと、先輩は再び顔を上げ、今度は私を射抜くような鋭さで見つめた。
「なぜ謝る。怪我をしたのは、お前の落ち度ではない」
言葉に詰まる私をよそに、先輩は消毒液を含ませたガーゼを手に取る。
「少し染みるぞ」
次の瞬間、鋭い刺激が腕を走った。
「……っ、」
反射的に肩へ力が入る。先輩は片手でそっと支えて固定した。
「痛いか」
「だ、大丈夫です」
先輩は小さく眉を下げ、長く息を吐いた。
「……また、その言葉だな」
包帯を巻く手元を見つめたまま、独り言のように静かに続ける。
「今日一日、お前は何度『大丈夫』と言った。周囲を安心させたい気持ちは分かる。だが、自分の痛みまで誤魔化す必要はない」
私は意を決して、ぽつりと呟いた。
「迷惑をかけたく……なかったんです。みんな忙しいし、バザーの途中で、私一人くらい我慢すれば……」
先輩の手が止まり、包帯を結び終えるとそのまま私の顔を真っ直ぐに見据えた。これほど近くで、逃げ場のないほど真剣な眼差しを向けられたのは初めてだった。
「梅沢、お前は今日、一人の生徒を守った。その咄嗟の勇気は誇るべきものだ。だが……お前自身のことも大切にしてほしい」
その一言には、警備責任者という立場だけでは説明できない、もっと個人的で切実な響きがあった。
──傷つくお前を、もう見たくない。
言葉にならないそんな想いが、消毒液の香る静かな空気の中に、そっと溶け出していくようだった。私はただ、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
先輩は何も言わず、ただ頷くだけだった。その眼差しは、慈しみを感じさせるほど温かかった。
◇
「終わったぞ」
包帯の端を丁寧に整え、海寧先輩は小さく息をついた。
「無理はしないように。今日は、もう休んでいろ」
「みんなまだ頑張っていますし、私だけ休むわけには……」
食い下がる私に、先輩は呆れたように眉を寄せた。
「責任感があるのは美徳だとは思うが、一人で抱え込んでも誰も喜ばない。今日くらいは、周りを信じてみろ。皆もお前が思っている以上に頼りになる。だから、今は私の言うことを聞け」
命令、というよりは懇願に近い響きだった。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。まっすぐな瞳に射抜かれ、私は降参するようにこくりと頷いた。
「はい」
廊下側から、控えめなノックが聞こえた。
「失礼するわ」
扉が開き、さら会長が静かに姿を現す。
「海寧、応急処置は終わった?」
「ああ。傷は深くないが、今日は安静にさせたい」
会長はゆっくりと私へ歩み寄った。
「梅沢さん。改めて、お疲れさまでした。事故が大事に至らなかったのは、あなたが勇気を出して動いてくれたおかげでもあるわ」
「そ、そんな。私はただ……」
「謙遜しなくていいのよ。咄嗟の判断で身体を動かすことは、誰にでもできることではないもの。ただ、二つだけ。反省してほしいこともあるわ。困った時は、人を頼ること。責任感の強い人ほど、それを忘れてしまいがちよ。それから……無茶はしないこと」
その言葉に、先ほどの海寧先輩の言葉が重なる。二人が伝えたかったことは、同じだった。私は迷わず頷く。
「はい」
「良い返事ね」
会長は満足そうに微笑むと、ふと何かを思い出したように私を真っ直ぐ見つめた。
「そういえば、梅沢さん。さっき生徒会本部へ来てくれてたみたいね」
「はい。人手が足りないように見えたので、何かお手伝いできればと思って」
会長は静かに頷き、確信に満ちた声で言った。
「今日のあなたを見ていて、一つ気づいたことがあるの。あなた、生徒会の仕事に向いていると思うわ」
「えっ……私が、ですか!?」
「ねぇ、梅沢さん。もしよかったら……今度、一度生徒会室へ遊びに来ない?安心してちょうだい。いきなり正式に生徒会へ入ってほしいという話ではないわ。お茶でも飲みながら、お話をしてみたいの。……あなたのことを、もう少し知りたくなった」
生徒会長自らそんなふうに言ってもらえるなんて、私にとっては、夢のようだった。
「わ、私でよければ!」
「ありがとう。きっと、みんなも歓迎してくれるわ」
そう言って笑う会長の隣で、海寧先輩が小さく咳払いをする。
「歓迎するのは構わないが、まずは傷を治すのが先だ」
「そうね。ごめんなさい、つい先走ってしまったわ。いつでも生徒会室の扉は開いているから好きな時に来てちょうだい」
「はい」
返事をすると、海寧先輩もどこか安心したように表情を和らげた。
「まずは無理をしないこと。治ったら、その時に……さらのところへ会いに行けばいい」
◇
救護室を出ると廊下の突き当たりの窓から差し込む光が、いつの間にか朱色を帯びていた。窓の外に目をやると、チャリティーバザーの後片付けが進んでいるのが見えた。
「うめめ!」
聞き慣れた声に振り向く。紬葵ちゃんが、こちらへ駆け寄ってくるところだった。その少し後ろには、瑛良ちゃん、茉子ちゃん、藍ちゃんの姿もある。
「もう大丈夫なの?」
紬葵ちゃんは、包帯の巻かれた腕を見るなり、心配そうに眉を寄せる。
「うん。思ったより心配はいらないみたい」
紬葵ちゃんは大きく胸を撫で下ろすように、深く息を吐いた。
「よかった~~……。本当に心配したんだからね!」
「ありがとう。心配かけてごめんね」
頭を下げると、藍ちゃんが呆れたように肩を竦めた。
「謝る相手が違うでしょ」
そう言って向けられた視線の先には、茉子ちゃんがいた。さっきからずっと俯いたまま、制服のスカートの裾を小さな拳できゅっと握り締めている。
「茉子ちゃん」
名前を呼ぶと茉子ちゃんは勢いよく顔を上げた。夕日に照らされたその目は、少し赤く潤んでいる。
「梅沢ちゃん……。本当にごめんなさい!私があんなところに乗ったりしなければ……」
私は、そっと首を横に振る。
「謝らないで。茉子ちゃんは、みんなに和傘の良さを知ってもらいたかっただけでしょ?その気持ちは、すごく素敵だと思う。だから、次は安全な方法で宣伝しようね。その方が、もっとたくさんの人に見てもらえるから」
茉子ちゃんは、しばらく黙っていた。やがて俯けていた顔が、小さく上下に動いた。
「今度はちゃんと考える」
「約束」
差し出した小指に、茉子ちゃんがおずおずと自分の指を絡める。その仕草に、私もようやく肩の力を抜くことができた。
「ほんっと、うめめは甘いんだから~。怪我したんだから、もうちょっと怒ってもいいと思うよ?」
「怒れないよ。だって、茉子ちゃんも怖かったと思うし」
その言葉に、藍ちゃんが小さく笑った。瑛良ちゃんも静かに頷く。
「だから助けに飛び込めるんだろうな、梅沢さんは」
「無茶は感心しない。……でも、杏奈らしい行動だったとは思う」
思いがけない言葉に、私は目を丸くした。みんなの優しさが、じんわりと胸に染みていく。
「ありがとう」
そんな和やかな空気を裂くように校舎の時計が、澄んだ音で午後五時を告げる。校庭では、生徒たちが最後の片付けを終えて、今日一日の労をねぎらう声があちこちから聞こえてくる。幸い大事には至らず、チャリティーバザーは無事にその幕を閉じた。
私は、燃えるような夕焼けに染まる校舎を見上げる。今日だけで、たくさんのことがあった。先輩たちの責任ある姿。誰かを守るということ。そして、人に頼るということ。どれも、天ノ川女学院へ編入する前の私なら、きっと知らないままだった。
包帯を巻かれた腕へ、そっと視線を落とす。傷はまだ鈍く痛む。それでも、不思議と嫌な痛みではなかった。この学院で踏み出した、小さな一歩。その証のように思えたから。
ふと、救護室で交わした、会長の言葉が蘇る。
──いつでも、生徒会室の扉は開いているから。
その一言が、胸の奥で静かに、確かな重みを持って響いた。
(……生徒会)
私なんかに務まるのだろうか。不安はある。それでも、ほんの少しだけ、その扉の向こうを見てみたいと思った。
冬の夕風が、火照った頬を優しく撫でていく。
新しい季節はまだ少し先。それでも私の学園生活は、今日という日を境に、ゆっくりと次の物語へ動き始めていた。




