003
日本には、夜に口笛を吹くと蛇が寄ってくる、という伝承がある。
その伝承の延長線上なのか、この町の上の世代の人間は、夜中に電話をしないらしい。大蛇が現れて丸のみにされてしまうというのだ。大蛇伝説というのは日本各地、どころか世界各地に大小様々あるものだから別に珍しくもないのだけど、だからこそ、僕は別にその伝承を信じてもいなかった。知識としてそういう伝承があることは知っていたが、それを信じるかどうかというのはまた別の話である。
というわけで、僕は診療所からの帰り道、夜道を歩きながら通話していた。
話し相手は、水無月診療所を紹介してくれた友達である。
それもただの友達ではない。
彼女、百目鬼小夜は僕にとって数少ない友達のひとりだし、強がらずに表現するなら唯一の友達だった。とはいえ、向こうは人気者で僕以外の誰とだって友達なのだから、僕らの関係をひと言で表現することは難しい。少なくとも僕にとっては『親友』のような存在ではあるけど、百目鬼にとっては僕なんて数いる友達のひとりでしかないのだろうから。
「どうだった? 水無月先生はなにか言ってた?」
「まあ……色々言ってもらえて楽にはなったよ」
診断の様子を事細かに教えることはさすがに憚られたので、僕はそんな風に濁すように、曖昧に答えた。ただし、お礼を言うことは忘れない。
「ありがとう、百目鬼。病院に行くほどのことじゃないと思ってたけど、話してみて気が楽になったよ」
「そっか。それはよかった。空木くんって思いつめすぎるところあるから、心配だったんだよね。ほら、空木くんってひとりの時間も多いし――これ訊くの何回目だよって感じだと思うけど、友達作らないの?」
「これ答えるの何回目だよって感じだけど、必要ないものは作らない」
友達が欲しいかと問われれば欲しいけど、でも現状、僕にとって友達は百目鬼がひとりいればそれで充分だった。ひとりで充分なくらいの友達なのだ、彼女は。
量ではなく、質。
僕のような欠陥を抱えた人間にとって、沢山の友達はそれだけで人生の足枷になってしまう。ともすれば、それはお互いにとって。百目鬼が僕ごとき人間を枷に思うような人間でないことを承知で僕は彼女と友達を続けているわけだし、もしも彼女が僕と迷惑に思うようなら、僕は瞬時に友達を辞める覚悟がある。
それを想定するだけで、胸に鋭い痛みを覚えるのだけど。
「でも、そもそもなんで百目鬼は、あの先生のことを知ってたんだ? 結構ずばずばものを言うというか……医者としてはかなり型破りな人だったけど」
型破りな感じ。
と言っても、僕は別に医者としての標準的な性格を知っているわけではないので、案外、あれで一般的なのかもしれないけど、だが、どうにもそうだとは思えなかった。
「ああ……えーとね、まあ、個人的な知り合いなんだよ。医者と患者の関係ではないんだけどね。いやでも、まあ、それに近い関係ではあるのか」
「?」
「ま、とにかく、水無月先生とは個人的な付き合いで、その人がたまたまお医者さんだって知ったから、なら、困ってそうな空木くんを紹介しようかなって思ったの。迷惑じゃなかったなら、よかったけど」
「迷惑なんかじゃないさ」
ちなみに僕は、水無月先生にしたような相談を百目鬼にしたわけではない。僕は彼女に、具体的なことはなにも話していない――しかし百目鬼は、話していて僕の態度がどこかおかしいことを察したのだ。
おそらく彼女は、僕が『学校生活でなにか上手くいっていない』くらいにしか考えていないと思うが、僕の人生単位の悩みがあったことなどは露ほども思わずに水無月診療所を勧めたのだと思うが、その効果は絶大だった。
さすがは親友。
彼女に心配をかけてしまったことが痛恨の極みではあったが、僕は素直に感心した。
「おっと、もうこんな時間か。夜中に電話してたら、大蛇に丸のみされちゃうんだっけね」
「よくある民間伝承だけどな」
「よくある民間伝承も、意外と馬鹿にならないんだよ」
じゃあまた学校で、と言って、百目鬼の方から電話を切った。
やや急ぎ気味な風にも感じたし、ひょっとすると彼女はなにかやっている最中だったのかもしれない。優等生な彼女のことだし、夜の勉強でもしていたのだろうか。だとしたら、邪魔してしまったことを恥じなければならない。
僕もそろそろ帰ろう。
夜もとっぷり更けてきたことだし、お腹も減ってきた。夕食は僕の当番だったはずだから、あのヒステリックな妹もカンカンに怒っていることだろう。また、ひと喧嘩しなければならないのかと思うと今から気が重いが、だからといって帰らないわけにはいかない。
そんな風に思って、ポケットにスマートフォンを仕舞おうとしたとき、
「ちょっと……そこのあんた」
と、背中から声をかけられた。聞き慣れないイントネーションで。詳しくはわからないが、関西のイントネーションだった。
振り向くと、そこにお姫様がいた。
いや、お姫様なのかは知らないが、僕がそう思ったというだけの話だ。あるいはただのコスプレなのかもしれないが、とにかく普通の様相ではなかった。普通ではない洋装だった。細かく刺繍の施された深紅のドレスを着て、そのドレスとまったく同じ赤のヒールを履いている。
そしてその髪は目も眩む金髪。腰まで伸びたブロンドは染めているようには見えず、絹のような質感を醸し出している。瞳は宝石のような赤色で、やはり日本人っぽさはない。西洋の血を引いていることは間違いなく、だからこそ、関西弁で話すのがミスマッチに思えた。
見た目の年齢は僕と同じくらいで、少女と称して問題はなさそう。だが、持っている雰囲気が尊大で、それが大人びているというか、とにかく僕よりも上の存在だと思わせてくる。
だから、いきなり話かけられて少し怯えた。
怯えると同時に見惚れた――見惚れた。
それほどまでに、美の女神すら嫉妬するほどに、彼女は美しい。夜の闇の中ですら、浮かんで見える。
「あの……ちょっとごめんなんやけど……お願いがあるんや。よかったら、その携帯電話を貸してもらえやんかな?」
見た目とは裏腹の、ある意味期待外れの、優しく、丁寧な口調で、彼女は僕の持つスマートフォンを指した。ポケットに仕舞う寸前だったスマートフォンを。
スマートフォンを『携帯電話』と呼ぶのも、なんだか珍しい気がするけど、そんなことはどうでもよくて。金髪赤眼の美女が関西弁を喋っているというのが、違和感が凄まじい。標準語で喋ってくれたら納得できるのかと問われれば、また首を捻らざるをえないが。
「ちゅうか、あんた、もしかしてここの人?」
「まあ……うん。そうだけど」
僕の返答に、少女は整った顔を明るくした。
喜んだようだった。
どことなく無表情が似合いそうな少女ではあるが、表情は豊からしい。ゲームから得たステレオタイプとして、このタイプの少女は無表情キャラ、と勝手に決めつけていたが、そういうのは良くない偏見というものなのかもしれない。
「おお、らっきー。なら、この辺の地理にも詳しいやんな?」
「詳しいって自信満々に言えるほどは詳しくないけど……なにか探してるのか? それなら、まあ、役には立てると思うけど」
「ほんまに? ありがとう。なら、携帯電話はええや。道、教えて」
聞き慣れない「ありがとう」のイントネーションに戸惑いつつも、僕は曖昧な表情をして頷いて返す。
「大沼湖ってとこに行きたいんやけど、どっちの方向に歩いて行ったらええの?」
「大沼湖?」
なんともまあ、今日はその名前をよく聞く日だ。
こういうミッシングリンクを見つけると、僕のようなゲーム脳はすぐになにかの伏線ではないかと思ってしまうのだけど――まあ、僕の十七年と少しの人生経験として、こういう偶然はままあるもので、なにかの伏線だったり意外な繋がりがあったりすることは滅多にない。
「それなら北の方だよ」
と言って、それから僕は簡単な道案内をした。
なにかの施設に行きたいならまだしも、湖を案内するならわざわざ地図を描いて説明するまでもない。近くまで行けば自然と見つかるはずだから。
「でも、こんな夜中に湖? あそこ、別になにもないぞ? 景勝地ってわけでもないし、そもそも夜に行くような場所じゃない」
地元民も特別危険な場所だと思っているわけではないけど、だからといって、夜中に水辺に近づくこともそうそうない。うっかり足を滑らせて湖に落ちたりしたら、最悪死の可能性だってないわけではないのだから。
ましてや彼女は、ドレスでヒールだ。
と、そんな僕の心配を感じ取ったのか取ってないのか、彼女はわっははと笑いながら、
「湖ってことは流れてはおらんってことやろ? なら大丈夫、死ぬことはないから」
と言った。
甘い考え方だとは思ったが、本人が大丈夫だと言っているのに、それでもやめておけ、なんて言うほど僕はおせっかいじゃないし親切でもない。
「あ、申し遅れたなぁ。私は葛霧あにめ。よろしゅう」
「葛霧……あにめ?」
「変な名前やろ? ちょっとはずいねんな――で、そっちの名前は?」
なんて話の流れになってしまったせいで『いや、別に変ではないよ』と言う機会を逸してしまったが、まあ、それはラッキーだったかもしれない。嘘を吐かずに済んだから。彼女は変な名前だ。偽名の可能性すらあると思う。
とはいえ、彼女がよしんば偽名を使っていたとしても、僕までそうする理由もないわけで、僕は正直に、
「空木倫禰。空に木で『うつろぎ』、倫理の倫に禰宜の禰で『りんね』」
と、端的に答えた。
「うつろぎりんね」
言われた言葉をただ繰り返したという風に、少女、葛霧は僕のフルネームを口にする――絶対に漢字のイメージはできてないだろうな、と思った。彼女が西洋人的な見た目をしていることには関係なく、倫禰は難しい。特に禰の方が。
禰宜の禰と言っても伝わることはないだろうことはわかっていたが、わざわざ説明することでもないか、と思った。
「ありがとう、リンネ」
表情豊かに笑む少女。
いくら異性に興味がないと嘯いていても、ここまでの美少女にそんな表情をされてしまっては、僕もドキッとせざるを得ない。
ドキドキせざるを得ない。
いきなり下の名前で呼ばれている現状にも、動揺せざるを得ない。
「それじゃ、またどこそで会えたら。……せや、これ聞いとかな」
と、その場に僕を残して去っていこうとした風の、僕に比してあまりにも悠然というか、自然な態度の葛霧は、いかにもついでに思い出したかのように、僕に訊いてきた。
「リンネはさ、人魚伝説って知っちゃる?」
「……えっと、それは食べたら不死身になる方の? それとも、船を沈める方の?」
僕は答える。戸惑いながら。
人魚伝説というのは、ある程度は知っていた。ゲームのシナリオには使われがちなギミックだからだ。
日本の人魚は食べると不死身になり、西洋の人魚は歌声で船を沈める。
翻訳の観点から、人と魚の間の子である生き物のことを『人魚』と訳したが、その実態、語り継がれる風説は日本と西洋では大きく異なる。『ドラゴン』と『竜』の関係のようなものが、人魚にも適用されているのだ。
だから、どっちのことを訊いているのか、と僕は逆質問を敢行したのだけど、しかし、それはまったくの的外れな質問だったらしい。
「ああ、なるほど、知らんてことようわかったわ。ありがとう」
ありがとうとよく言う人だな、と思った。
イントネーションはやはり気になるが。しかし、言われて悪い気分になる言葉でもない。
「私からはそれだけ。リンネも、早う家に帰りな。夜は危ないから。吸血鬼に襲われるかもしれへんで」
そう言って、換言すればこれ以上この場で話す気もないという風に、葛霧は僕に背を向け、そのまま一度も振り返ることなく、湖の方に歩いて行った。
とはいえ、別に急に走り出したわけでもなく、追いつこうと思えば簡単に追いつけただろうけど、僕はわざわざ彼女を追いかけることなんてしなかった――夜に女の子に追い縋るなんて危険な男がやることのように思えたし、人魚伝説というものにも、実はそれほど興味はなかったから。
だから、僕が彼女を追いかけるかほんの少しだけ悩んだのは、人魚伝説とかいうものへの興味ではなく、彼女自身への興味からくるものだった。
「ああ、セーブしなきゃ」
彼女と出会ったことがなかったことにならないように。
そんな風に、無意識に思った。
さっき水無月診療所を出たときにセーブしたばかりなのに――僕は本来、ここまで細かくセーブするタイプのゲーマーではない――それでもまたセーブしたのは、だから、彼女との邂逅がそれほどに衝撃的だったという証左でもある。
衝撃的というか、印象的というか。
ありていに言って、それくらい美しい容姿の少女だった。
葛霧あにめ。
彼女が何者で、なにを目的としていて、なにをしていたのか――それらのことを、もちろんこの時の僕はまだ知らない。
まだ。
あるいは――




