005
妹と喧嘩をするのは初めてではないし、なんなら日常茶飯のごとく慣れているまであるのだけど、とはいえ、僕たちは喧嘩するほど仲がいいわけではなく、むしろ喧嘩するほどに仲が悪い兄妹なわけで、強大に仲が悪い兄妹なわけで、言い合いから発展した取っ組み合いの喧嘩の末、僕は家出を敢行していた。
家出と言っても、まあ、大したものじゃない。
ちょっと家に居づらくて、妹か僕かのどちらかが家から出なくてはならない状況に追い込まれた結果、まあ、ここは兄としての優しさを少しは見せてやろうという思いで僕が家を出てやったのだ。
これも日常茶飯事である。
決して誤解しないでほしいところではあるが、僕は自分がこんな夜中に家を出なければならないことに対して憤慨している。偶には妹の折紙の方が家を出るべきだろと思っているし、なんならそのまま帰ってこないでほしいとすら思っている。断じて、こんな夜中に年頃の女の子でもある妹を夜歩きさせるわけにはいかないと思ったわけではない。
ちなみに、例によって例のごとく、喧嘩の理由など忘れた。もしかしたら理由などない喧嘩だったのかもしれない。僕たち兄妹にとって、喧嘩はコミュニケーションツールになりつつある。一般家庭の普通の兄妹が会話を交わすように、僕たちは拳を交わす――あるいは躱す。
それが空木倫禰と空木折紙の日常だった。
「悪い子発見」
頭上から声が降ってきた。そのお蔭で、僕はいつの間にか俯いていたのだと自覚した。
面を上げると、百目鬼が僕の顔を覗き込んでいた。吐息が髪を揺らすほどの至近距離。彼女のパーソナルスペースはとても近い。
「こんな夜更けに、こんな公園にいるなんて――悪い子だね、空木くん」
「……こんな夜更け呼ばわりはないんじゃないか? 月の出た好い夜じゃないか」
お前だってこんな夜更けにこんな公園にいるじゃないか、とは言わなかった。
彼女がこの公園によく来ていることは知っていたし、僕が今夜この公園を訪れたのも、ともすれば彼女に会いたかったからなのだから。
夜は仄か。
百目鬼と初めて会った夜も、こんな夜のこの公園だった。
「月は雅だけど、狂気の象徴でもあるんだよ」
「なるほどな。どうりで折紙も気が立ってるわけだ」
「また喧嘩したの?」
百目鬼が悪戯っぽい目で僕を見る。
僕は苦笑いを浮かべて首を振る。
「駄目だよ、妹には優しくしないと。本気で喧嘩するなんて、お兄ちゃんのすることじゃない」
「本気? 冗談はよせよ。僕が本気を出してたら、あいつは大怪我どころじゃ済まないさ。僕はちゃんと手加減してる」
「手加減しても、暴力は駄目」
叱るように百目鬼は言って、それから僕の額をこつんと突く。
この歳になって子供扱いされるとは……それも、同級生に――うぅむ、悪くないと思えてしまう自分がどうしようもない。
それから、百目鬼は花のような微笑を浮かべて、ベンチに腰掛けた僕の隣に腰を下ろした。
甘くてさっぱりとした香りが鼻腔を擽った。これが百目鬼の匂いなのだと気が付いて、僕はこっそりと生唾を飲み込む。
「さっきまで一緒に図書整理してた男の子とこうして夜の公園で再会するのってさ、なんか、変な感じだだね。ちょっと、悪いことしてるみたいな気分」
「悪いこと?」
「イケナイこと、かな。なんだか逢引してる気分だよ」
気分というか、もうこれは実質的に逢引そのものなのではないかと思ったけど、口には出さなかった。そこまで気持ちの悪い男ではない、僕も。
それに百目鬼とこうして夜の公園で遭遇するのも、さっき言った通り、初めてのことではなかった。
僕が妹と喧嘩する毎に、つまりかなり頻繁に、僕らはこうして公園でたむろしている。
もしかしたら、僕があのヒステリックな妹とことある毎に喧嘩しているのは、理由のない喧嘩をしているのは――つまり、その喧嘩の理由こそ、僕が百目鬼に会いたいと思っているからなのかもしれない。
なんて。
「……家、帰ってないのか?」
百目鬼は制服姿だった。
だからと言って家に帰ってないと判断するのは早計かもしれないが、しかし彼女なら、その可能性が高いと思わざるを得ない事情があった。
「今日はあの人が家に来てるから」
「ああ、そう……お母さんの恋路は順調か?」
「もうすぐ『百目鬼』って苗字ともお別れかもね」
「そうか」
そうか。
そうか、としか言えない。
僕は彼女の家の事情に口を出す権利を持っていない。僕は、というか、誰にもその権利はない。
百目鬼の問題は百目鬼の問題でしかない。
たとえ、もうすぐ百目鬼じゃなくなるとしても。
「さっきは勢い『不満を持ってる』なんて言っちゃったけどさ、それでもしばらく連れ添った苗字だし、やっぱり、急に変わるのかと思うとアイデンティティクライシスな感じはあるよね。結婚して苗字が変わる女の人の気持ちって、こんな感じなのかな?」
「まあ、特殊な苗字を持ってると、やっぱりそこにアイデンティティって生まれるよな」
「空木くんもわかる?」
「わかるよ。僕もこの苗字は好きでもない家族との繋がりみたいで好きじゃないけど、でも、別の苗字に変更したいとはまったく思わないからな――変わるとしたら、なんていう苗字になるんだ?」
「さあ、知らない」
投げやりに言った百目鬼の言葉を、夜の空は吸い込んでいった。
月に叢雲花に風。
あれほど風光明媚を誇った月が、流れる雲に翳っていく。月食のように、食われるように、月が隠れていく。
「少し歩こうか」
百目鬼が立ち上がった。
別に断る理由もなかったので、僕もベンチから腰を浮かせて彼女の横に並ぶ。
僕らは傍から見れば夜の散歩をしている恋人同士のように見えたかもしれないけど、実際には、僕らはただの友達同士だった。
「手でも繋ぐ?」
「百目鬼。あのな、僕は今、モノローグで僕とお前がただの友達関係であることを強調したばかりなんだ。無暗に誤解を招くようなことを言うな。僕とお前は友達だ」
「空木くんは男女の友情は成立すると思ってるタイプ?」
「知らん。けど、お前とは性別の壁を超えた関係を築けてると思ってるよ」
「性別の壁を越えて、ねぇ――ふふっ、童貞さんみたい……間違えた、硬派なんだね」
「間違えんな」
童貞と硬派って……この場合、意味合い的にはあまり変わらないのかもしれないけど、聞こえが違いすぎるだろ。
ていうか、わざとだろ。
童貞と硬派を言い間違えることなんてあるか。
「でも、間違ってはないのか。空木くんは童貞だもんね?」
「勝手に決めつけるな。童貞と同定するな。僕が経験者だっていう可能性も、少しは吟味しろ」
「だって、空木くんが私以外の子と仲良くしてるの見たことないし……あ、いや、まさか妹ちゃんと?」
「『妹ちゃんと?』じゃねぇよ。なんでちょっと本気で思ってるみたいな表情してんだよ。どんな演技力だ。ふざけんな。妹だけはねぇよ。たとえ世界が滅んだとしてもねぇよ。女未満と書いて妹と読むんだ。一人っ子ほど兄妹ってものを神聖視してるけどな、兄妹なんて、特に異性の兄妹なんて、殊更に妹なんて、いてもいるだけ煩わしいもんだぞ。死んでほしいとすら思ってるね」
百目鬼は「またまたぁ」と言ってカラカラと笑った。
なに笑ってんだこいつ。
「ていうか――僕の童貞を揶揄ってるけどさ、お前だって別に、経験があるわけじゃないんだろ? おぼこの生娘なんだろ?」
「『おぼこの生娘』ってさ、よく聞く表現だけど、よくよく聞いてみると、同じこと二回言ってるよね。ほら、『頭痛が痛い』みたいな」
「どんな誤魔化し方だよ」
「誤魔化してもないんだけどね――私が処女かどうか、そんなに気になる?」
「まあ、普通に気になるな」
「なら普通に答えるけど、普通に処女だよ。空木くんと同じでね」
「僕は別に処女ではねぇよ」
しかし、『童貞』とか『処女』とか、同じ状態を表す単語を性別によって使い分けているのはどういう理由があるのだろう。たしか、英語ではどちらも『ヴァージン』だった気がするが……。
「で、どう?」
「なにが?」
「私が処女で安心した?」
「なんでちょっとエッチなお姉さんムーブかましてんの、お前」
「吸血鬼系女子は無理だって言われちゃったからさ、いっそ、そっち方面に舵を切ろうかなって」
「舵切りすぎだろ。転覆するわ」
「空木くんも一緒にどう? エッチなお姉さんキャラ」
「一緒に? 僕が?」
「うん。ちょっと胸元空いた服とか着てさ、胸を強調する感じで」
「そんな地獄のような光景に、お前は耐えられるのか?」
まずもって僕が耐えられない。なんなら絶える。羞恥で死ぬまである。
そんなことで死んだら僕が浮かばれねぇよ。周囲の笑いものだよ。笑ってくれる友達がいないところがより痛々しいよ。
「似合うと思うんだけどな、童貞を殺すセーター」
「僕がそれ着たら自殺じゃねぇか」
「そうか、そうだね……残念。私が童貞を殺すセーターを着ても、空木くんには見せられないんだね。大切な友達を殺すことはできないから」
「どうせ冗談なんだろうと思って聞き流しておくけど、もしも百目鬼、本当にそういう機会が訪れたら、そのときは遠慮なく僕にその姿を見せてくれ。お前のあられもない姿を見ることができるなら、僕は死んでもいい」
「カッコいい風に気持ち悪いこと言わないでね」
たったひとりの友達に『気持ち悪い』とまで言わせてしまう男が、ここにはいた。
「そもそも、空木くんって、私のことは友達だと思ってるって言ってなかったっけ? 私のあられもない姿が見たいの?」
「見たい」
「即答なんだ……」
「僕は百目鬼とはいい友達関係を築けていると思っているけど、それはそれ、これはこれ、性欲は別腹だ」
「性別の壁を越えた関係とか言ってなかったっけ……」
「言ってない」
「言ったよ! 『百目鬼とは性別の壁を越えた関係を築けてると思ってる』って」
「覚えてない」
「覚えてないの? 不覚にもちょっとカッコいいなって思ったのに」
「百目鬼って誰だっけ?」
「私のことまで忘れないで。私のことを性別で見ないで。ていうか、女として見ないで。私たち友達でしょ?」
「友達? 男女の友情って成立するのか?」
「立場が逆転してる⁉」
キレのいいツッコミが百目鬼から入った……演技派だなぁ、と。
ちなみに僕は、男女の友情は成立すると思っているタイプである。理由として、ゲームでは幾度となく男女間の篤い、そして熱い友情を見てきたし、そしてなによりも、僕自身がこうして百目鬼と友達をやれているからだ。
「で、僕たちこれ、どこに向かってるんだ? なんとなく、お前の言う通りに向かうままに、唯々諾々と従って歩いてるんだけど……こっちになにかあったっけ?」
「空木くんのお家に向かってるよ」
「はあん、それはまたなんで? もしかして、友達として折紙にガツンとひとつ厳しく怒ってくれるのか? 僕の代わりに? なんという内助の功だ」
「内助の功ではないと思うけど……空木兄妹の喧嘩に関して友達として怒るなら、それは空木くんの方だよ。妹に暴力振るっちゃ駄目」
「でも、反撃しないと一方的にやられちゃうだろ」
「それでもだよ。お兄ちゃんなんだから、それくらいは身体を張って受け入れてあげないと」
「馬鹿な……たとえ目を突かれても足の小指の骨を折られても、抵抗してはいけないというのか……」
「思ったよりもなことしてた…………うん、その場合は……まあ、抵抗することだけは許すけど……でも、やりすぎは駄目。暴力はなにも解決しないからね。そのことは、暴力でしか妹ちゃんとコミュニケーションできない空木くんが一番よくわかってるでしょ?」
肩を竦める――ことしかできない。
そんなこと、わかってるさ。わかっていても、どうしても、他のやり方がわからないんだ。僕は。そして妹は。
「で? それで、なら、どうして僕の家に向かって歩いてるんだ?」
言い返せなかった僕は、そんな風に話を転換させた。
転換というか、軌道修正か。
「もちろん、空木くんを家に送り届けるためだよ」
「は? なんで?」
「夜は危ないからね」
そんなはぐらかすように言った百目鬼の言葉の真意を、僕は問い返すことができなかった。
いや別に、訊いてもどうせ教えてくれないだろうから、と、端から諦めて訊き返さなかったわけではない。まあ、たぶん問い返して口八丁手八丁で誤魔化されていたであろうことは間違いないのだけど、しかし今回に関してはそういう意味ではなく、単純にタイミングを逸していしまったから、問い返すことができなかったのである。
夜の道を悠然と歩く。
時刻にして、およそ十二時近くになった街は閑散としていて、うるさいほどの静寂が満ち満ちている。見上げる空は霞んでいて、まるで――まるで、世界が湖の底に沈んでしまったみたいだった。
「そういえば吸血鬼って――」
と、僕は地面を見ながら話を振る。
厳密には、外灯に照らされて前後する僕らの影を見て。
「影がない、みたいな弱点もあったよな」
「あるね。教室における空木くんみたいな」
「僕は別に影が薄いキャラではねぇよ。浮いてるだけだ」
「存在感はあるのに浮いてるって、最悪に近い状況だと思うけど――でも、それって弱点なのかな?」
「僕は友達が少ないことを弱点だとは思ってない」
「じゃなくて――吸血鬼の影ができないっていう特性。鏡に映らないとかもそうだけど、別に弱点ではなくない? たとえば、『陽光に当たると灰になる』とかと比べれば、どうでもいいことのような気がするけど」
まあ、それはそうかもしれない。
たぶん、人の形をした怪異として、人と見分けがつかないことを人々が恐れたのだろう。吸血鬼という怪物が、本当に当時の人々に恐れられたが故にたくさんの弱点を付与されたように、見分けるための方法もまた付け足された。
ということなのだと、思う。
「強すぎるが故に、弱点を与えられる、か」
「ん? なんの話?」
「いや、吸血鬼の特性についてさ。弱点とか、そうじゃないこととか含めて、ちょっと吸血鬼って、他の伝承に登場する怪異に比べて群を抜いて特性が多いだろ? それって、やっぱり吸血鬼を本気で恐れた人間たちのエゴの形なんじゃないかと思ってさ。『これだけ強大な存在なのだから、これくらいの弱点はあってしかるべきだ』っていう思考の道程が、透けて見えるよな」
「至高の童貞? 空木くんの二つ名?」
「そんなわけねぇだろ」
そんな他愛もない話をしていたから――ではないのかもしれないけれど、でも、とにかく、僕たちはそのときになってやっと気がついた。逆に、その瞬間までは気づいていなかった。
正面に。
正面に、だ。
気が付いたら、正面にいた。
人影が。月の翳った夜の闇の中、外灯にぼんやりと照らされたその姿は人の形をした……。
瞬間、ぞわりと総毛立つ。
忌避感、嫌悪感、不快感。
それらの感覚は、心臓から強く押し出され瞬時に身体のすべてを廻った。
「なっ……⁉」
百目鬼が驚嘆の声を上げた。言葉にならない言葉だった。
さもありなん。
その人影はそれほどに異様だった。
それは……その人影は、びっしりと、肌を覆うように、あるいは肌の代わりのように、全身が鈍色に光る鱗で覆われていたのである。
つまり、異形だった。
異様な異形だった。
まるで、魚と人の間の子のような。




