002
「結論から言うとだね、空木くん」
問診を終えて、瘦せぎすの医者は僕の方を向いて、言った。口調は気楽そうなものだった――それはたぶん、不真面目でも不謹慎なのでもなく、高校生の子供を相手にするうえで、あえて深刻にものを話す必要はないだろうという気遣いなのだ、と僕は解釈した。
子供扱いを不満に思うほど、僕は子供じゃない。少なくとも精神的には。そういう風に自認している。もちろん、子供扱いを好んで受け入れるつもりはないのだけど――だが。
続いた水無月先生の話は、そんな僕をまさしく『子供扱い』する言葉だった。
「君のそれは、ゲーム脳は、病気じゃない――言い換えて、僕の職掌じゃない。病気ならばもちろん、僕は全力で治療に当たるのだけど、君のそれはただの癖だ。思考の癖。思考の指向。ただのパターン。治せるものじゃないし、治すべきものでもない」
「………」
治すべきじゃない?
治るものじゃない、というのは、まあ納得できるとして――そもそも、ここを訪れたときは、僕の抱える問題が解決されることはないだろうと思っていた。だが、この水無月先生の才覚によって、僕はいつの間にか、自分が常識的な人間に戻れるのではないかと勘違いしていた――しかし、治すべきじゃないというのは、なかなか納得いかない。
「君が世界をゲームのように捉えてしまうのは、別にゲームのやりすぎが原因じゃない。たとえば、君が生まれてこの方一度もゲームというものに触れてこなかったとして、それでも君は今と同じような思考パターンを持っていたと思われるね。それは君の生まれ持ったものだ。生得の性格――つまりは才能だ」
「才能……いいように言いますね」
「いいものだからね。羨ましいよ――いわゆるゲーム脳の子供だってね、本当は現実と向き合っているんだよ。でも、ゲームの世界に逃避したい自分と現実を直視してしまう自分という矛盾に苦しんでいる。だから、それは病気だ。僕の治療の範囲になる。でも君のは違う。君は本当の意味で現実をゲームと捉えている。世界を俯瞰している。それは才能だ」
「………」
「でも、だからこそ苦しんでいるんだろうね、君は。天才の苦悩ってやつかな? ゲーム脳なんていう安直な言葉に縋って、苦しい現実から簡単に逃避できる他の子たちに嫉妬するのも無理からぬ話だ。君にはできないものだからね、現実逃避というのは。だって空木くんにとって、世界をゲームとして捉えることそのものが現実なのだから――君はそれが嫌なんだよ。君が今抱いている気持ちを簡潔に説明するならば『どうして僕だけがこんなに苦悩しなければならないんだ』っていう不満なわけだね」
なにか反論すべきだろうか、と僕は悩んだ。
だが、そんな悩みが生まれる時点で、もう反論できないことを自分で証明してしまっている。本当に彼の言っていることが的外れなら、考えるまでもなく反論が浮かぶはずだから。
だから、僕は選択する。
彼の言葉に反論しないという選択肢を、選択する。
ゲームのように。
「ご両親が構ってくれないという現実も、妹さんと不仲という事実も、年頃なのに異性に興味を抱けないという欠点も、君は自分という主人公の、つまり、プレイヤーのキャラクター設定だと思っている。だが、人には心というものがある。空木くんにももちろんある。だから、理性ではない心では、『不和のある家族関係をストレスに思わなければならない』とか、『異性を好きにならなければならない』とか、そういう常識に苛まれる――人としての当たり前はゲームや小説から知識として入手していた。だからこそ、その食い違いに苦しんだ。君にとって世界はゲームかもしれないけど、自分自身だけはプレイヤーだ。自己葛藤だけが君を傷つけることができる。もしかして、君はゲーム脳のせいで人を殺してしまうような人間を、本心では、本当の心では、羨ましいと思ってしまうんじゃないかな? そうやって平易に現実から逃避できてしまう他人が、羨ましくて仕方ないし、そして羨ましく思ってしまう自分が後ろめたいんじゃないかい?」
「……はい」
僕はやっと頷いた。
反応らしい反応がやっとできた。
僕にとって、現実から目を逸らす行為は憧れの対象だった。
ゲームをしていてもどこまでも現実感を感じてしまう僕は、いつだってどこだって、どうしても現実を直視しなければならない。
だからこそ、だ。
だからこそ、不和のある家族や、少しだけ異常な性質を持っている自分を直視しなければならず、そのことをただの設定と捉えていて苦痛にも思わない自分を、僕は激しく嫌悪している。
「君はただ、どこまでいっても自分に不快感を覚えているだけだ。コンプレックスでもなく、うつ病でもない。自分の才能を、自分の異常性だと思って不満を覚えているだけだ。顔立ちの綺麗な女の子が、自分が美少女であることをコンプレックスに思うようなものだね。だが、それは結局、逆恨みのようなものなんだよ。君はゲームの主人公かもしれないけど、世界の中心は君じゃない。だから、君の人間性や倫理的苦悩について、世界はなんの責任も持っていないんだ、君が苦しんでいるからといって、世界がそれに付き合わなければならないなんてことはないんだから」
「……そうですね」
その通りだった。その通りでしかなかった。冷徹なまでのロジックが、今、僕の前に提示されていた。
僕の問題は、個人的な問題は、あくまで個人的な問題でしかなく、世界はそのことについてなんら責任を負っていない。異常な僕が正常になるように、世界の方こそ変わってほしいと、僕は思っていたのかもしれないけど、それはなんとも傲慢な考えだったと反省しなければならないだろう。
なるほど。
そうか。
結局悪いのは僕だったのか。
自分の人間性に問題があっただけなのか。
そう思うと、気持ちがとても楽になった。背中に乗った重しが、ふと一気に取れてなくなってしまったかのようだった。
「問診した上での結論を纏めよう――もちろんこれだけの、ほんの一時間にも満たない問診で君のなにかがわかったつもりになんてなっていないから、これはただのひとつの指針として聞いてくれ。君が『違う』と思えば『違う』のかもしれない、そんな程度のことだ」
「はい。聞かせてください」
「君を苦しめているものの正体は『みんなとは違う』という感情だ――これはある意味、正常な気持ちであるとも言えるしその逆とも言える。君くらいの年齢にとって、集団から浮くことは恐怖であり、また誇らしいことでもあるわけだからね。まあ、君はそれをまったく誇らしく思っていないし、どころか嫌悪すら抱いているようだけどね」
「……はい」
「勘違いしちゃいけないのは、誰かと違うということは、誰かより劣っている、というわけではないということだ。まあ、君は自分が劣っていたとしても、それにコンプレックスを抱くような人間ではないかもしれないけどね。そういうステータスのキャラクターなんだ、と思って、それで終わりだっただろう」
それはあまりにも酷い言い草だったが――医者としてあるまじき言い方だったかもしれないが、僕はそんなところには無反応だった。その通りだったからだ。
図星を突かれた人間の常として、僕はともすれば激高しなければならないかとも思ったが、結局はしなかった。激高なんてしていなかったからだ。
学校や家の中なら、そういう振りをしたかもしれない。
でも、今は目の前の医者によってそういう僕の異常性を看破されいている最中だった。
「君は現実を現実的に見ないという形で、現実的に現実を見ている。ゲームが好きだからゲーム脳なんじゃない、ゲーム脳だからゲームが好きになったんだ。それは社会的に見れば異常者なのかもしれないけど、ある種のギフトだと僕は捉えるね」
「ギフト……」
「天からの贈り物、才能だ。その才能のお陰で、君は誰よりも現実に対する適応力が高いのかもしれない――たとえばこの瞬間、僕がいきなり心臓発作かなにかで倒れたとしても、君は焦らず慌てず、まずはその事実を受け入れて、僕の蘇生を試みるだろう」
自分が死んでも、それすら俯瞰して受け入れてしまうのかもしれないね、と水無月先生は付け加えた。ことのついでみたいに付け加えられた言葉だが、本来はそんなおざなりに発する言葉ではない。
人が死ぬこと。
僕が死ぬこと。
まだ高校生の僕にとって、それはいまいち上手くイメージできない事象ではあった。ゲームの中の世界くらい、上手くイメージできない。いやそもそも、種類種別に関わらず、僕は自分のことについて上手くイメージできない。主人公のキャラクタークリエイトについては、いつもテキトウに済ませてしまう質のゲーマーだった。
「君のその人間的特性がどこに出自を持つのかという議論はひとまずは措くとして――問題なのは、君にとっての問題なのは、普通じゃない自分を、君が恥じていることなんだ」
「………」
「人と違うことは普通誇るべきことなのに、君は恥じている。あるいは恨んでいるのかな? 羨んでいるという可能性もある。どうにしろ、君は自分の特異性を『特別性』ではなく『異質性』だと捉えているんだね。それが問題なんだ」
水無月先生は言う。診断の結果というには、やはり口調はフランクなものだったが。
「君の現状を型に当てはめることを僕は好まないけど、それでもあえて医者らしい言葉を遣うなら、君のそれは不安障害の一種と言えるかもしれないね。一種というか一形態というか。君は『いつか自分はとんでもないことをやらかすのではないか』という不安に支配されている。『こんな自分は危険じゃないのか』という気持ちだ――いつか酷い犯罪を犯してしまったり、親しい誰かを傷つけてしまうのではないかと恐れている。君が女の子を好きになれないのは、そういう不安が大きく寄与しているのかもしれないね。優しいんだよ、君は」
肯定はしなかった。
理由として、僕の中にそんなはっきりとした形で不安が存在していたわけではないからだ。それは漠然としていて、茫洋としてた気持ちだった。それが今、水無月先生によって言語化されていくことで整理がついていた。
整理整頓されて行って、収納されていった。
それは僕にとって快感だった。
世界中の誰よりも空木倫禰という人間を理解できていない僕にとって、その正体が解明され、解体されていくことが、気持ちよくないわけがなかった。
まるで、自分の存在に名前がついたかのような感触。
自分に名前があること。自分を定義できること。
僕を支配していたのが不安感だとしたら、その特効薬であるところの安心感が、僕をじわじわと満たしていた。
「君のその思考パターンは才能だ。本来は誇るべきこと。今すぐ君に『自信を持ちなさい』というのは難しいことだけど、まずは『気にしない』でいいんじゃないかい?」
「気にしない、でいいんですか?」
「気にしないというのは、一番難しい治療法なんだけどね。気にしないように気にしてしまう時点で、もう矛盾が生じてしまうから――それに、これはあくまでも個人的意見だけど、才能のある人間はその才能に自覚的でなければならないとも思うんだ」
水無月先生はカルテにペンを走らせながら口を動かしている。
もうすぐ問診が終わるのだと、なんとなく察した。
「でも、まあ、これこそ時間の問題だろうね。君に眠っている才能を、君もそろそろ自覚する頃だよ。高校生は半分くらいは大人だしね」
その言葉の意味はよく分からなかったが、結局は継続的な通院の必要はなし、ということで、僕は診療所を後にした――もしまた考えすぎることがあったらいつでも来てくれていい、という言葉を、処方箋がわりに受け取って。
「まああまり深刻にならないことだ、空木くん。意外といないわけではないんだよ、君のように世界と自分の間に生まれた矛盾に苦しんでいる人間って――だから空木くんも、どうにか自分を納得させて生きていくことを覚えないといけないね」
そんな言葉通り、僕の悩みはありがちなものだったのかもしれない。わざわざ病院に来る必要のある物ではなかったのかもしれない――悩む必要のないものとは言わないまでも、一生悩み続ければそれで済んだ話だったのかもしれない。
我ながら、思春期さながらの潔癖を拗らせてしまったし、なまじ本やゲームで一知半解の知識を持っていたがゆえに、気付かなくいい問題や、抱かなくていい不安を持ってしまっただけだと言えよう。ゲームや小説のシナリオではそれがまるで一大事のように誇張して書かれることが多いけれど、自己矛盾なんて、誰だって持っている葛藤だ。
ひと言で言えば『考えすぎ』。
それだけの話だった。
「そういえば、これは完全に問診とは関係ない、完全に私的な質問なんだけど」
と、水無月先生は最後に僕に訊いてきた。
「僕は最近この辺に来たばかりでよく知らないんだけど、この町の北にちょっとした湖があるよね?」
「大沼湖ですか?」
「ああ、大沼っていうんだ。まあ、ありがちな名前だね。その湖についての質問なんだけどさ、あの湖って、冬になると凍るのかい?」
「……今、四月ですよ?」
「わかってるよ。今が四月であることも、桜吹雪の季節に霜は降らないこともね。むしろ、四月になってしまって自分の目で確かめることができなくなったから、こうして地元民である空木くんに訊いているんだ」
「あまり意味がわかりませんが――大沼湖ですよね……えっと、たしか凍らなかったと思いますけど」
「そうかい。貴重な情報をありがとう」
その言葉を背に受けながら、僕は水無月先生の診療所を後にした。
それから『ああ、ここでセーブしなきゃ』――なんて思って、凝りもせずにそんな癖を披露している自分を大きく恥じた。
いや、でもいいのだったか。
僕は僕らしく生きてもいいのだ。それが異質でも異常でもなく、特別なのだと理解できる日がいつか来ると、水無月先生が言っていた。
だからそういう風に自分を納得させて、僕は帰りたくない家への道を行く。
夜が空を覆っていた。




