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第2話 由良紬葵は、夕暮れに秘密を分かち合う

十一月半ば。


澄みきった青空の下、天ノ川女学院はいつも以上に凛とした空気に包まれていた。黄金色に色づいたイチョウ並木を抜ける風は冷たい。それでも登校する生徒たちの姿勢は乱れることなく、コートの裾を揺らし、優雅に正門をくぐっていく。


今日、この学院では年に一度の芸術鑑賞教室が催される。天ノ川女学院では、芸術に触れることそのものが教養であり、作品をどう受け止め、何を感じ取るかもまた令嬢としての資質の一つと考えられていた。


学院が長い年月をかけて受け継いできた文化に触れ、自らの感性を磨く日。だからこそ、生徒たちの装いも普段より少しだけ改まっている。


そんな中、私は鏡の前で何度目になるか分からない制服の襟を直していた。


「杏奈、まだ緊張してるの?」


後ろから優しく笑う声。振り返るとママが、コーヒーカップを片手にこちらを見ていた。


「芸術鑑賞って聞くと、なんだかすごく難しそうで」


「難しく考えなくてもいいのよ。でもね──」


リボンを整えてくれ、少しだけ真面目な表情になった。


「背筋だけは伸ばしていなさい。ああいう場所は、作品を見るだけじゃないわ。あなたたち自身も見られているの」


それは看護師として多くの人と接してきたママだからこそ出てくる言葉だった。


「あなたが何を感じるかは自由。でも、その自由を支える礼儀だけは忘れちゃ駄目」


私はゆっくり頷く。すると横から、エプロン姿のパパが顔を出した。


「杏奈ちゃん、今日は狂言らしいね」


「パパ、狂言って観たことあるの?」


「あるよ~。学生の頃にね」


パパは少しだけ遠くを見るような目になる。


「最初は僕も全然分からなかった。でも、気付いたら笑ってる。理屈じゃなくてね。『あ、この人たち、面白い』って思える瞬間が来るんだよ」


「杏奈ちゃんも、正解を探そうとしなくていい。好きだな、面白いなって思えたら、それが杏奈ちゃんだけの答えだから」


微笑むパパの表情とその言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。


「ありがとう、パパ」


「よーし!帰ってきたら感想聞かせてね!」


「うん!」


玄関を出ると、冷たい風が頬を撫でた。


(正解なんて探さなくていい……か)


ママの言葉。パパの言葉。二人の声を胸の中で反芻して、私は学院へ向かって歩き始めた。


◇


昼過ぎ。授業を終えた生徒たちは、講堂へ続く長い回廊を静かに歩いていた。いつもの休み時間とは違う。笑い声は控えめで、誰もがどこか背筋を伸ばしている。


「今年は狂言なんですって」


「ですが、笑うタイミングが難しいそうですわね」


(ええっ!?笑うタイミングまで決まってたりするの!?)


私はますます緊張してしまう。


「うめめ」


聞き慣れた明るい声。振り返ると、紬葵ちゃんが軽く手を振り駆け寄ってきた。


「顔、固まってるよ~?」


「え、そんなに!?」


「今にも職員室に呼ばれそうな顔」


「そんなやばい顔してた!?」


紬葵ちゃんは笑いを噛み殺す。


「大丈夫だって」


「でもさ、狂言なんて初めてだし」


「それならなおさら楽しめるじゃん!」


「難しく考えなくていいんだよ」


「狂言ってね、もともとは庶民が笑うためのお芝居なんだから」


その笑顔は、いつもの軽やかなギャルらしさそのものだった。しかし今の一言には、どこか長年親しんできた人だけが持つ確かな温度が宿っていた。


二人で話しながら歩いていると、やがて大講堂が見えてきた。重厚な木製の扉はすでに大きく開かれ、学内の規律維持も担う生徒会役員たちが、静かに生徒を迎え入れている。その中央に立つ、一人の生徒の姿が目に入った。


艶やかな黒髪を背中まで流し、凛と伸びた背筋。──仙石海寧(せんごくあまね)先輩。先日、私に見極めてやると言い放ち、顎を持ち上げた生徒会副会長。あの日の出来事が脳裏をよぎり、私は反射的に背筋を伸ばしてしまう。


私たちが近付くと、海寧先輩の瞳がこちらへ向く。胸が、どくりと音を立てた。ほんの数秒。それだけで、周囲の生徒たちがどよめき、微かな囁き声が漏れる。


「副会長が自ら目を留めるなんて……」


海寧先輩は周囲の視線を気に留めず、私の顔を見て、それから制服の襟元へと視線を落とした。私は思わず襟を触った。


(やばっ、もしかして曲がってる!?)


慌てて直そうとした、その瞬間。


「……そのままでいい。乱れてはいない」


それだけ告げると、海寧先輩は次の生徒へ視線を移してしまう。


「あ……ありがとうございます」


自分の声が届いたのかどうかさえ分からない。ただ、その一言だけで胸の奥の張りつめていた糸が、少しだけ緩んでいくのを感じた。


「副会長、優しかったじゃん。あの人、本当に厳しい人にはちゃんと注意するから」


「そ、そうなんだ」


(やっぱり、よく分からない人)


それだけなのに、どうしてだろう。さっきより少しだけ、胸の鼓動が落ち着いている自分がいた。


◇


講堂へ一歩足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。天井から幾重にも吊り下げられたシャンデリアが、柔らかな黄金色の光を降り注いでいる。深紅のベルベットで統一された客席。学院の施設とは思えないほどの壮麗さに、私はしばらく立ち尽くしてしまう。


「すごいでしょ?アタシ、ここ好きなんだ」


紬葵ちゃんがどこか誇らしげに頬を緩める。


「講堂が?」


「うん。ここってさ……舞台に立つ人も、観る人も、本気なんだよ」


その声音は、いつもの軽やかさとは少し違っていた。穏やかで、優しくて、何より舞台への敬意が滲んでいた。


(……つむつむって、こんな表情もするんだ)


知らなかった。教室では見られない、彼女だけの顔。そんなことを思っているうちに、開演を告げる鐘が静かに鳴り響いた。客席の照明がゆっくりと落ちていく。誰一人として注意されるわけではないのに、全員が呼吸を合わせるように舞台へ意識を向ける。その一体感に圧倒され、私は膝の上でそっと手を握った。やがて、静寂を裂くように一人の演者がゆっくりと舞台へ姿を現す。


狂言『柿山伏』。私にとって、生まれて初めて触れる日本の伝統芸能だった。


舞台には一本の木すら存在しない。それなのに、山伏が両腕を高く伸ばし、枝へ手を掛ける仕草を見せた瞬間、不思議なことに私の目には、大きく枝葉を広げた柿の木がはっきりと見えた。


(ど、どうして……!?)


演者が一歩踏み出し、視線を動かし、指先を揺らすだけで、講堂全体が山の中へ姿を変えていく。私は瞬きすることさえ忘れていた。


山伏が柿を盗み食いし、畑主に見つかって狼狽える。言い逃れを繰り返す姿に、客席から小さな笑いが零れた。私もつられて吹き出してしまう。隣を見ると、紬葵ちゃんも口元へ拳を添え、小さく肩を震わせていた。声を立てるほどではない。それだけの反応にも、心から楽しんでいることが、その横顔だけで伝わってくる。彼女は舞台から一瞬たりとも目を逸らさない。


そんな横顔を見ているうちに、私はいつの間にか舞台だけでなく、紬葵ちゃんにも目を奪われていた。


(本当に好きなんだ)


普段は「うめめー!」と明るく笑っている紬葵ちゃん。教室では誰より賑やかで、流行の話題にも詳しいギャル。でも今、私の隣にいる彼女は違う。舞台を愛し、日本の伝統を愛し、その世界へ心から敬意を払っている。そんな姿は、驚くほど美しかった。


(普段は人に見せない顔を、少しだけ覗かせてもらえた気がした。今日、つむつむのことを少しだけ知れた気がする)


やがて、山伏が最後まで見事に言い逃れに失敗し、舞台は大きな笑いに包まれる。客席から湧き上がる拍手。私も手のひらが少し痛くなるくらい夢中で拍手を送っていた。


「……いやぁ、すごかった」


ぽつりと漏れた独り言。


「でしょ?」


隣から返ってきた声は、いつもの何倍も柔らかかった。


「狂言って難しいものだと思ってた。でも全然違った。なんか……人間くさくて。必死に言い訳して、格好悪くて、でもちょっと憎めなくて。つい応援したくなっちゃった」


私がそう言うと、紬葵ちゃんは嬉しそうに笑った。


「それ!それが狂言なんだよ。能って神様とか武士とか、もっと荘厳な世界を描くことが多いじゃん?でも狂言は違う。普通の人。欲張ったり、失敗したり、見栄張ったり、言い訳したり、そんな人間の可笑しさを笑うものなんだ」


私は何度も頷く。


「だからさ」


紬葵ちゃんは舞台を見つめたまま言った。


「完璧じゃない人ほど楽しめるんだよ」


その一言が、胸に深く残った。完璧じゃない人。私は今日一日だけでも何度、自分を場違いだと思っただろう。勉強も、作法も、教養も、何もかも足りない。そんな私でも──笑っていい。楽しんでいい。そう言われた気がした。


「ありがとう。つむつむが隣にいてくれたから……ちゃんと楽しめた」


その瞬間だった。紬葵ちゃんの表情が、ぴたりと止まる。耳が、少し赤い。


「い、いや、その……そんなストレートにお礼言われると……ちょっと照れるじゃん!!」


慌てて前を向く彼女を見て、私は何か変なことを言っただろうか、と戸惑う。紬葵ちゃんはそんな私を見て吹き出した。


「あはは!もーう、うめめってば天然だね!」


講堂を出る頃にはもう、最初に感じていた緊張はどこかへ消えていた。


「この学校に来てよかった」


編入してから初めて、そう思えた。


◇


講堂を出たあとも、私の耳にはまだ狂言の余韻が残っていた。


「うめめ、まだ余韻に浸ってる?」


隣を歩く紬葵ちゃんが、楽しそうに覗き込んでくる。


「うん。舞台には何もなかったのに、本当に柿の木があるみたいで」


「分かる!あれ、役者さんの『型』なんだよ。動き一つで景色を見せるの」


彼女は足を止めず、枝を掴む真似をしてみせる。


「こうやって手を伸ばすだけで、『高い木の実を取ろうとしてる』って分かるでしょ?それが積み重なると、何もない舞台に世界ができるの」


「つむつむ、すっごく詳しいんだね!!」


すると紬葵ちゃんは、少しだけ照れたように笑う。


「小さい頃から見てたから。うち、染物屋って言ったじゃん?昔から、お祭りとか伝統芸能とか、そういうのに関わることが多くて……。気付いたら好きになってた」


その横顔は、講堂で舞台を見つめていた時と同じ表情だった。


「でもね。今の格好だと、あんまり信じてもらえないんだよね。『ギャルなのに和文化が好きなの!?』『見た目に似合わない』って、結構言われる」


紬葵ちゃんは明るく笑ってみせる。その笑顔の奥には、ほんの少しだけ寂しさが滲んでいた。染物屋の娘として和の匂いの中で育ち、教室では誰よりも今どきの装いを選び取っている彼女。その二つの顔の狭間で、これまでどれだけの言葉を呑み込んできたのだろう。


「だから、あんまり話さないようにしてた。好きなのに、変だよね」


その言葉を聞いた瞬間、私は首を横に振っていた。


「変じゃない。だって、今日のつむつむ、すごく楽しそうだった!舞台を見てる時、本当に嬉しそうだったよ!好きなものを好きって言えるの、素敵だと思う」


「うめめ……」


「それに!ギャルで和文化好きって、かっこいいじゃん!!」


一瞬。紬葵ちゃんの動きが止まった。


「もーう、ほんと……困ったな。たまに、さらっと爆弾投げるよね」


「えぇ!?」


「自覚ないでしょ」


「な、ないです」


彼女は大きくため息をつく。でも、その口元は笑っていた。


「……うめめ、ありがと」


いつもの笑顔に戻った横顔を見ながらも、さっき赤くなった耳の記憶だけは、なぜか胸の奥に小さく残っていた。


◇


その日の放課後。私は図書室の大きな机に向かい、芸術鑑賞レポートと格闘していた。


『狂言『柿山伏』を鑑賞して感じたことを、自身の言葉で記しなさい』


……自身の言葉で、が難しい。


「うーん……」


すると、隣の席に誰かが腰を下ろす気配がした。振り向くと、紬葵ちゃんだった。


「お、うめめもレポート?」


「つむつむも?」


彼女は小さく笑う。


「でも、ここ私語禁止なんだよね」


確かに。周囲の生徒たちは、皆一様に俯き、静かにペンを走らせている。


その時、紬葵ちゃんがノートの端へ何かを書き込み、こちらへ差し出した。


『レポート進んでる?』


私はつい吹き出しそうになりつつ、ペンを受け取る。


『全然。感想はあるのに文章にならない』


『分かる。アタシも』


静かな図書室で、私たちは筆談を始める。声を出して話すより、かえって相手の言葉をじっくり読んでいる気がする。紙の上を滑るペンの音だけが、二人だけの秘密のように小さく響いていた。


『うめめは何が一番印象に残った?』


『山伏が必死に言い訳してるところ』


『あは、まさかのそこ!?』


『だって人間っぽかったから』


彼女は一瞬、驚いたように目を見開き、それからゆっくりとペンを走らせる。


『人間っぽい、か。……その感想、好き』


その文字を見た瞬間、なぜか目の奥がじんとした。


『アタシ、伝統芸能ってすごいものだと思われるのは嬉しいんだけど、遠いものだと思われるのは嫌なんだ。もっと気軽に笑ってほしい』


今日、講堂で彼女が見せていた表情を思い出す。本当に好きだからこそ、誰かにも楽しんでほしい。そんな気持ちだったんだ。


私はペンを握り直す。


『今日、つむつむと見られてよかった』


書いた瞬間、自分でも少し恥ずかしくなった。だけど、消したくはなかった。


紬葵ちゃんはその一文を見つめたまま、しばらく動かなかった。やがて、ゆっくりとペンを持つ。


『……うめめのばーか、反則!そういう真っ直ぐなの、ずるい』


そう書いたあと、そっとノートを閉じた。そして、机の下で。ほんの一瞬だけ。彼女の指先が、私の指先へ触れた。


驚いて顔を上げる。紬葵ちゃんは前を向いたまま、口元だけをそっとほころばせていた。声はない。触れた指先の温度だけが、静かな図書室で伝わってきた。


(……今、つむつむ……。触った……よね!?)


きっと偶然。そう思おうとしても、胸の鼓動は落ち着いてくれない。私のノートに、もう一度ペン先がそっと触れる。


『さっきね、うめめが「かっこいい」って言ってくれたじゃん?あれ、嬉しかったんだ』


『本当に?』


そう書き返すと、彼女はペン先を止め、少しだけ眉を下げて頬を緩めた。


『アタシ、小さい頃から家の人に言われてたんだ。もっとおしとやかに。もっと和服を着なさい。もっと家に相応しく。もっと』


短い言葉が並ぶたびに、彼女の筆圧がわずかに強くなる。文字の輪郭が濃くなっていくのを、私はただ黙って見ていた。


『もちろん家族は嫌いじゃない。実家も大好き。伝統も好き。染物も好き。茶道も。狂言も。全部好き』


そこまで書いてから、彼女は少しだけ目を伏せた。


『でも、ギャルのアタシも……ちゃんとアタシなんだ』


私はその文字から目を離せなかった。教室で見せる明るい笑顔。流行のコスメ。少し崩した制服。全部、彼女自身。そして今日見た、舞台を愛する横顔もまた彼女自身だった。


私は迷わずペンを取る。


『じゃあ、全部つむつむじゃん!ギャルなのも。伝統が好きなのも。茶道部なのも。狂言が好きなのも。全部つむつむ!一つだけ選ぶ必要なんてないと思う』


彼女は何も書かない。ただ、じっとその文字を見つめていた。夕日が斜めに差し込み、机の上のノートを淡い橙色に染めている。


私は少しだけ照れつつも、最後に書き足す。


『私は今のつむつむが好き』


書いた瞬間、自分で恥ずかしくなった。


(あ!!す、好きって!違う!そういう意味じゃなくて!)


慌てて消そうとすると、紬葵ちゃんがそっと私の手首を掴んだ。声は出せない。彼女は首を横に振る。消さないで。そう伝えるように。それからゆっくりペンを持ち、


『ありがと』


たった四文字。その文字だけが、少し滲んでいた。


(……あれ?もしかして……泣いてる?)


顔を上げる。紬葵ちゃんは笑っていた。いつものギャルらしい笑顔じゃない。肩の力が抜けた年相応の優しい笑顔だった。その笑顔があまりにも綺麗で。私は見惚れてしまった。


その時だった。閉館五分前を告げるチャイムが図書室に響いた。二人同時に顔を上げる。


「あ……」


声が揃って漏れてしまい、私たちは顔を見合わせる。そして、同時に吹き出した。司書の先生が「静かにお願いしますね」と優しく微笑む。私たちは慌てて頭を下げた。


◇


図書室を出る頃には、校舎はすっかり夕焼け色に染まっていた。渡り廊下の窓から差し込む茜色の光が、二人分の影を長く伸ばしている。


「今日はありがと」


私が言うと、紬葵ちゃんは鞄を抱え直して笑う。


「こっちこそ。レポートも終わったし」


少し沈黙が流れる。不思議と気まずくはなかった。その沈黙さえ心地いい。歩調まで、いつの間にか自然と揃っていた。昇降口へ向かう途中。紬葵ちゃんがぽつりと呟く。


「今日さ、狂言見て思ったんだ。人って見た目だけじゃ分かんないなって」


「それ、私も思った」


「でしょ?」


「つむつむのこと、もっと知りたくなった」


紬葵ちゃんはぴたりと立ち止まり、驚いたように私を見た。夕日を受けた彼女の頬が、ほんのり赤く染まっている。


「……うめめ。そういうとこ、無自覚で言うの反則だってば。まったくもう」


耳元を薄らと赤くした彼女は私より少し前を歩き始める。


「帰ろ!」


「あ、待って!」


私は慌てて追いかける。秋風が二人の間を吹き抜け、色づいたイチョウの葉が幾枚も宙を舞った。窓の外に広がる校庭では、下校していく生徒たちの話し声がやわらかく響いていた。


「じゃあ、また明日ね!」


昇降口で靴を履き替えた紬葵ちゃんが、いつもの明るい笑顔を向けて手を振る。


「うん。また明日!」


私も大きく手を振り返す。紬葵ちゃんは軽く踵を返すと、オレンジ色の長い髪を揺らして、校門へ向かって歩き出した。その背中はどこか軽やかで、今朝よりも少しだけ胸を張っているように見えた。


(……よかった)


今日、彼女が話してくれたこと。伝統が好きなこと。実家を誇りに思っていること。それでも「今の自分」も否定したくなかったこと。私はただ、その全部が素敵だと思っただけだった。だけど、その当たり前が、誰かにとっては救いになることもある。そんなことを少しだけ知れた気がした。


私は満ち足りた気持ちのまま歩き出そうとして──ふと、誰かの視線を感じて足を止めた。


ゆっくり振り返る。渡り廊下の先。夕日を背にした四つの影が、静かに立っていた。ハッとして息を呑む。さら会長、海寧先輩、さゆり先輩、それから紫苑先輩だ。四人とも、こちらを見ている。声までは届かない。ただ、時折こちらへ向けられる視線だけが、確かに私を捉えていた。


初日に感じた威圧とは、少し違う気がした。値踏みされているというより、今は何かを興味深く見守られているような──そんな視線だった。


(……何を話してるんだろう)


少しだけ落ち着かない気持ちで、私は視線を伏せる。


◇


渡り廊下の先で、四人はまだそこに立っていた。


「随分と、馴染むのが早い子ね」


さらの声音は穏やかだった。手元の駒の成長を見守るような、余裕に満ちた響きがある。


「最初は怯えた子鹿かと思ったけれど、もうクラスの人気者なのかな」


紫苑は楽しげに笑う。その柔らかな笑みとは裏腹に、瞳だけは杏奈の一挙一動を丁寧に採点しているかのようだった。


「人の懐へ入るのがお上手なのでしょうね」


さゆりも柔らかく微笑んだ。


三人がそれぞれ杏奈を評する中、海寧だけは何も言わず、ただ杏奈一人を見つめていた。その眼差しは相変わらず鋭い。しかし、初日に向けていた警戒とは、少しだけ質が違っていた。


「海寧」


さらが隣を見る。


「あなたはどう思う?」


少しの沈黙の後、海寧は口を開いた。


「……変わらんな」


「え?」


紫苑が不思議そうに首を傾げる。


「編入初日、あいつは顎を持ち上げられても、怯えながら私の目から逃げようとはしなかった。恨みも媚びもせず、ただ真っ直ぐに見返してきた。……悪くない眼だと、あの時思った。今日、入場の折にも由良と話す姿を見たが……あの目は、あの時のままだ。無防備すぎる。他人を疑うことを知らない者の目だ」


海寧は淡々と言う。その視線は、まだ杏奈から逸れない。


「私はまだ、梅沢杏奈という人物を評価してはいない。……だが、見誤っていた点は訂正しよう」


さらが興味深そうに首を傾げた。


「見誤っていた点、……ねぇ?」


海寧は夕日に照らされる杏奈を見つめる。


「あいつと言葉を交わした者は、誰もが少しだけ、肩の力を抜いたような顔をする。……何をどうしているのかは知らんが」


一拍置く。


「無防備さは、弱さとは限らないのかもしれない」


それを聞いたさらが小さく笑う。


「あなたらしい評価ね」


海寧は答えない。ただ静かに続けた。


「……だが、それだけで渡っていける学院でもない。この学院には、善意だけでは越えられない壁がある」


その言葉には、まるで海寧自身も一度その壁にぶつかったことがあるかのような、重い実感が滲んでいた。


視線に気づいたのか、杏奈が不意に姿勢を正した。海寧は小さく鼻を鳴らした。


「……少しは、学んだようだな」


「海寧」


「なんだ」


「あなた」


「?」


「思ったより、あの子を気に入っているのね」


「まさか海寧が?」


紫苑が吹き出し、さゆりも上品に口元を押さえて笑う。海寧は即座に首を振った。


「あり得ん。私は職務を遂行しているだけだ」


その語気には、わずかな苛立ちすら滲んでいた。感情を悟られること自体が、彼女の誇りを揺るがす小さな敗北にほかならなかった。


「そう」


さらは面白そうに笑った。その笑みは無邪気でいて、どこか意味深だった。


「なら、そのまま見届けなさい。梅沢杏奈という一生徒が、この学院で何を得て、どう変わっていくのか」


生まれてこの方、仙石の娘として、所作の一つ、言葉の一つまで常に律してきた。それを当然のことだと、疑ったことすらない。放たれた矢のように、ただ真っ直ぐでいることなど、一度も許されなかった。


先ほどの巡回中、杏奈と言葉を交わした数分だけは、いつもなら意識せずにはいられない自分の姿勢や声音のことを、不思議なくらい忘れていた。ただ目の前の杏奈と言葉を交わすことだけに意識が向いていた。


それが何を意味するのか、海寧はまだ気付いていない。


海寧は無意識に、自分の指先へ視線を落とした。編入初日、この手で梅沢杏奈の顎を持ち上げた。あの時の瞳が、なぜこうも忘れられないのか。


答えは出なかった。海寧は小さく息を吐くと、その感情に名前を付けることなく踵を返した。残る三人も、それに続いて歩き出す。


廊下には、規則正しい靴音だけが静かに響いていた。


◇


それでも、すぐに紬葵ちゃんの後ろ姿を思い出して、自然と頬が緩んだ。今日知れた、彼女の新しい一面。私は夕暮れの校門を、紬葵ちゃんの笑顔を思い出しながら歩き出した。


夕暮れの道を歩きながら、私はふと今日観た狂言のことを思い返していた。


舞台には、本当は何もなかった。それなのに、山伏が枝へ手を伸ばした瞬間、確かにそこに柿の木が見えた。何もない場所に、人はちゃんと何かを「ある」と信じさせることができる。


それは、いつもキャンバスに向き合っているパパの背中と、どこか重なる気がした。


「今度、感想を聞いてみようかな」


朝、パパは「帰ってきたら感想聞かせてね!」と言っていた。今なら、ちゃんと自分の言葉で話せる気がする。


紬葵ちゃんのことも、ずっと考えていた。流行のメイクも、おしゃれも大好きなギャル。それと同時に、茶道も、狂言も、日本の伝統も、心から愛している紬葵ちゃん。どちらも、紛れもなく紬葵ちゃんだった。今度また、一緒に狂言の話がしたい。


編入してまだ一週間も経っていない。それなのにこの学園には、少しずつまた明日と笑い合える人が増えてきた。そう思うと、不思議なくらい足取りが軽くなった。


私は小さく拳を握る。


「……よーし!」


まだ授業にはついていけない。お嬢様言葉もぎこちない。失敗ばかりだ。それでも、一歩ずつなら、きっと前へ進める。


この学園で、私は私らしく生きていきたい。


そう、改めて思った。


◇


自宅の玄関を開けると、香ばしい匂いが漂ってきた。


「杏奈、おかえり!」


キッチンから顔を出したパパは、なぜかフランス料理をイメージした夕食を用意していた。


「あなた、芸術鑑賞でどうしてフランス料理なのよ」


ママが呆れたようにため息をつく。


「芸術は国境を越えるから!」


パパは胸を張って答える。いつも通りの、温かなやり取り。今日一日、色んなことがあった。でも、この場所に帰ってくると、それだけでちゃんとほっとする。


(今日も、大変だったけど……少しだけ、この学院が好きになれた気がする)


食卓に着きながら、私はそっとそう思った。


その時の私は、まだ知らなかった。


私が少しずつ馴染めてきたと安心しているその裏で。生徒会副会長・仙石海寧(せんごくあまね)だけは──今もなお、私を誰よりも注意深く見つめ続けていることを。


そして、その視線が……私自身の運命を変えていくことを。

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