第1話 梅沢杏奈、天ノ川女学院に降り立つ
すべての始まりは、数ヶ月前のとある病院の一室だった。
今では私の父となった梅沢圭は、当時体調を崩して入院しており、担当看護師だった母・杏美に一目で心を奪われ、点滴の管をつけたまま「僕と、結婚してください」とプロポーズしたのだという。
先祖代々の土地と、自身の芸術作品だけで十分すぎる資産を築いていながら、権力にも肩書きにも興味を示さない。
絵を描くことだけを心から愛する、少し浮世離れした資産家兼アーティスト──それが圭パパという人だった。
何度断られても決してしつこく迫ることはなく、言葉を交わす中で少しずつ、ママは彼の飾らない人柄を知っていったらしい。
我が家の家訓は、筋を通すことと有言実行。
嘘はつかない。約束は守る。人に迷惑をかけたら、自分の足で謝りに行く。
ほとんどママ個人の教育方針そのものだったそれを胸に、私は育てられてきた。パパの穏やかな人柄にもすぐに懐いた。
ある日の夕食後、パパは改まった様子で切り出した。
「せっかくだから、僕の母校の系列校である天ノ川女学院に編入してみない?」
お嬢様学校。
それも、この辺りでは知らぬ者のいない超名門。私なんかとは、縁のない世界のはずだった。
「杏奈がお嬢様学校で浮かないか、勉強についていけるか……その方が心配よ」
眉尻を下げるママに、パパは迷いなく答えた。
「大丈夫さ。この子は、人の輪に入るのが上手だから」
(……いや、それは買い被りです!!)
そう言い返そうとした言葉は、喉の奥で立ち消えた。
ママは少しの間考え込んでいたが、やがて小さく笑った。
「杏奈、挑戦してみる?」
その一言で、私の未来は決まった。
◇
──そして迎えた、十一月のある朝。
「今日は僕が特製オムライスを作るよ〜!」
食卓へ運ばれてきたオムライスの表面には、鮮やかなケチャップで大きく『合格(編入おめでとう)』の文字。
専門店でも見かけないほど繊細な筆致に、私は目を丸くした。
「……パパ、これ朝ご飯だよね?」
「もちろん!芸術は一日の始まりからだからね〜」
呆れたような声を漏らしながらも、ママの手はそっと私の制服の襟元へ伸びる。
「ほら、曲がってる。……勉強、遅れないようにちゃんと予習復習するのよ。お父さんの資産に甘えたら承知しないんだから」
「はーい、杏美ちゃん」
「返事は一回」
「……はーい」
素直に肩をすくめるパパの姿がおかしくて、私はこらえきれずに吹き出してしまった。
結婚を機に看護師を辞めたママだが、暮らしぶりは以前とほとんど変わらない。
無駄遣いはせず、家事もきっちりこなす。
パパもそんなママを心から尊敬していて、互いを思いやる二人の姿を見ていると、こちらまで穏やかな気持ちになった。
食器を片付け、鞄を持って玄関へ向かう。
鏡の前で一度足を止め、大きく深呼吸をした。
「……ご、ごきげんよう」
声が思いのほか高く裏返る。
「ごきげんよう」
今度は逆に妙に堅苦しい響きになった。
「ごきげん……よう?」
「なんで疑問形なのよ」
背後から聞こえたママの声に肩がびくりと跳ねる。
「そんなに気負わなくていいの。普通に挨拶すればいいじゃない」
「でも、お嬢様学校だよ!?」
「お嬢様だって、人間よ」
あまりにも真っ当な返答に、私は何も言い返せなくなってしまう。
「杏奈ちゃんなら大丈夫」
パパが柔らかく目を細めて微笑んだ。
「無理に変わる必要なんてないよ。杏奈ちゃんの良いところをそのまま見てもらえばいい」
その言葉は、不思議なくらいすとんと胸の中に落ちてきた。
玄関の扉を開ける。
冷たい十一月の風が頬を撫で、身の引き締まるような朝の空気が肺いっぱいに満ちた。
「行ってきまーす!!」
「「行ってらっしゃい」」
背中を押すような二人の声を受けて、私は新しい世界へ向かって歩き出した。
前の学校では、運動神経だけは人一倍だった。
走り高跳びも、サッカーも、バスケットボールも。人数が足りないと聞けば、頼まれるままに助っ人として飛び込んでいった。
勉強は飛び抜けてできるわけじゃない。料理だって、ママにはまだまだ敵わない。
だけど、人の役に立つためならいつだって全力で動いてきた。
それが私、梅沢杏奈という人間であり、ママから教わった筋を通すということだった。
不安がないわけじゃない。
でも、きっと大丈夫。どんな環境だって、自分らしく頑張れば、笑って過ごせるはずだ。
──このときの私は、そう本気で信じていた。
◇
自宅からの道すがら、黄金色に色づいたイチョウ並木を抜けること数分。
見上げるほど重厚な鉄門が、私の到着を試すように静かに佇んでいた。
──天ノ川女学院。
黒い門柱に刻まれたその校名を見上げた瞬間、胸の鼓動が一段と速さを増す。
(……ほ、本当に来ちゃった)
十一月の澄み切った空気の中、学院へ向かう生徒たちは誰もが背筋を美しく伸ばし、気品に満ちた足取りで歩いている。
冬用のウールコートをさらりと着こなし、マフラーの巻き方ひとつまでもが、絵画の一場面のように様になっていた。
「ごきげんよう、お姉様」
「ごきげんよう。本日は一段と冷え込みますわね」
鈴を転がすような上品な挨拶が、冷たい風の中に溶けて消えていく。
(き、きた!!本当に『ごきげんよう』って言ってる!!)
よし、私も自然に──
「ご、ごき……」
……ぐあ〜〜〜〜!!!!やっぱり無理〜〜〜ッ!!
心の中だけで盛大に叫び、私は何事もなかったような顔で口を閉じた。
無理に背伸びをしたって、きっとすぐにボロが出る。それならせめて、堂々としていよう。
そう自分に言い聞かせ、一歩を踏み出す。
──が、数歩も歩かないうちに、自分の歩幅が周囲よりずっと大きいことに気付いた。
慌てて狭めれば、今度は歩くタイミングが合わず、動きがぎこちなくなる。
周囲のお嬢様たちは誰一人として慌てる様子もなく、自然体のまま優雅に歩を進めている。
私だけが、体育祭の行進練習をやり直しているかのようだった。
職員室で編入手続きを終えると、担任の先生に案内されて一年二組へ向かう。
磨き上げられた木の廊下には、窓から差し込む柔らかな陽射しが等間隔に落ち、静かに響く革靴の音だけが空間を満たしていた。
「それでは梅沢さん、どうぞ」
先生に促され、深呼吸を一つ。
教室の扉に手をかけ、開いた。
一瞬で、教室中の視線が私へと集まる。
(うわあああ……!!ど、どどどどうしよう!?)
「皆さん、初めまして!」
思ったより大きな声が出た。
しまった、と後悔した頃にはもう遅い。
「この度、編入することになりました、梅沢杏奈です!勉強は平均的ですし、料理も少し苦手ですが、体を動かすことには自信があります!何かお手伝いできることがあれば、遠慮なく声をかけてください!よろしくお願いします!」
教室が静まり返る。
……静かすぎる。
(あ、コレ……やっちゃった……かも)
じわりと、こめかみに冷や汗が滲む。
その沈黙を破ったのは、窓際から聞こえた弾けるような笑い声だった。
「あははっ!面白い!」
教室中の視線が、その声の主へ向く。
「元気でいいじゃん!アタシ、倉田茉子!よろしくね、梅沢ちゃん!」
小柄で愛らしい顔立ち。
くるくると変わる表情は、まるで太陽みたいだった。
その一言だけで、張り詰めていた教室の空気がふっと緩む。
「ちょっと、茉子。初日からそんな笑ったら、梅沢さんが困るでしょう」
赤髪のショートヘアがよく似合う女の子が、小さくため息をつく。
「梅沢さん。あなたの席は窓際。私は河嶋藍。クラス委員長。分からないことがあったら遠慮なく聞いて」
ぶっきらぼうな口調なのに、不思議と冷たさは感じない。
「ありがとう!」
笑顔で返事をすると、また少し声が大きかったらしい。
(お願いだから落ち着け、私!!)
一人で勝手に恥ずかしくなりながら席へ向かう。
その途中、隣の列に座る一人の女の子が目に入った。
小柄で整った顔立ち。周囲の賑やかさなど存在しないかのように、一冊の専門書へ静かに視線を落としている。
私が近くを通っても、顔を上げることはない。
(……綺麗な子)
「美澄瑛良」
ぼそりと、藍ちゃんが教えてくれる。
「人付き合いはあまり得意じゃないけど、悪い子じゃないから」
瑛良ちゃんは最後まで本から目を離さなかった。
その横顔だけが、妙に印象に残った。
席に着いて鞄の中を整理していると、斜め前の席からふわりと甘い花の香りが漂ってきた。
「ねえねえ!」
勢いよく身を乗り出してきたのは、今どきの雑誌から飛び出してきたような華やかな女の子だった。
明るく染めた髪に、洗練された制服の着こなし。ぱっと見は誰がどう見てもギャルなのに、不思議と品がある。
「アタシ、由良紬葵!アタシのことは『つむつむ』って呼んでね!」
「あ、うん!」
「それと、梅沢ちゃんじゃ長いから……うめめ!」
「うめめ?」
「うん、今日からうめめ!」
あまりに自然に言われてしまい、笑ってしまう。
「じゃあ……つむつむ?」
「そうそう!」
嬉しそうに頷く姿は、大型犬みたいに無邪気だった。
「さっきの自己紹介、めっちゃ可愛かったよ!『何かお手伝いできることがあれば!』って、すっごく一生懸命で。普通なら緊張してもっと小さくなっちゃうのに、あそこまで元気よく言える子、珍しい」
からりとした笑顔につられ、私も自然と頬が緩む。
見た目だけで判断してはいけないとは思っていたけれど、紬葵ちゃんは想像以上に話しやすい子だった。
「由良さん、梅沢さん、まだ荷物も片付いてないでしょ」
藍ちゃんが少し呆れたような声を上げる。
「あ、ごめんごめん!続きは休み時間ね、うめめ!」
紬葵ちゃんはぺろっと舌を出して笑うと、嵐みたいに前を向き直った。
その背中を見つめ、小さく息を吐く。
(みんな、思ったより優しいかも)
◇
ところが、その安堵は一時間目が始まると同時に吹き飛んだ。
「では、この問題を解いてください」
先生が黒板へ流れるように数式を書いていく。
私はノートを開き、慌ててそれを書き写す。
板書を追うだけで精一杯。考える余裕など、どこにもない。
周りを見れば、誰もが姿勢を崩さず、さらさらとペンを走らせている。
私はというと、シャーペンを机に置く音にまで神経をすり減らしてしまう。
(授業受けるだけで体力使うんですが!?)
休み時間になる頃には、早くも肩がこわばり始めていた。
「梅沢さん、授業、大丈夫?」
藍ちゃんが私の机へ歩み寄ってくる。
「えっと……なんとか」
「なんとか、って顔じゃないけど。この学校、編入生には少し進度が厳しいから」
藍ちゃんは、自分のノートをそっと差し出してくれる。
「必要なら写してもいいよ」
「えっ、いいの!?」
「アタシのもあるよ!藍ちんのは字が綺麗すぎて逆に読みにくいから、こっちもおすすめ!」
「ちょっと」
「冗談冗談!」
教室に、小さな笑いが広がった。
私は慌てて頭を下げる。
「ありがとう!本当に助かる!」
「困ったときはお互い様!一人で抱え込まないこと!」
茉子ちゃんは親指を立てる。
その一言だけで、強張っていた肩から力が抜けていくのを感じた。
(……よかった〜!!まだ一日目なのに、もう助けてくれる人がいる。私は、この学校でやっていけるかもしれない)
◇
昼休みの鐘が鳴ると、それまで静まり返っていた教室が一気に華やぎ始めた。
「梅沢さん、お昼はご一緒しませんこと?」
「今日は中庭のテラスが空いているそうですわ」
あちこちで交わされる上品な会話に、私はつい耳を傾けてしまう。
鞄からお弁当を取り出す。
現れたのは、見慣れたお弁当箱。中にはママ特製の唐揚げと玉子焼き、それからほうれん草のお浸し。どれも大好物だ。
だけど──。
ちらり、と周囲を見回した私は、動きを止めた。
漆塗りの三段重。季節の草花が描かれた上品なお弁当箱。一品一品が料亭の懐石料理のように美しく盛り付けられている。
(……いやいやいや、比較対象がおかしいって!)
別に私のお弁当が恥ずかしいわけじゃない。
ママの料理は世界一美味しいと思っている。
でも、この空間でごく普通のお弁当箱を開ける勇気は、まだ持ち合わせていなかった。
机の陰へそっと隠し、蓋を開けようとした、そのときだった。
「あっ!うめめのお弁当だ!」
紬葵ちゃんが隣へ腰掛ける。
「美味しそう!卵焼き、一個交換しよ!」
待ちきれない様子で、自分のお弁当箱を開いた。
淡い木目の二段重には、彩り豊かな京料理が隙間なく並んでいる。
慣れた箸使いで西京焼きを一切れ摘まみ、私のお弁当へそっと乗せてくれた。
「わっ!」
「交換交換!」
「でも……」
「遠慮しない」
にこっと笑みを浮かべる。
「アタシね、実家が染物屋なの。だからかな。こういう丁寧なお弁当、大好きなんだ」
その一言に胸の奥がふっと軽くなった。
私が隠そうとしていたお弁当を、紬葵ちゃんは宝物みたいに見てくれた。
「美味しい!」
目を輝かせ、夢中で頬張る姿に笑みがこぼれる。
派手な見た目とは裏腹に、箸の持ち方も、食事の所作も驚くほど美しい。育ちの良さが、自然と滲み出ていた。
(見た目だけで決めつけちゃ駄目なんだな)
そんな当たり前のことを、私は今日だけで何度も教えられている。
◇
午後の授業が終わる頃には、頭の中はもう限界だった。
ノートはどうにか取れた。先生の話も必死に聞いた。
でも、理解が追いついているかと聞かれれば、自信を持って頷けない。
「大丈夫?顔色、朝より悪くない?」
帰り支度を整える私に、藍ちゃんが声を掛けてくれる。
「だ、大丈夫!」
「その『大丈夫』、全然大丈夫じゃない人の言い方」
私が苦笑を返すと、藍ちゃんも少しだけ口元を緩めた。
「無理はしないこと!分からないところがあったら聞きなさい」
その言葉に頷いたとき、茉子ちゃんが勢いよく立ち上がる。
「じゃあアタシ部活行ってくる!」
「茉子、廊下は走らない」
「はーい!」
返事だけは立派だった。
教室を飛び出していく背中を見送って、藍ちゃんは深いため息をつく。
呆れたような言葉とは裏腹に、表情はどこか楽しそうだった。
つられて、私の肩からも力が抜けた。
(少しずつだけど、このクラスが好きになれそう)
すると藍ちゃんが、机の上に積まれた数冊のノートへ視線を向けた。
「悪いんだけど。職員室へ提出するノート、お願いできる?」
「もちろん!」
反射的に返事をすると藍ちゃんは少し驚いたように目を瞬かせ、柔らかく笑った。
「助かるわ」
両腕いっぱいにノートを抱え、私は一人教室を後にする。
◇
放課後の校舎は、昼間とは違う静けさに包まれていた。
窓から差し込む西日が、格式高いステンドグラスを透かして寄木細工の床へ赤や青の光を落としていた。
(……綺麗)
今日一日だけで、何度綺麗と思っただろう。
この学園には、私の知らないものがあまりにも多い。
その一つ一つに驚いて、戸惑って、それでも少しずつ好きになり始めていた。
◇
ノートを抱えて職員室へ向かっていると、前方の空気が不意に変わった。
歩いていた生徒たちが、示し合わせたように廊下の左右へ寄っていく。
誰かが声を張り上げたわけでもないのに、その場にいた全員が、自然と道を譲っていた。
「新しい生徒会の方々の巡回ですわ」
「今日は編入生もいらっしゃいましたものね」
囁くような声が耳へ届く。
(生徒会……)
遠くから規則正しい靴音が近づいてくる。
やがて、夕陽を背負うように四人の女子生徒が姿を現した。
先頭を歩くのは、陽光を溶かしたような淡いミルクティー色の髪をゆるやかに揺らす、美しい先輩だった。
自信に満ちた微笑みを浮かべ、その一歩一歩が舞台の中央を歩く主役のように様になっている。
(あの人が……)
「さら会長……」
周囲から漏れ聞こえる囁きが答えを教えてくれた。
その傍らには、三人の生徒が歩いている。
その中の一人が、私の視線を引いた。
艶のある黒髪を高い位置でひとつに束ね、凛とした佇まいの先輩。
一歩歩くたびに姿勢がまったく乱れず、その所作には一切の無駄がない。
私には、自分より劣るものなど眼中にないようにすら見えた。
思わず目で追ってしまう。
その人は、私の前で足を止める。
会長も歩みを止める。
続いて残る二人も。
廊下に、張り詰めた静寂が落ちた。
黒髪の先輩が一歩前へ出て、静かに一礼する。
「失礼。突然お声掛けした非礼は、お詫びする」
ゆっくりと顔を上げる。
その双眸が、私を真っ直ぐ射抜いた。
「私は生徒会副会長、仙石海寧。お前が、本日付で編入した梅沢杏奈だな」
「は、はい」
返事をしただけなのに、心臓が妙にうるさい。
「此度の編入は、特例と聞いている。私は現三年の先輩から生徒会副会長を引き継いだ者として、この学園の規律を守る責務がある」
一歩だけ距離が縮まる。
「だからこそ、お前自身を見極めたい」
その視線から逃れようと、私は目を伏せかけた。
「……逃げるな」
低く、それでいて静かな声。
気付けば、細く白い指先が私の顎へ触れていた。
そっと顎を持ち上げられ、海寧先輩と自然に視線が重なった。
ち、近い。
切れ長の瞳には、夕陽が淡く映り込んでいる。
吸い込まれそうになるほど澄んだ瞳だった。
「見極めてやる。お前が、この学園の理念を理解できる人物なのか。それとも──名門の矜持を理解し得ない者なのか」
その一言には、脅しではなく、確かめようとする強い意志が感じられた。
しばらく見つめ合った後、海寧先輩の口元が、僅かに緩む。
「……悪くない眼だ」
顎から指先が離れる。
解放されたはずなのに、鼓動だけは一向に落ち着いてくれなかった。
それを待っていたかのように、さら会長がゆったりと歩み出る。
夕陽を受けて揺れる柔らかな髪。整った顔立ちに漂う気品。
近付くだけで、周囲の空気が華やぐようだった。
「ようこそ、天ノ川女学院へ。梅沢杏奈さん……だったわね。私は、天ノ川さらよ」
「は、はい」
「緊張しているでしょう?」
「え、えっと……はい」
「そうでしょうね」
くすり、と小さく笑う。
その一瞬だけで周囲の空気まで柔らかくなった。
「でも安心なさい」
会長は制服の襟元へそっと手を伸ばした。
「少しだけ、曲がっているわ」
自分では気付かなかった。
さら会長は慣れた手つきで襟を整える。
「これで大丈夫」
「あ、ありがとう……ございます」
会長は満足そうに目元を和らげた。
「この学院には、この学院なりの時間があります。でも、焦らなくても大丈夫。あなたらしく、一歩ずつ歩いていけばいいの。これからどんな色へ染まっていくのか……楽しみにしているわ」
その言葉は優しい助言のようでいて、どこか従うのが当然と言わんばかりの響きを含んでいた。
それだけ告げて、会長は一歩下がる。
優雅に佇むその姿は、一枚の絵画のようだった。
堂々とした余裕に、思わず気圧されそうになる。
「あら、会長ったら、また新入生を甘やかして」
柔らかな声が横から聞こえた。
ふんわりと微笑んだ彼女が近付いてくる。
可愛らしい手の込んだ編み込みのヘアアレンジが印象的な、可憐な先輩だった。
「私は卯ノ花さゆりです。生徒会で書記を務めることになりました」
彼女は上品に会釈をする。
近くで見ると、本当に綺麗な人だった。
優しい表情を浮かべているのに、その瞳だけは不思議なくらい相手をよく見ている。
こちらの反応の一つひとつを、値踏みするかのような眼差しだった。
「編入初日でお疲れでしょう?無理は禁物ですよ」
労わるような声のまま、制服についた小さな糸くずを摘まんで払ってくれる。
本当に些細なことなのに、その仕草があまりにも自然だった。
「困ったことがあれば、生徒会室へいらしてください。その時は……お話、たくさん聞かせてくださいね」
微笑みは柔らかい。
それなのに、どこか底が見えない。
「さて、生徒会の自己紹介ばっかりで、ボクの番がないじゃないか」
背後から軽やかな声が聞こえる。
振り返ると、一人の先輩が楽しそうに笑っていた。
整った青みがかった紫色のショートヘア。すらりとした長身。舞台から抜け出してきた男役を思わせる、中性的な美しさ。
「ボクは阿良々木紫苑。生徒会のメンバーじゃないよ。演劇部部長なんだ。よろしくね、梅沢くん」
気障な仕草で胸へ手を当てる。
「君は面白そうだ」
紫苑先輩は口角を上げる。
値踏みするような、それでいてどこか愉快そうな視線が、頭のてっぺんから爪先までを一往復した。
「この学院には、普通じゃない人間が結構いる。だから遠慮なんてしなくていいんだよ。普通じゃなくても、生きていける場所だから」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「ありがとうございます」
頭を下げると、四人はそれぞれ視線を交わした。
誰も言葉を発さないのに、その一瞬の視線の交わし方だけで、四人が、この学院の誰もが一目置く存在なのだと、痛いほど伝わってくる。
「では、行きましょう」
会長が歩き始める。
海寧先輩も静かにその後へ続く。
すれ違いざま、一瞬だけ海寧先輩と視線が重なった。
先ほどより少しだけ柔らかく見えた気がした。もちろん、私の思い違いかもしれない。
それでも、その一瞬がなぜか胸の奥に残った。
私は一度だけ深呼吸をした。
頬に残る熱を振り払うように、小さく首を横へ振る。
海寧先輩の真っ直ぐな眼差し。
さら会長の優雅な微笑み。
さゆり先輩の柔らかな物腰。
紫苑先輩の掴みどころのない笑顔。
誰もが圧倒的だった。
育ちも、品格も、才能も、きっと私とは比べものにならない。
誰もが当たり前のように自分が特別であると信じて疑わない目をしていた。
「無敵」であり「傲慢」という言葉が、これ以上ないほど似合う人たちだった。
私は胸の前で、ぎゅっと拳を握る。
(落ち着け、……梅沢杏奈!!)
ここで気圧されて終わるような私じゃない。
私はこの学院で、自分らしく笑うために来たんだ。
だから──。
どれだけ無敵で。
どれだけ誇り高く。
どれだけ人を翻弄するような魅力を持った人たちに囲まれようとも。
私は、簡単には揺るがない。
私は、静かに覚悟を決めた。
『どれだけ無敵で傲慢女に迫られたって、私は絶対に翻弄されたりなんてしない!』
そう固く誓い、私は夕暮れに染まる長い廊下を、一歩ずつ前へと歩き始めた。




