004
「はぁ……喉乾いた。人の血が飲みたいなぁ」
学校の図書室の書庫。埃っぽい空間で本棚に並べられた書籍を順番通りに並べ替えるという、図書委員としての仕事をまっとうに熟していると、百目鬼小夜がおかしな告白をしてきた。
無視しようかとも思ったけど、この狭い空間で彼女の他にいる人間は僕だけだし、そのなんとも言えない猟奇的な発言は、間違いなく僕に向けられたものなのだろう。
仕方なく、背中合わせで同じ作業をしていた百目鬼に反応してあげる。
「なに? ドラキュラにでもなりたいの?」
「ドラキュラっていうか、カーミラになりたいかな。老いない身体と美しい容姿。女の子が欲しいものを全て持ってるんだよ、吸血鬼って」
「血を吸わないと生きていけないっていう、致命的な欠点があるけどな」
「些細なことだよ。吸うなら女の子の血がいいな。処女の生き血には美容効果があるって噂もあるし」
「そんな噂はねぇよ」
「あるんだよ。西洋の都市伝説に」
くすくすと笑う声が背中越しに聞こえる。
どうやら彼女も、こちらを見ずに仕事に従事しているらしい。
「最近は流行ってるみたいだよ、吸血鬼系女子。色素の薄い女の子のことをそう呼ぶみたい。空木くんは青白い肌の女の子、好き?」
「まあ……色の白いは七難隠すとも言うし」
「一般論に逃げないでよ」
さらさらと百目鬼が笑う。
まったく、無表情で黙々と作業をしている僕のことを見習ってほしいものだ。タスクの処理速度は彼女に大きく劣る僕なので、もちろん、そんなことは口には出せないのだけど。
「空木くんって自分の好みとかあまり話さないよね。私、空木くんとはそれなりに友達やってるつもりだけど、未だに君のことよく知らないや」
「ミステリアスな男なんだよ、僕は」
「髪も長いしね」
そう、髪も長い。
僕はロン毛だ。妹には「売れないバンドマンかよ」と揶揄されてしまうくらいの長さがある。どうして売れない方のバンドマンに限定したのかはわからないが、まあ、言いたいことはわかる。
そこが悔しい。
とはいえ、妹との舌戦に措いて素直に敗北を認める兄など存在しないので、僕も髪が超長い妹に「なんでそんなに髪の毛伸ばしてんだよ。平安貴族かよ、このおかめ顔が」と言い返した。そして取っ組み合いになった。
では、僕の髪の毛が具体的にどのくらいかというと、真っ直ぐ伸ばせば肩口にかかるくらいの長さがある。僕はそれを一本に纏めて項に垂らしている。
髪が長い理由は、別に意図して伸ばしているわけではなくて、いつか切ろう、また今度切ろう、と思っているうちにここまで伸びてしまった次第だ。
「ともすれば僕、お前より髪の毛長いんじゃないか?」
「私のボブよりは空木くんの髪の方がずっと長いだろうね。別に悔しくもないんだけど、なんか女子として負けた気分だよ」
「僕は似合ってると思うぞ、その髪型」
「本当? もうちょっと伸ばそうか悩んでるんだけどね」
事実、百目鬼の髪型は彼女によく似合っている。
愛らしい容姿、華やかな雰囲気、快活な性格が彼女の飾る。明るいブラウンに染めたボブカットの髪も、それらをより引き立てている、と思う。とにかく華やかで、僕のような陰鬱な人間とは対極に存在する女子なのだ、彼女は。
そんな言葉を直接吐けるほど、僕は自惚れた人間ではないので、それらの言葉は胸の裡にそっと仕舞っておく。
「百目鬼で似合ってるよ、ボブ」
「逆ね。私、ボブじゃないから。そもそも男じゃないから。百目鬼っていう苗字にも、不満を持ってるんだよ。かわいくないし。かわいくないっていうか、ゴツいから」
「下手すれば『ボブ』よりゴツいよな、『百目鬼』って」
「私が吸血鬼系女子になれば、ピッタリな苗字なんだけどね。下の名前も小夜だし」
「さっきから気になってたんだけど、なんでお前は吸血鬼系女子に憧れてるんだ?」
「吸血鬼系女子っていうか、吸血鬼そのものに憧れてるんだよね――不老不死、なれるものならなりたくない?」
後ろで、百目鬼が振り返ったのが息遣いとステップの音でわかった。そのまま彼女は僕の隣に並ぶ。
もう背面の本棚の整理が終わったのか。僕はまだ、半分ほどしか終わっていないというのに。
僕は本棚に視線を向けたまま、一瞬だけちらりと百目鬼を見やる。そこには汗にしっとりと濡れた百目鬼の姿があった。
まだ四月だが、書庫は熱が籠って仕方ない。エアコンもない書庫では、僕も汗だくだ。
「不老不死ね……でも吸血鬼って、なんかすぐ死ぬイメージあるんだよな。太陽が駄目とか、大蒜が駄目とか……不便すぎるだろ」
「他にも十字架が駄目だったり、茨が駄目だったりね。たしかに、弱点の多い怪異っていうイメージはあるな。心臓に杭を打たれても死ぬよ」
「心臓に杭を打たれたら大抵の生物は死ぬだろ」
「あと、流水も弱点だったり」
「不死身とはいったいなんなのか……」
まあ、それだけ長い歴史を持ち、本気で民衆に恐れられていた怪異ということなのだろう。
招かれないと家に入れないとか、太陽の下を歩けないとか、流水の上を渡れないとか、人々に本気で恐れられたからこそ付与された弱点なのかもしんれない。弱点の多さは、その怪異の格の高さを示しているという考え方もできなくはない。
「不死身といえば――なあ、百目鬼。人魚伝説って知ってるか?」
僕は昨夜出会った、金髪碧眼で関西弁の少女、あにめの存在を思い出しながらそんなことを訊いた。
そういえば、彼女も去り際に吸血鬼がどうたらと言っていたような……とはいえ。
ともあれ、今は人魚伝説の話だ。
「人魚伝説?」
「そう、ほら……えっと、あったよな? 人魚を食べると不死身になるとか」
「ああ、うん、あるね。八百比丘尼の伝説のことかな?」
やおびくに……?
なんだか、聞いたことがあるようなないような名前だ。
首を捻って無知を晒してしまったが、しかし百目鬼はそんな僕を笑うこともなく、彼女は手で自分の首筋を扇ぎながら、僕のために説明してくれた。
「比丘尼っていうのは、出家した女性の修行者のことだよ」
「尼さんなのか?」
「もともとは普通の女の子なんだけどね――十八歳のときに人魚の肉を食べて、それ以来歳をとらなくなった。親が死に、自分を知る者がいなくなっても若いままだったの。だから、百二十歳のときに出家して比丘尼になって、諸国行脚の旅に出た。放浪の末、故郷に戻った八百比丘尼は岩窟で入定したんだって」
「入定?」
「入定っていうのは、独りで静かに死を待つことだよ――で、白椿の枝を洞窟の入り口に挿して『この枝が枯れたときに自分も死ぬだろう』と言い残して、八百歳で亡くなったんだっけかな。八百歳まで生きた比丘尼だから、八百比丘尼って呼ばれてるわけ」
なるほど、それはなんともわかりやすいネーミングだ。
安直すぎるような気もするが、そのセンスは嫌いになれない。
「ちなみに、その岩窟は福井県の空印寺に今も残されていて、奥には八百比丘尼の墓が立てられてるらしいよ」
「へえ」
「ちなみのちなみに、八百比丘尼伝説は日本全国津々浦々あらゆる場所に流布しているけど、ところによっては比丘尼が口にしたのは人魚じゃなくて貝だったっていう風説も多いんだよ」
「はあ、そうなんだ」
「ちなみにのちなみのちなみに、八百比丘尼とよく似た伝説を持つ偉人で、常陸坊海尊という人もいるんだよね。源義経に仕えた人で、『ニンカン』っていう赤魚の料理を食べて不老になったの。平安から鎌倉時代の人だけど、江戸時代に海尊に会ったっていう伝説もあるんだよ。没年はわかってないから、もしかしたらまだ生きてるかもね」
そんな風に、彼女は話を締めくくった。
ロマンを残すような話し方は、なかなかどうして聞きごたえのある話術ではある。人にものを語って聞かせる才能がある人間なのだ、百目鬼は。長尺のセリフを聞かされても、まったくと言っていいほどに深いな気持ちにならない。
会話の天才。天性の話術――だから彼女はクラスの人気者なのである。
「そんなこと、よく知ってるな」
そんな風に素直に褒めると、百目鬼は少し恥ずかしそうにはにかんで「別に」と答えた。
「ちょっと風俗史に興味があるだけだよ」
「風俗史……とな?」
「風俗という単語に俄かに色めき立たないで。民俗学のことだよ」
シラッとした視線をぶつけられる。
これはあまり形勢がよくなさそうだ、と僕は早々に話題の転換を図る。
「まあ、だから、食べたら不死身になるのが日本の人魚伝説だとして――船を沈める、みたいなタイプの逸話も外国にはあるよな?」
「セイレーンのことかな? ギリシャ神話に登場する怪物で、たしかに、西洋の人魚のプロトタイプになったという説はあるね。美しすぎる歌声で船乗りを惑わせて、難破させて海に沈めるんだよ。それほどに美しい歌声を持つことから、サイレンの語源ともされてるんだよね」
「止まらないな、人魚豆知識が」
「ちなみに、ギリシャ神話のセイレーンは半人半魚であったり半人半鳥だったりするから、日本における人魚とはまた違う存在なんだよね。半人半鳥の怪異を、日本では人魚とは呼ばないでしょ?」
「日本語ならトリヒューマンと呼ぶことになるだろうな」
「英語だしダサいからやり直し。八百比丘尼をネーミングした人のセンスを見習って」
「そうか? 似たようなものじゃないか?」
八百年生きた比丘尼だから八百比丘尼。
鳥で人間だからトリヒューマン。
違いがあるか?
「全然まったくもって違いしかないと思うけど」
「シェイクスピアがなー」
「なに? 話飛ぶね」
「『ロミオとジュリエット』にこんな一節があるんだよ――『名前には何があるっていうの? 薔薇を他の名前で呼んだとしても、その甘美な香りには変わりないのだから』って」
「素敵な一節だけど」
「名前ってそんなに重要か? どう思う、百目鬼ング」
「名前は重要なんじゃないかな? 少なくとも、次、私のことを百目鬼ングと呼んだら絶交だよ」
「じゃあ、ドメ比丘尼ならどうだ?」
「別に出家してないよ、私」
「なら、ドメビキニでどうだ? 吸血鬼系女子が無理でも、制服の下にビキニを着てる系女子にならなれるぞ」
「絶交で」
絶交されたところで、図書室の先生が僕たちを呼びに来た。
どうやら図書室を閉める時間になっていたようだ。僕たちは確認が終わったまでのところを目印として一冊本を前に引いておき、忘れ物がないか確認してから書庫を出た。
僕たちはそれから汗を拭き、先生から差し入れで貰ったペットボトルのお茶を傾けながら、学校を出た。時刻は夕方六時を回っている。夕日が西の空で輝いていた。グラウンドではサッカー部の男子たちが長い影を作りながらランニングしている。
「で、空木くんはどうして人魚伝説なんて気にしてるの?」
上靴をローファーに履き替えた百目鬼は、トントンと爪先を鳴らしてから、わざわざ早足で僕に追いついてきた。僕は歩幅を調節して、彼女の歩調に合わせる。
「いや、まあ……ちょっとな。昨日、急に『人魚伝説って知ってる?』って言われて――まあ、不死身の人魚の肉の話とか船の沈没の話とかしたら、なんかそれじゃなかったぽくてさ。他になんかあったっけな、と思って」
「それってもしかしてアレのこと言ってるんじゃないの?」
「アレ?」
「最近、この町で流行ってる人魚伝説。伝説っていうか、噂っていうか、ただの怪談だけど――知らない?」
「いいか、百目鬼、噂っていうのは人から人に流れるものだ。そして僕にはお前しか友達がいない。つまり、お前が僕に教えてないことは、僕が知ってるはずがないんだ」
「なんで説教するみたいな口調でそんな悲しいこと言うの?」
こっちが悲しくなってくるよ、なんて言って、百目鬼はひとつ嘆息した。
嘆息されても、事実は事実なのだから仕方ない。
僕の友達は百目鬼ひとりだ――誰とでも友達な彼女が友達なのは、まあ、だから、いわばログインボーナスのようなもので、彼女のことを友達に数えることは卑怯ですらあり、実質的な僕の友達の数はゼロなのかもしれないけど。
「最近流行ってるんだよ、このあたりで。人魚の目撃情報」
「目撃情報? 誰かが人魚でも見たのか?」
「不特定多数がね。人魚っていうよりは、魚人なのかもしれないいけど――湖から鱗の生えた人型の異形が出てきて、人を襲っては食べてしまうっていう、そういう、まあ、ある意味ありふれた怪談だよね」
「襲われた人がいるのか?」
「さあ?」
「さあって……でも、見た人はいるんだよな?」
「それもどうかな? 『誰かが人魚を見た』っていう噂が回ってるだけで、誰が見たのかは誰も知らないから。この場合の『不特定多数』っていうのは『特定できないほどの多数』って意味じゃなくて『特定できない誰かが多数いる』って意味なんだよ」
「…………なるほど」
「でもね、行方不明になっている人はたしかにいるらしいよ」
そりゃ、行方不明になっている人くらいはいるだろう。
この町は別に大都市というわけではないが、小さな村というわけでもない。僕がボッチであることを差し引いても、全住民が全住民のことを認知しているわけではないし、なにか訳があって行方不明になる人間だっていないわけじゃない。
犯罪に巻き込まれたり、夜逃げだったり。
人魚なり魚人なりに食われたというよりは、その方が遥かに現実的だ。
僕が現実を語るというのも、甚だおかしな話ではあるが。
「ま、そういうものなんだろうね。昔あった神隠しも結局は夜逃げの痕だった、みたいな話でさ、普通に考えたら当たり前に当たり前な理屈がくっつけられたとしても、そこに少しでも超常現象をくっつけることができる余地があるなら、人はフィクションを信じたくなる生き物なのかもしれないね」
「『幽霊の正体見たり枯れ尾花』ってやつか」
「かもね」
やがて岐路に至る。
この交差点を僕は右に曲がり、百目鬼は左に曲がる。
「じゃあね」と言った彼女の姿の向こう、春の空はオレンジとピンクとほんの少しの群青の間で僕らを見下ろしている。
「ところで――」
と、僕は百目鬼の背中を呼び止める。
彼女は鷹揚に振り返った。
「その噂で語られてる、人魚が出てきた湖って、どこ?」
僕のそんな質問に、百目鬼は「どうしてそんなことを訊くの?」と言わんばかりの表情をして、それから、ゆったりとした口調で答えた。
「大沼湖」




