007
目が醒めた。
――目が醒めた?
「――は?」
あの怪我で、あの状態で、胴体に穴が空いた状態から、僕が目醒めるなんてことがあるのだろうか。音が遠くなり、世界が遠くなったまま、僕はそのまま永眠してしまうものだとばかり思っていたのだけど、しかし目が醒めたということは……ということは、どういうことなのだろう?
死後の世界?
いやそれにしては、どうにも見慣れた町すぎる。田舎特有の舗装の甘い道路も、建ち並ぶ一軒家も、まんじりともせずに僕を見下ろす月も――なにもかもが現実的だ。いつもと変わらないゲーム画面の中だ。
そんな現実的な世界の中、僕の視界の先で、金色の髪が靡く。
尾を引くように揺れながら、角を曲がって視界から消えていった。
「葛霧?」
あの姿は……後ろ姿は、葛霧あにめのものだ。
昨夜出会った、あの西洋風の少女。
彼女はこんなところでなにをしているのだろう――こんなところ?
ここは……そうだ、昨夜に葛霧と出会った場所じゃないか。
昨夜?
ちなみに、今日の日付は四月二十日だ――いや、時刻はおそらく十二時を回っていたから、もう四月二十一日だろうか。
まあ、それはどちらでもよかった。
どちらでもなかったのだから。
結論から言って、僕がポケットからスマートフォンを取り出し、そしてスリープ画面で確認した日付は――。
四月十九日。
だった。
十九日、というのは、僕が水無月診療所を受診した日付であり、葛霧と初めて会った日付でもあり、そして、昨日の日付でもある。
「………」
ここで『ああ、なんださっきのは夢だったのか』となるのが、まあ、鉄板というかセオリーというかお約束なのだろうけど、再三言うように、僕にそういう現実逃避は許されない。
現実逃避も現実回避も、現実乖離さえもできず、ありのままの現実を受け止めざるを得ない。
「巻き戻った……って、ことなのか」
時間が、巻き戻った。
僕が死ぬことによって。
まあ、それも鉄板というかセオリーというかお約束なのかもしれないけど、しかしこうして自分の体で経験してみると……なんというか、実感がない。
ただでさえ生きていることに実感を感じない体質だったのに、輪をかけて。
無意識に腹に手を当てる。鳩尾に。
そこに空いていたはずの穴は、塞がっていた。
塞がっていたというか、だから、そもそも空いていないことになっていたというのが正しいのだろう。
服装も、明日着る予定の私服ではなく、水無月診療所帰りに着ていたときと同じ制服姿だった。
怪物。
人魚、だったか――言葉から得るイメージとして、あの醜悪な怪物をそう呼称することに抵抗感を覚えるのだが……まあ、怪物をいつまでも『怪物』呼ばわりするわけにもいかない。雑草という名前の植物などないように、怪物にだって識別名くらいは与えるべきだ。
「だから、あの人魚野郎に僕は殺されて……それで、ここまで巻き戻ってきたのか? なるほど、整理してもさっぱりわからん」
今ここに唐突に現れて、僕になにもかも説明してくれる、そんな都合のいい役割を持った誰かが登場してくれればいいのだけど。
残念なことに、そんなキャラクターは登場人物一覧に記載されていない。
「巻き戻ったのは、僕が死んだから……いや、他に条件がないとも限らないよな。なにか特定の、特別な条件を満たして死んだ時だけ戻れるのかもしれないし、おいそれとは死ねないよな。ただでさえ僕はそこら辺の倫理観が緩いんだから、気を付けないと」
気を付けないと――手段として死を選んで、そのまま、なんてこともある。
そのまま……二度と目醒めないなんてことも。
そもそも、この時間の巻き戻しが僕の有する無限の権利なのか、という問題もある。ゲームのセオリーとして、プレイヤーの死による巻き戻し――所謂、デスループというものは、当然のごとく無限の権利だと思ってしまったけど、思い込んでしまったけど、一回きりの権利という可能性だって、ないわけではない。
ないわけではないというか、そう考えるのが自然なのかもしれない。
奇跡は一度しか起きないものだ。
そう考えると、やはり、おいそれとは死ねない。
常に最終ストックだと思って行動すべきだ。
「とにかく、あの人魚野郎が明日の夜にこの町にやってきて、僕と百目鬼を……それから、交番を襲撃するんだよな――うん、やっぱり意味わからん。人魚ってなんだよ」
敵を知り、己を知らば――なんて言葉があるが、現状、僕は敵のことも自分のこともよくわかっていない状態だ。
この状況で、あの怪物をどうこうできるはずもない。
そもそも僕がどうにかできる相手なのか?
僕がどうにかしなければならない相手なのか?
……まあ、いい。それはいいや。いくらゲーム脳だからといって、どこまでも非人間的に思考しなければならないというわけではない。未来を知ってしまった人間の責務として、対処は考えなければならないと仮定しよう。
人魚……人魚か。
そもそも、僕はどうしてあの怪物を人魚と呼称することにしたのだったか……?
ああ、そうだ、百目鬼があの怪物を人魚と定義したからだったか……いや、違う。百目鬼が人魚を叩きのめす前から、一匹目の人魚と遭遇した瞬間から、僕は奴を人魚と仮定義していた。
それは、何故か。
およそ『人魚』という単語からイメージする姿形とはまるで異なる容姿をしていたのに、それでも僕が咄嗟に奴を『人魚』と定義したのは……それは、つい先ほど――時間が巻き戻ってしまったので『先ほど』の定義も難しいが――百目鬼と書庫で、人魚伝説について談議していたからだった。
「人魚伝説?」
ではなぜ人魚伝説について百目鬼と談議していたか。
それは、昨夜に――つまりこの晩に、葛霧に『人魚伝説を知ってるか?』と問われたことに端を発していたはずだ。
そして不意に、今際の際の記憶がフラッシュバックする。
僕を殺した、三匹目の人魚。奴は、僕の目の前で首を刎ねられて死んだ。
そのあと、意識の混濁した僕に近寄ってきた、おそらく人魚の首を刎ねたであろうその人物は、僕を『リンネ』と呼び……そうだ、あの特徴的な関西弁で喋っていた。
「……っ!」
僕は咄嗟に駆け出す。
葛霧はなにか事情を知っている。ともすれば、あの人魚と戦う力がある。
そうなれば、助力を請わないわけにはいかない。
彼女はさっきそこの角を曲がったばかりのはずだ。
そう遠くには行っていないだろう。
「葛霧!」
そんな読みで、角を曲がって彼女の名を呼んではみたものの。
そこには既に、葛霧の影も形もありはしなかった。
この角を曲がって、まだ一分と経っていないはずなのに――まるで霞のように、葛霧は姿を消してしまっていた。
「……なんなんだよ」
大きな異常から小さな不思議まで、次から次へと……僕を混乱させて楽しんでいるのだろうか、この世界は。なにかひとつでも僕に説明してはくれないのか。僕にとって現実はゲームのようだが、決して、ゲームのように親切ではない。
怪物、人魚のことも。
葛霧あにめという少女のことも。
僕のデスループのことも。
それから、百目鬼の正体も……。
「……いや、そうだ……百目鬼がいるじゃないか」
逆にどうして忘れていたのだろう。
正体不明の、僕の友達。自分は人間ではないと、そんな言葉を言い遺して死んだ、僕の唯一の友達。
彼女ならばなにか知っているのではないか。
そして、僕は彼女のことを知らなければならないのではないか。
ということで電話だ。
さっき日付を確認するために引っ張り出して、そしてまたポケットに突っ込んだスマートフォンを、再度引っ張り出して、アドレス帳から百目鬼小夜の名前を選んで、電話をかけた。
『私だよ』
ワンコールで出た。
間違いなく、間違いようもなく、百目鬼その人が。
僕はそのことに、感動しない。
「非常識な電話の取り方だな」
『相手が空木くんだってわかってるからね。やあ……というか、まあ、やあ。さっきぶりだね。どうかしたの?』
さっきぶり……?
ああ、そうか。このタイミングの僕は、さっきまで百目鬼と電話していたばかりなのか。
「どうかしたのかと言われたら、まあ、凄絶に色々あったんだけど……」
『凄絶に? この短時間で?』
さて、どう説明しようかと色々思索を巡らせてみる。
巡らせている間にも、時間というものは無情に流れて行ってしまうものなので、間を持たせるために口を動かす。
「また電話したのは、まあ、ちょっと……あれだよ。不意にお前の声が聞きたくなってな」
それは嘘ではないし、なんなら本心そのものですらあった。
百目鬼がちゃんと生きているかどうか――そのことを確認するための電話でもあったのだ。
『なにそれ。私のこと好きなの?』
「お前のことは大好きだよ」
たったひとりの友達だから――言い換えて、たったひとりでいいと思わせてくれるほどの人だから。
得難きは時、逢い難きは友なるべし。
「大好きといえば――百目鬼、お前って魚は好きか?」
『お魚? まあ、普通に好きだよ』
「本当か? 僕とどっちが好きだ?」
『いや別に……私、空木くんのこと好きとは言ってないんだけど』
「馬鹿な……僕は『大好き』とまで言ったのに、百目鬼は僕のこと好きじゃないのか? 返報性の原理はどこにいった」
『「馬鹿な」はこっちのセリフだよ』
「ちなみに僕は、さっきお前が言った『普通に好きだよ』というセリフを録音して、毎夜に聞いて寝落ちもちもちしようと思ってるくらい、お前のことを想ってるぞ」
『シンプルに気持ち悪い』
電話というツールを使ったサウンドオンリーの会話だと、友達から言われる『気持ち悪い』も受けるダメージが桁違いだった。
胸がキリリと痛む。
癖になりそうだぜ。
と。
まあ、冗談はこのあたりにして――冗談で済まされるレベルだったかどうかは、議論の縺れそうなところではあるけれど――とにかく、とにもかくにも、僕は本題を緩やかに切り出した。
「ところで、百目鬼、人魚伝説って知ってるか?」
『うん? それは……食べると不死身になる方? それとも、船を沈める方?』
「じゃなくて、この町でいま流行ってる方」
それは本来、このタイミングの僕が知っているはずもない情報なのだが、しかし、僕が知っているはずがないということを百目鬼は知らないし、この程度で致命的な矛盾は起きないだろう。
慎重を期して、百目鬼の方からその話を振ってもらえるように立ち回ることも考えなくはなかったのだけど、まあ、このくらいのショートカットはループ主人公の特権のようなものだと思って充分に活用していく。
最悪、折紙に聞いたとでも言えばいくらでも誤魔化しが利くし。
妹なんかにどんな些細な形でも借りを作るなんて、まさしく最悪だが。最にして悪だが。
そもそも、町に流布している方の人魚伝説は、百目鬼の口から利いた噂なのに、それを教えてくれた本人に向かって「知ってるか?」と訊くなんて、まるで意味がわからない。
知ってるに決まってる。
果たして、百目鬼はそんな僕の質問に対して、
『ああ、そっちの人魚伝説? もちろん知ってるよ』
と、答えた。
予想通りというか、道理の答えだった。
『人魚っていうか魚人っていうか……まあ、うん。たしかに流行ってるみたいだね。大沼湖の周辺で、鱗の生えた人型の異形が出てきて、人を襲っては食べてしまうっていう、そういう、まあ、ある意味ありふれた怪談がさ――それがどうしたの?』
「どうしたというか、えっと……」
『? 曖昧だね』
曖昧にもなるさ。
これからのことをこれからお前に伝えなければならないなんて、いくら僕でも尻込みする。
お前は明日死ぬよ。
なんて、そんな余命宣告、医者でもあるまいに、できっこない――いや、医者だって、ホワイトライという専売特許を持っているわけで、つまるところそれくらい、人に余命を、あるいは天命を伝えるということは心に負担のかかる行為なのだ。
だから、どうしたって曖昧になる。
どう伝えればいいのかわからず、言葉が出てこない。
『人魚伝説、か――』
と。
百目鬼が嘆息交じりに呟いたのが、電波に乗って聞こえてきた。
『よくわからないけどさ、空木くんがさっきの今で電話をかけてきたってことは、なにか重要で緊急な問題が発生したってことなんじゃないかな?』
「そうとも言えるし、そうでないとも言えるな」
『つまり、私に相談したいけど、はっきりと言葉にするのは憚られるんだよね? これはただの推測だけど――もしかして、なにか信じてもらえないような経験をしちゃったんじゃないかな? たとえば、お化けを見た、とか』
「………」
『もしかして……見たんじゃないの? 噂の人魚を、あるいは伝説の人魚を』
やはりだ。
やはり、百目鬼はなにか知っている。
人魚について。
怪異について。
彼女はなにか知識を持っているのだ。
そして、彼女自身も……。
『信じるよ、空木くん。だから、話して聞かせて。空木くんが経験したこと。見たものを――友達だもん。相談に乗るとか、乗らないとかじゃなくて、支え合う関係でしょ? もしも私が困ったとき、空木くんがきっとなにも求めずに手を貸してくれるように、私も空木くんのことを助けたい』
それは単純で、大切で、大事な言葉に思えた。
見返りの要らない関係――友情。
僕は百目鬼の言葉を何度も噛みしめた。ひとつひとつが腑に落ちていき、視界が晴れていく感覚だった。北極星を見つけた旅人のような気分だった。
「百目鬼、あのさ」
『うん』
「僕が未来から来たタイムトラベラーだって言ったら、どう思う?」
『そういう冗談が思いつけるなら、もう大丈夫だね』
百目鬼は電話口でクスクスと笑って、答えた。
信じていないということは、言葉がなくても伝わってくるようだった。
知らず、僕は少し熱を持って言い返す。
「冗談で言ってるんじゃない。僕が本気でそう信じてると言ったら、お前は僕のことを信じられるか?」
『……さっきまで、水無月先生のところにいたんだっけ?』
「心の病気じゃない。錯乱は、ちょっとしてるかもしれないけど。僕は本気で、自分のことをタイムトラベラーだと思ってる。だから、答えてくれ。お前は、僕のことを信じてくれるか?」
『正直に答えるなら……まあ、普通に信じられないかな』
「……そうか」
そうだよな。それはそうだ。当たり前だ。
逆の立場に立ってみればわかる――いや、わからないが、常識に照らし合わせればわかる。普通に考えて、そんな頓狂な話、信じるわけがない。冗談を言っているか、そうでなかったら、頭がおかしくなってしまったと思われるのがオチだ。
誰も彼もがゲーム脳なわけじゃない。
仕方ない。
あまり心は進まないが、この手を使うしかないようだ――と、僕は内心の不安感を押し殺して、唇を舌で湿らせる。
そして、賭けに出る。
ベットするものは『友情』だ。
「――じゃあ、お前が人間じゃないってことを知ってるって言ったら、どうだ?」




