023
「だからさ、空木くん――友達にこんなこと言われたくないだろうけど、言われたくないだろうから言うけど、妹ちゃんと、そろそろ仲直りするべきだと思うな」
四月二十一日、放課後。
未来から帰ってきたばかりの僕を、そんな言葉と共に百目鬼が迎えた。その華奢な四肢、丸い双眸、茶色の髪――すべてが揃っている。未来のために僕が見殺しにした、無二の親友、百目鬼小夜が僕の顔を覗き込んでいる。
その事実に、やはり僕は感動しない。
「空木くん? 聞いてるの?」
「――今、丁度戻ってきた、未来から」
謎に倒置法を使ってそんなトンチキなことを言った僕を、百目鬼は丸めた目で見ている。しかし彼女も賢い――僕など及びもつかないほどの頭脳を持っている彼女はすぐに言葉の意味を解して、納得したような表情した。
「なるほど……そっか。セーブポイントをここに更新してたんだね?」
そういうことだ。
五周目の世界線で、僕は『セーブ&ロード』のセーブポイントをこの二十一日の放課後に設定し直していた。問題はそんなことが可能なのかどうなのかという点だったが、結果から推察するに、可能だったということらしい。できたということはできるということだ。
やはり、僕はループの始点を自在に設定できる……。
「百目鬼、悪いけど僕はやることがある。図書整理はお前に任せていいか?」
「この状況でさすがに駄目とは言えないよね――まあ、今までの話が全部嘘で、すべてこの図書整理の仕事を体よくサボるための作戦だったんだとしたら……もう笑うしかないよ」
「お前を笑わせてやれないことが悔しいぜ」
僕はそんな軽口を言い遺して書庫を後にした。春麗らかな校舎を早足で駆け、一年生の教室がある後者の二階へ。西階段を昇ってすぐ左の教室。そこに一年五組の教室はある。一年五組、言うまでもなく、折紙の教室だ――僕はここを、もちろん初めて訪れる。さすがに放課後ということもあって、教室は疎らな人影があるだけだった。なんにせよ、折紙がそこにいるならそれでいい。
折紙。
僕の妹――僕の死に際に、惨めったらしく泣いて縋った僕の妹。僕のことが大嫌いで、大好きなたったひとりの家族。
思えば、僕よりもずっと頭のいい折紙がこの学校を受験したのも、僕がこの学校に通っているからだった――いや、逆だったろうか? 折紙の適正学力の高校に入学するため、僕は中三から急に勉強を頑張って偏差値を5ポイントほど上昇させたのだっけ?
正しくは覚えてないけど、たぶん、どちらかだった気がする。あるいは両方かもしれない。答えは杳として知れない。
『妹ちゃんと、そろそろ仲直りするべきだと思うな』
わかってるよ、百目鬼。そんなことはわかってる。
でも、そんな簡単に言わないでほしい。そんな簡単なことじゃないから――いや、簡単なことなのか。誰にでもできることを、僕が、そして折紙がやっていないというだけのことなのか。欠陥を抱えた僕たちは、地獄を勝手に回遊する。
さて、廊下から教室を覗くのも飽きてきた。そもそも僕には時間がないのだ。僕は覚悟を決めて、五組の教室に足を踏み入れた。折紙は誰か女の子の友達と喋っていて、その喋っていた子が僕に気づいて、折紙の肩を叩いた。彼女が僕を指さす。折紙が振り返る。僕らは視線を交える。
「お兄ちゃん……? なにしに来たの? ここ一年生の教室だよ。自分の知性の適正教室に足を運びたかったなら、来るべき場所は一年生の教室じゃなくて小学校じゃないかな?」
「僕はそこまでアホじゃねぇわ。ふざけんな。お前に話があってこうしてわざわざ教室まで出向いてやったんだよ、愚妹。愚にして妹。本来はお前から出向くべきところだぞ感謝しろ。僕がお前に話があるときは、それを察してお前から僕のところに来い」
「なにを言ってるのかな、この馬鹿お兄ちゃんは。馬にして鹿お兄ちゃんは。お兄ちゃんが私に話? ありえないね。まるっきりの不可能だね。私がお兄ちゃんにかける言葉もつける薬もないように、お兄ちゃんが私に話しなんてあるわけないね」
「だから話があるって言ってんだろ。ありえないことなんざねぇんだよ。いいから話を聞け――まあ、話っつぅか、僕はお前を叱りにきたんだよ。馬にして叱りにきたんだよ。大人しく怒られろ」
と、どうしても喧嘩腰になってしまう僕たちの会話。折紙と話していた女の子も視界の端でオロオロとしている。ただ、これは兄妹喧嘩というよりはただの兄妹言語というか、このレベルでは互いに喧嘩だとは思っていない。
ノーマルな会話がすでに喧嘩腰なだけだ……いやこれ、仲直りとか可能か?
妹ごときの機嫌を取るなんて猿でもできると思っていたけど、実際にこうして相対してみると、僕らの間にはマリアナ海溝よりも深い溝が横たわっているように感じてしまう。
「怒られる? お兄ちゃんに? お兄ちゃんごときに? まるで心当たりがないんだけど」
「お前が夜遊びを画策してるっていう話は僕の耳にも届いてんだよ。誰彼構わず誘ってるって? 馬鹿が馬鹿なことしてんじゃねぇよ。お前は大人しく家で勉強でもしとけ」
「勉強すべきはお兄ちゃんだけどね。値下げしなよ、このお兄ちゃん野郎」
「いや、値下げはしないが……」
「お兄ちゃんなんかに私生活を監修される謂れはないね。関係ないでしょ、ほっといてよ」
「お前は僕の妹だぞ。そして僕はお前のお兄ちゃんだ。僕以上に関係している奴がひとりでもいるってのか? ――もう一度言うぞ、折紙。僕はお前に夜遊びしてほしくない。少なくとも今夜は駄目だ。どうしても夜に出歩きたいって言うなら、僕がまた後日にでもエスコートしてやる。だから今日はやめろ……やめてください」
折紙を死なせるわけにはいかない――そして、二度と僕が死ぬところを見せるわけにもいかない。
絶対に。
「……なによお兄ちゃん。真面目ぶっちゃって。妹の夜遊びを厳しく取り締まるなんて、シスコンみたいじゃん」
「お前の存在はいつだって僕のコンプレックスだよ」
「酷いことを言うね。およそ人にものを頼む人間の態度とは思えないよ」
折紙はひとつ嘆息した。
攻撃的な目つきは鳴りを潜めたが、その溜息が呆れを象徴しているというのなら、不承不承なのだろう。
「わかった。今日は家にいる。そうすればいいんでしょ?」
「ああ。お前がそうしてくれるなら、昨日余計なことを言ったことは、謝ってやってもいい」
僕は背を向けて、教室の外を目指しながら言った。
未来のことを、過去形で言った。
「悪かった」
僕が死ぬところなんて見せて、悪かった。
僕だって、お前が人魚に殺されているのを見たとき、正気を保つことはできなかったんだ。お前も、同じだったんだよな。わかるさ。わかるから、謝る。悪かった。申し訳ないことをした。ごめんなさい。もう二度と僕が死ぬところなんてお前には見せないから、だから、許してくれ。
そして僕は教室を飛び出して、昇降口で靴を履き替え、学校を飛び出した。
空は少しだけ赤らんでいた。
ああ、妹の説得に少し時間をかけすぎたらしい。陽が完全に落ちるまで、あとどれほどの猶予があるのだろうか。僕は夕焼けに向かって走った。太陽が沈む十倍もの速さで走った。気分はメロスだった。友人の命が懸っているのである。状況は大体一緒だ。
町外れの廃ビルには、割とすぐに到着した。学校からは割と近かったのだ。そして、大沼湖からはほどほどに遠い。なるほどこれは、葛霧が遅れるのも納得ではある。
かつて美容室のテナントが入っていた廃ビルは、なるほど『廃れる』という感じがよく似合うほどに廃墟然としたビルだった。外壁のコンクリートはボロボロだし、窓ガラスはところどころ割れている。当然のように、ビルの前には『立ち入り禁止』の立て札があったが、そこはもちろん無視して廃ビルに足を踏み入れた。
僕の記憶が正しければ、このビルは少なくとも十年前までは美容室が入っていて、管理されていたはずだが、しかし自然とは恐ろしいもので、今ではすっかり風化した有様だった。廃墟よりも廃墟然としている。人が思う実際の廃墟というより、アニメとか漫画に出てくる廃墟の方が、イメージとしては近しいかもしれない。
地面にところどころ転がった瓦礫に足を取られでもしたら大変だ。もちろん電灯は生きていないから、室内はかなり暗い。割れた窓から差し込む西日が唯一の光源だ――ふむ……割れた窓ガラス、ね。
僕は窓辺に近寄って、割れた窓からガラス片とひとつ回収し、それでちょっとした準備をして、三階に向かった。
ここに、潜んでいる。
彼女が影を潜めている。
葛霧あにめが、影の存在しない吸血鬼が、息を潜めている。
「……っ」
果たして、いた。
葛霧あにめはそこにいた。割とすぐに見つかって、逆に肩透かしを食らった気分だった――ヘアカット用の椅子に身体を預けて眠っていた葛霧は、僕の気配に気づいたいのか目蓋を開けて、細めた赤い目で僕を見た。
「んえ……ん、誰?」
相も変わらず、関西風イントネーションの彼女。どうやら寝惚けているらしい。
ここから、僕は未来から来ました僕の血を吸って記憶を覗いて僕に協力してください、という交渉があることも、それが長引くことも、僕は未来の経験として知っていたので、そこはさっき行った『ちょっとした準備』を活かすところだった。
「えっと……あんたは、たしか……ああ、リンネ?」
と、僕の名前を思い出すのにうんうん唸っていた葛霧の口を、僕は塞いだ。
口を塞いだというのは、この場合詩的な表現であり、もっと簡潔に、いっそ味気なく表現するなら、僕は葛霧に無言でスタスタと近づき接吻していた――そして驚きのあまり硬直したその唇を舌でこじ開け、無理やり口内にそれを捻じ込む。
ここからの展開はR-18だぜ!
というわけでは、もちろんなく。
僕は口の中に溜めていた、リスのように頬袋を膨らませて溜めていた血液を、葛霧の口内に流し込んだのだった。無理やり。
葛霧はもちろん、最初は抵抗しようとしたが、僕の記憶の断片を見たのか、すぐに大人しくなって、僕の血液の口移しを受け入れた――いや、受け入れはするなよ。どんだけ勢いに弱いんだ、こいつ。心配になる。
そして、口の中に溜めた血液をすべて葛霧に移し終えたあと、僕はゆっくりと唇を離した。不思議と性的興奮はなかった。
「腕」
キスのあとの気まずい空気――葛霧はそんな端的な言葉を言った。
端的すぎて意味がわからなかった。
「ん?」
「そやさけ、その腕――だんないの? なんぼ血ぃ飲ますためとはいえ、自分の腕を思いっきり切るなんて……痛いやろ」
そう。
僕は葛霧に血を飲ますにあたり、その血液を入手するために自分の左前腕をガラス片で切りつけていた。だから、僕の左腕には今、まるで刃物強盗に襲われたかのように、大きな切り傷ができている。まあたしかに、見た目は痛そうだ。
「いや、結構ズバッといってるように見えるかもしれないけど、あくまで表面を薄く切っただけだし、あんま痛くないよ」
「痛ないのは、私の唾液を摂取したからやろ。結構な傷やん、見して」
そう言われてはそうなのかもしれない、と、僕は左腕を差し出す。ぱっくりと開いた傷からは、未だに血がどくどくと溢れている。
葛霧は「しゃあないな」と呟いて、着ているドレスの裾を破り、その布を僕の腕に巻きつけた。
え?
いや、え……今、さらっとドレスの裾を破りましたか、こいつ。
こんないかにも高級ですって感じのドレスを、なんの躊躇いもなく?
「いや、なにしてんだお前」
「止血や。見ればわかるやろ」
「いや、ただの止血にそんな高そうなドレスの裾を使うなや。どうすんだそれ、僕、弁償とかできないぞ。使うなら僕のワイシャツとかを使えよ。高級ドレスをなんの疑問もなく破くな。止血なんかに高級ドレスを使うな。お前は万札で尻を拭く金持ちか――つぅか、お前それ、一張羅なんじゃなかったっけ?」
「そうやけど、怪我人を放っとくよりはマシ。血とか見てられやんもん」
「吸血鬼のくせに?」
葛霧が傷口をドレスを端布でギュッと縛る。ううむ……やっぱり痛くない。吸血鬼の唾液に含まれる麻酔効果は、まったく恐ろしいものである。瓶に詰めて売ったら飛ぶように売れたりしないかな。吸血鬼の唾液麻酔薬。あるいは、美少女の唾液として売っても利益が出そうだが。むしろそっちの方が儲けが出そうだが――世の中真っ暗だぜ。
「で、葛霧――さっきの量の血で、お前は僕の記憶をどこまで見ることができた?」
「今晩、大沼湖に人魚の群れが出てくることはわかってる」
「そこまでわかってれば、まあ、全部わかってるに等しいな――僕の目的は、人魚の親玉である湖の龍の討伐だ。僕はお前にそれを手伝ってもらうために、こうしてここまで戻ってきた」
「龍? ふぅん……そのためにサヨちゃんとみすみす見殺しにした、っちゅうか、犠牲にしたん? リンネって女々しい顔してる割に意外と鬼畜やんな」
「鬼畜……ね。ああ、そうか……そうかもな。本当の鬼とは、人の心の中に住むものだったんだな」
「やかましいわ」
やかましいわ、はこっちのセリフだ。
なにが女々しい顔だ。やかましいわ。僕の顔はそこまで女々しくねぇ。百目鬼には折紙と気持ち悪いくらい似てると言われたことがあるけど、実際、僕は平均的な男の子の顔立ちをしていると自認している。たしかに髪は長くてポニーテイルに結っているが、それだけで女扱いされるのは不満だ。大いに不満だ。
「とにかく、日の入りまでもう時間がない。大沼湖に急ごう」
「でも、日が沈まな私はこっから出られやん」
「地下を通っていけばいい。ビルの東側にマンホールがあった。東側は今は影になってるから、そこまでは行けるはずだ。で、そこからはマンホールに入ればいい。雨水路だから、匂いとかも気にしなくていいぞ」
ちなみに、そのマンホールが繋がっているのが雨水路か下水路なのかというのは、マンホールの模様を見ればわかる。結構簡単にわかる。雨水路のマンホールには『雨』と書いてあるのだ。だから、このビルの東側にあるマンホールは雨水路で間違いない。
それはまあ、ある意味ラッキーだった。状況的に、そのマンホールが下水路に繋がっているのだとしても、そこを通ってもらうよりないのだから。
マンホールの蓋を外すのにも本来は専用の工具が必要になるのだけど、そこは吸血鬼の吸血鬼パワーでなんとかなるだろう。人魚の硬質な鱗を両断するだけのパワーがあるのだ、夜じゃなくても、マンホールを持ち上げるくらいの力はあるはずである。
「つぅか、マジで時間がない。色々と予定より時間を食いすぎた――数十秒遅れるだけで百目鬼の命が危ないんだ。急ごう」
スマートフォンで時間を確認する。
現在時刻十八時十一分。
日が沈み、そして人魚が現れるのが十八時三十分頃――もう、ニ十分もない。
焦った様子の僕に、葛霧は真剣な表情をして、コクリとひとつ首肯。
そしてスタイリングチェアから立ち上がって、自分が映らない鏡をちらりと見た。どうやら寝癖を確認しようとしたみたいだったが、それは叶わなかったらしい。諦めたようにテキトウに手櫛を入れて、それから、葛霧は僕を見た。
「ほな、連れもて行こか」
夜が始まる。




