第3話 美澄瑛良は、気まぐれに手を差し伸べる
十一月も終わりへ近づき、天ノ川女学院の木々はすっかり冬支度を始めていた。中庭を彩っていたイチョウの葉は風に舞い、石畳の上へ黄金色の絨毯を敷き詰めていく。そんな景色とは対照的に、学院全体には目に見えない緊張が漂っていた。
期末考査。それは天ノ川女学院に通う生徒たちにとって、自らの教養と努力を示す大切な節目だった。
休み時間になっても教室は静かで、誰もが参考書や問題集へ視線を落としている。
「今年の古典は難しくなるそうですわ」
「副会長が作成なさった対策プリント、とても参考になりますわ」
そんな会話を耳にするたび、私は小さく肩を縮めてしまう。
(やっぱり、この学校のみんなって本当にすごいな……)
編入してまだ日も浅い私にとって、この学院の授業進度は想像以上だった。前の学校なら難なく解けていた問題も、ここでは応用の入り口に過ぎない。
「梅沢さん、大丈夫?最近、ずっと参考書と睨めっこしてるでしょ」
昼休み。お弁当を広げた藍ちゃんが心配そうに声を掛けてくれる。
「あはは……その、うん。ちょっとね」
曖昧な笑みしか返せない。その様子を見ていた茉子ちゃんが、大げさなくらい両手を広げた。
「もうさー!一人で抱え込むタイプだよね、梅沢ちゃんって!困ったら茉子たちのこと、頼っていいんだから!」
「ありがとう。でも、まずは自分で頑張ってみたいんだ」
そう答えると、二人は顔を見合わせて笑った。
「そういうところ、真面目だよね」
「無理だけはしちゃ駄目だからね!」
二人の優しさが嬉しくて、私は何度も頷いた。
一方、教室の窓際。相変わらず瑛良ちゃんは、一人静かに本を読んでいた。周囲の張り詰めた空気から、一人だけ切り離されているような静けさ。手にしているのは、分厚い数学書。その横顔は今日もどこか近寄り難い。それなのに、不思議と孤独には見えなかった。むしろ、一人でいることを自然に受け入れているような、穏やかな空気をまとっている。
「あ」
ふいに瑛良ちゃんが顔を上げた。視線が合う。私は慌てて会釈する。すると彼女も、僅かに首を下げた。それだけ。たったそれだけのやり取りなのに、なんだか少しだけ嬉しくなる自分がいた。
◇
その日の放課後。私は重たい足取りで図書室へ向かった。天ノ川女学院の図書室は、校舎の一角とは思えないほど広い。天井まで届く書棚。柔らかな間接照明。紙とインクが混ざり合った落ち着いた香り。ここへ来ると、不思議と心が静かになる。私は参考書を何冊も抱え、一番奥の席へ腰を下ろした。
(……今日は数学を終わらせよう)
そう決めて問題集を開いた。しかし、開始から三十分もしないうちに手が止まる。解けない。公式は覚えてる。途中式も書ける。それなのに最後だけ答えが合わない。何度計算し直しても同じだった。消しゴムの跡ばかりが増えていく。
ほんの少しだけ首を上げると、数席離れた場所で瑛良ちゃんが本を読んでいた。相変わらず分厚い専門書を膝に広げ、周囲の物音などまるで存在しないかのような静かな横顔。私が視線を向けても、こちらを見る気配はない。
(……やっぱり、自分で頑張らなきゃ)
もう一度問題へ向き直る。結果は変わらなかった。それでも答えは合わない。私は眉を下げ、問題集を閉じようとした。
その時だった。机の横に、静かな影が落ちる。顔を上げると、瑛良ちゃんが立っていた。
「……」
何も言わない。図書室では私語は禁止だ。彼女は私の顔を見るでもなく、開きっぱなしの問題集へ静かに視線を落とした。私は一瞬戸惑ったものの、声は出さず、口の動きだけで伝えてみることにした。
「……お願いしても、いい?」
瑛良ちゃんは頷くと、問題集を手元へ引き寄せた。長い睫毛が伏せられ、整った横顔がゆっくりと数式を追っていく。制服のポケットから付箋を一枚取り出し、さらさらと文字を書き込む。書き終えると、それを私の問題集へそっと貼り付けた。
『四行目。展開式の途中で括弧を一つ落としてる』
私は慌てて見直した。本当だ。一つ括弧を書き忘れただけで、その後の計算が全部ずれてしまっていた。そんな単純なミスだったなんて。私は恥ずかしさで頬を熱くしながら、瑛良ちゃんを見上げた。
「ありがとう」
小さく唇だけを動かす。瑛良ちゃんは相変わらず無表情のまま、こくりと頷いた。席へ戻る直前、一枚だけ新しい付箋を机へ置く。
『焦ると、字が雑になる』
それだけだった。自分のノートを見る。確かに、後半になるほど数字も記号も乱れている。
(そんなところまで見られてたんだ……。は、恥ずかしい)
でも、不思議と嫌じゃない。彼女は「頑張れ」とも「大丈夫」とも言わない。必要なことだけを、必要な分だけ伝えてくれる。その距離感が、どこか瑛良ちゃんらしかった。
私は付箋を大切にノートへ貼り直し、もう一度シャーペンを握る。今度は焦らず、一行ずつ確かめるように式を書いていく。数分後、最後の答えに二重丸をつけた瞬間、小さな達成感が胸いっぱいに広がった。
顔を上げる。数席先では、瑛良ちゃんがもう何事もなかったかのように専門書へ視線を戻していた。それでも知っている。あの付箋一枚がなければ、私はきっと今日も答えへ辿り着けなかった。誰にも気付かれないよう、小さく頭を下げる。ページをめくる音だけが、静かな図書室に優しく響いていた。
◇
それからというもの放課後の図書室は、私にとって少しだけ特別な場所になった。数学で手が止まる。英語の長文に首を傾げる。古典の敬語表現で混乱する。そんな時、決まって机の横へ静かな影が差す。
声はない。けれど、瑛良ちゃんは私のノートを一瞥すると付箋を一枚取り出して短く書き込む。
『主語が違う』
『ここは助動詞』
必要最低限の言葉だけ。それ以上は何も書かない。私もまた、大げさに礼を言うことはしなかった。小さく会釈をして、付箋をノートへ貼る。それだけで十分だった。図書室の静寂を壊さず、それでも、ありがとうはちゃんと伝わっている気がした。
そんな日が何日か続いた頃には、不思議な習慣ができていた。問題が解けなくなる。私は少しだけ問題集を机の右端へ寄せる。しばらくして瑛良ちゃんが席を立つ。本棚へ向かう途中を装っているのか、それとも偶然なのか。私には分からない。彼女は、私の机の前を通りかかるたび、ほんの数秒だけノートへ目を落とすのだ。
一枚の付箋が置かれる。
『そこは約分』
『惜しい』
たったそれだけ。それだけなのに、私の頭の中で絡まっていた糸がするりとほどけていく。解説は短い。なのに、どう考えればいいのかが驚くほど分かりやすい。教え方まで上手なんだ。私は付箋を見つめながら、何度もそう思った。
瑛良ちゃんは、用事が済めばすぐ自分の席へ戻ってしまう。振り返ることもない。雑談をすることもない。相変わらず分厚い専門書を読み続けている。──それなのに。
(今日は瑛良ちゃん、来ないのかな)
そんなことを考えてしまう自分がいた。気付けば私は、問題が解けないことよりも、瑛良ちゃんが図書室へ来ているかどうかを先に探すようになっていた。
ある日の放課後、彼女の席は空いていた。一人で問題を解いてみる。いつもなら十五分ほどで終わる問題に三十分近くかかってしまった。ようやく解き終えた頃、静かに椅子が引かれる音が聞こえた。振り返ると、少しだけ肩を揺らし、珍しく荒い息を整えている瑛良ちゃんが立っていた。いつもは乱れのない髪や制服の着こなしも、どこか慌ただしさを物語っている。
(……珍しい)
瑛良ちゃんは私と目が合うと、一瞬だけ動きを止める。それから何事もなかったように、自分の席へ向かった。私はほっと表情をやわらげる。
(よかった)
どうしてよかったと思ったのか、自分でも分からない。まだ、ほとんど会話もしたことがない相手なのに。ただ、彼女が来てくれただけで、図書室がいつもの景色に戻ったような気がした。
◇
やがて、学院中が期末考査一色に染まる。
(ぐぬぬ、赤点だけは絶対に避けないと……!)
家ではママもパパも焦らなくていいと笑ってくれる。とはいえ、この学院で遅れを取るわけにはいかない。そう思えば思うほど、肩に力が入ってしまう。
考査前日の放課後。図書室は、いつにも増して静まり返っていた。私も数学の最後の確認に取り掛かっていた。問題自体は、もう何度も解いている。ただ、応用問題になるとどうしても手が止まる。
(あと一歩なのに……!)
その様子を見ていたのか、しばらくして机の横へ一枚の付箋が滑ってくる。
『途中までは合ってる』
顔を上げると、瑛良ちゃんが居た。彼女は付箋の続きを書き足す。
『焦らなくていい』
たったそれだけ。今までなら、
『公式』
『ここ』
『違う』
そんな事務的な言葉ばかりだった。だからこそ、その一文が少しだけ意外だった。私は笑みを浮かべ、小さく頷く。
(……ありがとう)
心の中で呟き、もう一度問題へ向き直る。しかし、数分後。また手が止まる。さっきとは別の問題だった。その姿を見ていた瑛良ちゃんは、珍しく小さく息を吐く。そして一枚の付箋を書く。今度は少し長かった。
『……ここじゃ教えきれない』
私は首を傾げると、続けてもう一枚重ねて。
『閉館後、ついてきて』
「……え?」
うっかり声が出そうになり、慌てて口元を押さえる。瑛良ちゃんは何も説明しない。ただ静かに時計を見るだけだった。
(どういうこと……?)
疑問ばかりが浮かぶ。でも瑛良ちゃんは、今まで一度も意味のないことをする人ではなかった。私は付箋をそっとノートへ挟み、閉館時間まで黙々と机へ向かった。
「閉館時刻となりました。ご利用ありがとうございました」
しばらくすると館内放送が流れ、生徒たちが静かに席を立ち始める。私は教科書を鞄へしまった。瑛良ちゃんも本を閉じ、私の方へ近づいてきた。
「……行こう」
初めて聞く、クラスや図書室の外での彼女の声。小さく、澄んだ声だった。
「う、うん」
私は少し驚きつつも頷き、二人並んで図書室を出る。夕暮れの廊下は人気が少なく、西日が長く伸びた影を床へ落としていた。しばらく無言で歩く。不思議と気まずさはない。図書室で積み重ねてきた静かな時間が、その沈黙さえ自然なものへ変えていた。
瑛良ちゃんは、本館とは反対方向へ曲がる。
「え……?」
足を止める。そこは普段ほとんど人が来ない旧校舎へ続く渡り廊下だった。
「こっち」
短く言って歩き出す瑛良ちゃん。私は少しだけ緊張して、その後を追った。渡り廊下を抜けると、空気が変わる。人の気配がない。木造の床は年月を重ねた柔らかな軋みを返し、窓から吹き込む冬の風が、古びたカーテンを静かに揺らしていた。
「ここ……旧校舎?初めて来た」
「みんな、あまり来ない」
瑛良ちゃんはそれだけ言うと、一つの扉の前で立ち止まる。プレートには、かすれた文字で『視聴覚室』と書かれていた。彼女はゆっくりと扉を開く。
「ここなら、誰にも邪魔されない」
そう言って、初めて私の方を真っ直ぐ見た。
「今日は……ちゃんと教える」
その一言に、私は自然と笑顔になる。
「……うん!」
◇
視聴覚室の扉が、静かに閉まる。ガラス窓から差し込む夕陽が、埃の舞う空気をほのかに赤く染めていた。部屋の隅には古びた映写機材が整然と並べられている。使われなくなって久しい場所だというのに、不思議と荒れた印象はない。
「……座って」
瑛良ちゃんは窓際の長机へ歩み寄り、自分の鞄を静かに置いた。私は言われるまま向かいへ腰を下ろす。二人きり。こんなに近い距離で向かい合うのは初めてだった。
(なんだろう……少し緊張する)
瑛良ちゃんは私のノートを手元へ引き寄せる。
「見せて」
「う、うん」
ノートを受け取るとページを一枚ずつ丁寧にめくり始めた。ミステリアスな紫色の瞳が数式を追う。最後のページまで読み終えると、息をついた。
「……なるほど。理解してないわけじゃない。急いでる」
その一言に、私はつい肩をすくめた。
「やっぱり分かる?」
「字で」
彼女は私のノートを開き、ページを並べる。最初は綺麗に整った文字、一定の大きさ、真っ直ぐな途中式。後半のページは、数字は少し潰れ、イコールの位置もずれ始めていた。
「後半」
「……あ」
自分でも気付いていなかった。
「焦ると雑になる」
図書室でも書かれた言葉。今度はちゃんと声になって返ってきた。
「……杏奈は、考え方は合ってる」
私の名前。瑛良ちゃんが初めて自然に呼んでくれたことに、一瞬だけ胸が高鳴る。
「でも」
彼女はシャーペンを手に取り、私のノートへ式を書き始める。
「途中式を飛ばしすぎ。ここは暗算しない」
「え?」
「速さより、正確さ」
彼女は一度顔を上げた。
「試験は、最後まで解けなくてもいい」
「全部解こうとしてる」
その言葉に、私は返事ができなかった。図星だった。編入したばかり。遅れを取り戻したい。赤点だけは避けたい。みんなに迷惑をかけたくない。そんな思いばかりが先走り、私は最初から最後まで全部解かなければならないと思い込んでいた。
「……私」
俯いたまま呟く。
「置いていかれたくなくて。みんな、すごいから。私だけ普通で……」
気付けば、本音が零れていた。瑛良ちゃんは何も言わない。否定もしない。慰めもしない。しばらく静かな時間が流れる。窓の外で木々が揺れた。彼女は、ゆっくりと口を開く。
「普通……」
少しだけ考えるように呟いてから、
「私は、普通じゃない。勉強しかできない。運動は苦手。人と話すのも苦手。友達も、……少ない」
少しだけ照れたように目を伏せて、瑛良ちゃんは静かに続けた。
「だから、あなたが……杏奈が、少し羨ましい」
「……私が?」
聞き返すと、瑛良ちゃんは小さく頷く。
「誰とでも話せる。笑うのが自然。分からないって言える。……私は、そういう人が少し羨ましい」
返す言葉を失った。勉強も教養も、クラス内で誰より優秀に見えた瑛良ちゃんが、私を羨ましいと言うなんて思ってもみなかったからだ。
「そんなこと……」
「杏奈は、自分にできないことを恥ずかしいと思ってる。でも、隠さない。私は、怖くて、隠すことしかできない。……だから、羨ましい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。私が勉強のできる瑛良ちゃんに憧れていたように、瑛良ちゃんもまた、自分にはないものを見つめていたのだ。互いに、自分にないものを持っている。そのことを初めて知った気がした。
「ありがとう」
自然と頬が緩む。瑛良ちゃんは少しだけ目を細めた。氷が春の日差しでゆっくり溶けるような、微笑み。
(瑛良ちゃんが笑った……!)
普段は感情をほとんど表に出さない瑛良ちゃん。だからこそ、その小さな笑顔は、夕暮れの光よりも温かく、私の胸に静かに刻まれた。
◇
しばらくの間、私たちは問題集に向かい続けた。瑛良ちゃんの説明は、驚くほど分かりやすかった。難しい言葉を並べるわけでも、長々と解説するわけでもない。どうしてそうなるのかを一つずつ丁寧に積み重ねてくれる。今まで霧の中を歩いていたような数式が、少しずつ輪郭を持ちはじめた。
「解けた!全部、自分で解けた!」
答案用紙を抱きしめると、瑛良ちゃんは私の解答へ静かに目を通す。
「全部合ってる」
その一言だけで、胸の中に張り詰めていたものが一気にほどけた。
「やったー!!これなら、試験も何とかなりそう!」
「……油断は駄目」
すかさず返ってきた言葉に、私は笑みを引き攣らせる。
「はい、先生!」
冗談半分で敬礼をすると、瑛良ちゃんは一瞬きょとんとした顔を見せ、それから小さく肩を震わせた。
「先生じゃない」
「ふふっ、ごめん」
二人の間に、穏やかな笑いが生まれる。これまで図書室では交わせなかった何気ない会話。そのことが少しだけ嬉しかった。窓の外を見ると、夕焼けは茜色をいっそう深めていた。校舎の時計が午後六時を告げる。
「こんな時間……!付き合わせちゃってごめんね、瑛良ちゃん」
「……別に」
相変わらず素っ気ない返事。でも、その声はどこか柔らかい。
「本当にありがとう。図書室でもずっと助けてもらってたし、今日だってこんなに遅くまで付き合ってくれて」
そう言って、私は鞄とは別に隠し持ってきていた袋の中から小さな紙箱を取り出した。淡いクリーム色の箱に、ラベンダー色のリボンが掛けられている。
「え?」
瑛良ちゃんが珍しく戸惑ったような声を漏らす。
「実はね、今日はこんなものを用意してました!勉強教えてくれたお礼!」
「……お礼?」
私は少し照れて笑った。
「昨日、帰りに商店街で見つけたの。瑛良ちゃん、甘いもの苦手じゃないといいんだけど……」
それだけ言って、箱を机の上へ差し出す。瑛良ちゃんは箱と私の顔を何度も見比べていた。どうやら自分が受け取っていいものなのか迷っているようだった。
「開けても……いい?」
「もちろん!」
遠慮がちにリボンをほどき、箱の蓋を開ける。中には、小ぶりのマフィンが二つ並んでいた。ふんわり焼き色のついた生地の上には、白いアイシング。星形と小さなリボン型の飾りが可愛らしく添えられている。
「可愛い……」
控えめに漏れた瑛良ちゃんの一言に、私はぱっと表情を輝かせる。
「よかった!見た瞬間、瑛良ちゃんに似合いそうって思ったんだ」
「……私に?」
「うん。普段はクールだけど、本当はすごく優しいから、優しい色のお菓子が似合う気がして」
言った瞬間、私は「あっ」と口を押さえた。
(しまった……!ちょっとストレートすぎたかもしれない)
瑛良ちゃんは何も言わない。ただ箱の中のマフィンをじっと見つめている。長い沈黙の後、
「……いただきます」
そう小さく呟くと、中を開けてそっと一つ手に取った。恐る恐る一口。ふわりと甘い香りが漂う。そのままゆっくりと咀嚼し、小さく目を伏せる。私はつい身を乗り出した。
「……どう?」
少しだけ間が空く。瑛良ちゃんは、視線をマフィンへ落としたまま小さく口を開いた。
「……おいしい」
その一言は、とても短かったけれど、どこか柔らかい響きがあった。
「本当?」
「……うん」
もう一口。今度は最初より少しだけ迷いがない。ほんのり口元が緩んだような気がして、私は自然と頬が緩むのを感じた。
(よかった。気に入ってもらえた)
静かな視聴覚室には、小さく紙が擦れる音だけが響いていた。そんな穏やかな時間の中で、不意に私は気付く。
「あ」
「……?」
「瑛良ちゃん」
彼女が顔を上げる。その口元には、白いアイシングがほんの少しだけ付いていた。微笑ましくて、私はつい笑ってしまう。
「口元、ついてるよ」
瑛良ちゃんは慌てて自分の頬へ手を伸ばしたけど、場所が少し違う。
「違う違う、こっち」
考えるより先に身体が動いた。私はそっと手を伸ばし、人差し指で彼女の口元に残った小さなアイシングを優しく拭い取る。柔らかな肌。一瞬だけ触れた体温。
「……っ」
瑛良ちゃんの身体がぴたりと固まった。大きく見開かれた瞳が、信じられないものを見るように私を映している。
「ご、ごめん!」
私もようやく自分の行動に気付き、慌てて手を引っ込めた。
「その……汚れてたから、つい……!」
顔が熱い。耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かる。一方の瑛良ちゃんはというと、俯いたまましばらく微動だにしなかった。その後、小さく息を吐き、
「……ばか」
本当に小さな声でそう呟く。怒っているわけではない。照れ隠しだと分かるくらい、その声は震えていた。
気まずい沈黙が流れる。私は何か言わなきゃと思うのに、言葉が見つからない。瑛良ちゃんも俯いたまま、手の中のマフィンを見つめている。
しばらくして、瑛良ちゃんは意を決したように深呼吸を一つすると、まだ手を付けていないもう一つのマフィンをそっと持ち上げた。そして、おずおずと私の方へ差し出す。
「……これ。……まだ食べてない」
視線は泳いだまま。耳は真っ赤なまま。それでも彼女は小さく唇を動かした。
「……一口だけなら」
私は目を丸くする。
「えっ?」
「その、……お礼」
それだけ言うと、さらにほんの少しだけ私の口元へマフィンを近付ける。
「あ……あーん」
瑛良ちゃんのその一言は、消えてしまいそうなくらい小さかった。私は堪らず息を呑む。さっきまで無表情だった瑛良ちゃんが、ここまで勇気を振り絞ってくれた。その気持ちが嬉しくて、胸がいっぱいになる。
「……いただきます」
私はそっと口を開き、差し出されたマフィンを一口だけ頬張った。甘いアイシングの味が口いっぱいに広がる。だけど、それ以上に伝わってきたのは、目の前の女の子が精一杯踏み出してくれた、小さな勇気だった。
私がマフィンを飲み込むと、瑛良ちゃんはほっとしたように小さく息を吐いた。その表情は、普段教室で見せる無機質な横顔とは違っていた。どこか気恥ずかしそうで、少しだけ安心したようで、そして何より、ほんの少し嬉しそうだった。
「これで、おあいこ」
ぽつり、と瑛良ちゃんが呟く。
「おあいこ?」
「勉強を教えたお礼と、お菓子のお礼」
またうっかり頬が緩んでしまった。
「瑛良ちゃんって、律儀なんだね」
「……普通」
照れ隠しなのか、瑛良ちゃんはぷいっと顔を逸らした。そんな姿が可愛らしくて、私はまた笑ってしまう。
「笑わないで」
「ご、ごめん。でも、瑛良ちゃん、そうやって照れるんだなって思って」
「…………」
返事はない。だけど、否定もしない。代わりに、彼女はマフィンの箱を丁寧に閉じると、大切そうに袋へ戻した。その手つきには、静かな慈しみがにじんでいた。
「……ありがとう」
今度は、はっきりと。私の目を見て言った。
「お菓子も」
少し間を置いて。
「今日は、楽しかった」
私は、言葉を失った。教室ではいつも一人。休み時間も本を読んでいる。誰とも必要以上に話そうとしない瑛良ちゃん。そんな彼女が、楽しかったと口にした。その一言だけで胸がいっぱいになる。
「私も」
自然と顔つきが柔らかくなる。
「また一緒に勉強しようね!」
瑛良ちゃんは一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく頷いた。
「……別に、いいけど」
素っ気ない返事だったけど、これまで聞いた瑛良ちゃんのどんな返事よりも温かかった。
◇
二人で視聴覚室を出る。窓の外は、すっかり夕暮れに染まっていた。西日が渡り廊下を深紅に照らし、長く伸びた私たちの影が静かに重なる。しばらく無言で歩く。不思議と気まずさはない。静かな時間が心地よかった。
昇降口が近づいたところで、瑛良ちゃんがふと立ち止まる。
「……私、こっちだから」
「そっか」
私は少しだけ名残惜しさを覚え、笑みをこぼした。
「今日は本当にありがとう」
瑛良ちゃんは少しだけ視線を逸らし、
「……テスト、頑張って」
とだけ言って歩き出す。数歩進んだところで、不意に振り返った。
「……杏奈」
「ん?」
「……赤点だけは、取らないで」
真面目な顔で言われてしまい、私はつい吹き出した。
「あははっ!努力します!」
「……ばか。笑い事じゃない」
口では呆れたように言いつつも、口元にはささやかな笑みが浮かんでいる。それを見届けると、瑛良ちゃんは今度こそ校舎の奥へ消えていった。
私は遠ざかる背中を見送り、そっと胸へ手を当てる。
(この学校に来たばかりの頃は、不安しかなかった)
今は違う。茉子ちゃんの明るさ。藍ちゃんの面倒見の良さ。つむつむの優しさ。そして、瑛良ちゃんの静かな温もり。少しずつだけど、この学園で過ごす時間が居場所へと変わり始めている気がした。
そんな穏やかな気持ちで渡り廊下に差しかかった、その時だった。
ふと、空気が変わる。前から歩いてきた生徒たちが、自然と左右へ道を譲り始める。
「……生徒会」
そんな囁きが耳に届いた瞬間、私も反射的に顔を上げた。夕陽を背に、四つの影がこちらへ近づいてくる。先頭はさら会長。半歩後ろに海寧先輩。その後ろに、穏やかなさゆり先輩と飄々とした紫苑先輩。
私は無意識に背筋を伸ばした。
(また……会った)
慌てて廊下の端へ寄り、頭を下げる。
「ごきげんよう、梅沢さん」
さら会長が柔らかく微笑みかけてくれた。
「ご、ごきげんよう!」
その隣で、海寧先輩が静かに私を見つめていた。
「……梅沢。期末考査が近い。勉学には慣れてきたか」
「まだまだです。でも、皆さんに助けてもらいながら何とか頑張っています!」
海寧先輩は短く頷くと、私が抱えていた参考書へ視線を落とした。
「逃げずに向き合っているようだな」
その一言に、私は思わず顔を上げる。切り捨てられると思っていた場面で、そこにはごく僅かに、評価するような響きが混じっていた。
「ありがとうございます!」
「礼を言うには早い。努力は結果を伴って初めて評価に値する」
海寧先輩は少し目を細める。
「私は、まだお前を認めたわけではない」
その言葉は厳しい。でも、不思議と胸は痛まなかった。最初の日のような拒絶ではない。試されている。見極めようとしてくれている。そう感じられた。
私は自然と笑っていた。
「ですが、先輩方にも認めてもらえるように頑張ります!」
その返事に海寧先輩はほんの一瞬だけ目を見開いた。予想外、そんな表情だった。
それから海寧先輩は、不敵な笑みを滲ませた。
「……フン、その意気だけは買っておこうか」
「海寧ったら。ずいぶん優しいのね」
さら会長がからかうように口元をほころばせる。
「何のことだ」
「へえ、海寧が褒めるなんて珍しい」
紫苑先輩まで笑う。
「褒めてはいない」
さゆり先輩がそっと口元へ手を添えた。
「梅沢さん、期末考査、応援していますね」
「ありがとうございます!」
私が頭を下げると、四人は再び歩き出す。けれど海寧先輩だけ、最後に一度だけ振り返った。
「梅沢」
「はい!」
「期待はしない」
一拍置いて、言葉を選ぶように。
「……だが、失望もしたくない」
それだけを言い残し、海寧先輩は歩き去っていった。
私はその背中を見送る。胸の鼓動が少し速い。最初に出会った時とは違う。今も海寧先輩は怖い。だけど、それだけじゃない。厳しい言葉の奥にある、不器用な誠実さ。自分の基準で真正面から人を見ようとする、真っ直ぐさ。
(海寧先輩って……やっぱり、不思議な人だ)
◇
その日の帰り道。夕焼けに染まる道を歩きながら、私はこのところの出来事を思い返していた。狂言。つむつむと交わしたノート。瑛良ちゃんとの勉強会。そして、今日の生徒会とのやり取り。
編入したばかりの頃は、毎日がついていくだけで精一杯だった。それなのに今は、一日が終わるたびに思い出が増えていく。誰かと笑って、誰かに助けられて。少しずつ、この学院での時間が私の日常になり始めている。
「……頑張らなくちゃ」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。ママならきっと「努力は裏切らないわ」と笑うだろう。パパなら「杏奈ちゃんなら大丈夫だよ〜」と、いつもの調子で背中を押してくれるに違いない。
だから私も応えたい。この学園を選んでくれた二人に。そして、ここで出会った人たちに。
◇
その頃──生徒会室。
「今日は随分と熱心に見ていたじゃない、海寧」
書類から目を離さないまま、海寧は答える。
「……巡回は私の職務だからな」
「梅沢さんのこと」
さらりと言われたその名前に、海寧の手が一瞬だけ止まった。それでも、すぐに何事もなかったように視線を戻す。
「編入生だ。学院生活に問題がないか確認するのは当然だろう」
紫苑が椅子にもたれて笑う。
「最初に会った日はあんなに警戒してたのに、今日は少し評価してるように見えたけど?」
「評価ではない」
海寧は静かにペンを置く。
「努力する者を否定する理由がないだけだ」
「それを評価って言うんだよ」
「違う」
さらが間に入って表情をやわらげる。
「海寧は本当に素直じゃないわね。紫苑もそのくらいにしておきなさい」
海寧は小さく息を吐き、窓の外へ目を向けた。校門へ続く坂道を、参考書を胸に抱えた小柄な後ろ姿が歩いていく。最初に見た時とは違う。戸惑いを抱えながらも、自分の足で前へ進もうとしている。
(努力する者は嫌いではない)
だからこそ。
(甘い評価は……与えない)
本当にこの学院で歩み続けられる人間なのか、それを見極める責任が自分にはある。
「……期末考査」
ぽつりと呟く。
「そこで分かる」
さらがその横顔を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「楽しみね」
友情も。恋も。試練も。梅沢杏奈の学院生活は、まだ始まったばかりだった。




