022
そう。
これは、そういう作戦なのである――百目鬼を犠牲にするという作戦。なにも、無策で二周目と同じ道を歩もうとのこのこ大沼湖まで来たわけではない。百目鬼が人魚に集られて命を落とすことは、作戦通りであり、予定調和だった。
その作戦を、僕は百目鬼に伝えていない。僕のために死んでくれ、なんて、どんな顔をして言えばいいのかわからなかったからだ――ただ、百目鬼はなんとなく僕の作戦を察していてくれたのではないかと、思う。
思うだけ思う。
そういう風に正当化する。
風よりも速く走ったつもりだったけど、しかし、所詮は人間の足。人外による人外バトルを見せつけられたあとだと、より一層自分の情けなさが際立つ思いだったが、僕の走力なんてのは一般的な男子高校生のそれだ。
目的の林の入り口に立つ頃には、僕は、百目鬼の足止めから逃れた人魚に追いつかれていた。一匹……たった一匹の人魚だ。しかし、それが僕には致命的である。百に近い数の人魚を百目鬼に押し付ける作戦を決行したくせに、自分では一匹とて相手できない。
「……っ!」
目の前に立つ塞がる人魚。
拳を振り上げる人魚。
ギザギザの歯を口から覗かせて、拳を振り下ろす人魚。
それらを、僕は極限状態の中、ストップモーションのように眺めていた。
殴られる。
そう思って、腕をクロスしてガードを構えた。構えてから、ガードが意味をなさないことを悟った。すべて遅かった。慌てて身体を反って攻撃を躱そうとするが――
ばすんっ!
という、あまり聞き慣れない音が、大人のない林の中に響いた――しかし僕は、それがなんの音であるのか瞬時に理解できた。
それは人体が切断される音だった。強引に、無理やり、言うなれば力ずくで引き千切るように、切断される音だった――もちろんそんな音を聞いたこともない現代日本生まれの平和ボケした日本人である僕がその音の正体に思い至ったのは、自分の腕がクルクルと回転しながら飛んでいくのを、両の目でしっかりと見ていたからにすぎない。
避けたつもりが、避けきれなかった人魚の拳を食らった右腕が……。
僕の右腕が……。
「あ、あああっ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
以前、腹に風穴を開けられたときは、あまりにも痛すぎてキャパシティダウンしたのか痛みすら感じなかったが、今回の右腕に関しては、その生々しい痛みをすべて味わうことになった。意識が飛びそう――というか、一瞬失神して、またその激痛で目が醒めた感じだ。
腕がただの一撃で引き千切れた。
さすがは人魚、ならぬ龍の眷属――なんて、相手を讃えている余裕は、ない。
作戦……僕には作戦があったはずだ。
それはなんだっけ?
痛みと失血のせいで、上手く思考が纏まらない。
後頭部をぶつけた。鈍い痛み。
どうやら、腕を持っていかれた衝撃で尻もちをついてしまったらしい。後頭部にぶつかったのは、木の幹だろうか。僕は木に背中を預け、脚を投げ出すような姿勢で座り込んだ。聞いた話によると、この姿勢が最も思考するのに適した姿勢だと聞いたことがあるが、それが本当なのかわからないし、狙ってこの姿勢と取ったわけでもないし、そして思考はやっぱりままならなかった。
僕はほとんど朦朧とした意識の中、残った左手で制服のズボンからベルトを引き抜いていた。
それを腕に巻きつけ、引っ張る。思ったように力が入らなかったが、どうやら出血の量を減少させることには成功したようだった――ほとんど本能的にそんなことをしていた。人間の本能は奥深いと思わされる。
そして、だから、これもやっぱり本能で、僕は続けて左手で地面から土塊を拾い上げ、僕を見下ろす人魚に向かって投げつけた。土塊は見事命中。人魚の顔面を少し土で汚して、それだけだった。人魚が首を振って土を振り払って、終わった。
人魚が再度拳を振り上げる――しかし、僕の本能がそうさせた土塊を投げる行為がまったくの無駄な足掻きだったのかといえば、そんなことはまったくなく、むしろその足掻きが人魚に、ほんの一瞬だけ、首を振るという動作を強要させ――ほんの一瞬、人魚の動きを止めたという意味では、まさに起死回生だった。
「………」
拳が降ってくる。相も変わらず、殺意も殺気もあったものではない。
その鱗がびっしりと生えた砲弾のような拳が、僕の顔面を捉えようとしたその刹那、人魚の身体がずどんと割れた。先ほど僕の右腕が放った音を、今度は人魚の身体が鳴らしたのだった。しかも今度は、縦方向にだ――その切断線は、綺麗に正中線をなぞっていた。
人魚からすればなにが起こったのか意味不明だったろうが、正面からそれを見ていた僕には誰が人魚を真っ二つにしたのか明快だった。
それはよく知る、とはまだ少し言えないが、しかし待ちわびた少女の顔があった。
「くず……きり……」
そこにいたのは……まあ、ご想像の通り、葛霧あにめだった。
金色の髪を靡かせて、人魚を両断した血液の刃を手に、立っている。
ヒーローは遅れて登場する、なんて皮肉があるが、まさしく遅れて登場したところも含めて、見上げる彼女の姿はまるでヒーローのようだった。ヒーローよりもヒーローのようだった――吸血鬼でヒーローというのも、なんだか平成感のある設定である。
「やあ……というか、よう葛霧。遅かったな待ちくたびれたぜ」
実際のところ、くたびれたどころでは済まない有様になっている僕ではあるが、まあ、ぐちぐちは言うまい。誰でも察しているところではあると思うが――もう、どうせ死んでやり直すのだ。腕の一本くらいで文句を言っていては格好がつかない。
「言うとる場合か! あんた腕が……は、早う病院に行かな」
と、焦った風の葛霧。
そんな、どこまでも人間的な反応をしてくる彼女に、僕はTPOも弁えずに苦笑いを浮かべてしまう。笑ってみると、唇の端が上手く動かなくて、不格好なそれになってしまった。どうも、血を失い過ぎると身体の細かいところが動かなくなるらしい。
片腕を失ってもニヒルに笑っている不敵なキャラに成りきってみたいところではあったが、上手くいかないものだ。
「葛霧、こっちとしても色々と説明してやりたい気持ちはやまやまなんだが……どうも僕の意識がそう長く続くとは思えないから、色々と端折って説明する――頼む。僕の血を吸って記憶を覗いてくれ。そしたら、お前がすべきことは僕を病院に連れていくことじゃないってわかるはずだ」
「血を、吸う……? なに言うとんの?」
「吸血鬼としてのスキルで、僕の記憶を見ろって言ってんだ」
「え……違うで。私、吸血鬼とかやないし」
「その白々しいすっとぼけに付き合ってる時間はないって言ってんだ! いいから僕の血を吸え!」
叫ぶようにして言うと、失ったはずの右腕がキリリと痛んだ。傷口が痛いんじゃない、ないはずの腕が痛いのだ。それは悪寒にも似た痛みだった。全身を這い回り、背筋を逆撫でる不快感。
歯を食いしばって、僕は葛霧を睨む。
強く、強い意思を持って、葛霧の目を射貫く。
「……無理や。そんな状態で血ぃ吸うたら、あんたの血が足らんくなって死んでしまう。死ななんだとしても、救命不可能なレベルまで血を失うことになるのは間違いない。それは私がとどめを刺したのと同じや……そんなんできやん」
「お前ってやつは、どこまでも人間みたいなこと言いやがって……っ」
吸血鬼のくせに――人間じゃないくせに。
僕よりもよほど人間らしいじゃないか。いや、そうか。彼女は元人間の元眷属の野良吸血鬼。人間だった時分があるということだ。なら、人間らしい言動も矛盾はしていない――その人間としての矜持を忘れない姿勢には敬意を抱くし、なんなら嫉妬すら覚えるところではあるけど、今ばかりは煩わしいことこの上ない。
ここで彼女が僕の血を吸ってくれなければ、作戦は失敗だ。作戦が失敗に終わるということは、つまり、百目鬼は無駄死にだったということになる。
それは認められない。
「……安心しろよ葛霧。僕は不死身だ。吸血鬼のそれとはちょっとベクトルが違うけど、ある意味、僕の不死身は吸血鬼のそれを上回っているとも言える――僕が本当の意味で死ぬことはない。だから、ひと思いに僕の血を吸ってくれ」
「なに言うちゃんの……? 不死身って、あんた正気?」
「僕を信じろ葛霧! お前がそうやって躊躇ってる時間だって、僕の友達が命懸けで稼いだ時間なんだ!」
こういうとき、僕は声を荒げることを厭わない。クールキャラで売っている空木倫禰だけど、その本性は徹底的な合理主義者だ。気迫で押せると思ったなら、怒声でもなんでも上げる。それが最効率であるなら、どんなことだってする。それが僕っていう奴なのだ。
そして葛霧あにめという少女は、思いのほか勢いに弱い。だからこそ、僕は叫んだ。身体を捩って右腕から血を迸らせたのも、もちろん、計算の内である。
「……ほんまにええの? 言うまでもないけど、あんた、死ぬよ」
「僕は死なないよ」
言って。
僕は彼女が血を吸いやすいように、首筋を差し出した。葛霧の赤い瞳が闇夜の中で妖艶に輝く。それは妖しい色を放っていた。僕はそのふたつの赤から目が離せなくなる。ドラキュラはその美しい容姿で異性を惹きつけてやまなかったという。彼女も、僕の心を掴んで離さない。
僕が息を飲んだとき、奇遇にも、葛霧も息を飲んだ――いや、彼女が飲んだのは生唾だろうか。僕の首筋を見て、美味しそうとでも思ったのだろうか。そうか、僕の首筋は美味しそうなのか。吸血鬼の本能ってやつが、きっと葛霧にもあるのだろう。僕の項が彼女の食欲をそそったのなら、それは都合がいい。
「……じゃあ、吸うで」
「ああ、殺すつもりで吸ってくれ」
そして、葛霧は僕に覆い被さって牙を突き立てた。
痛みが……僕を蝕むすべての痛みが、急激に快楽へと変わっていく。痛いのが気持ちいいのではない、痛いが気持ちいいに変わっていくような、代わっていくような感触。
血が抜けていく。
葛霧の息が首筋にかかって擽ったい。耳の裏がぞわぞわとする。
僕はいつの間にか、残った左腕で彼女を掻き抱いていた。彼女は何度も首の角度を変えながら、いいポジションを探るようにして何度も僕の首を噛む。甘い……甘い痛みと、甘い香り。
身体から力が抜けていく。
血液は生命の根源――古代ではそう考えられていたらしい。実際のところは、血液は酸素と栄養を運ぶ役割を持っているだけで、生命の根源でもなんでもないのだけど、吸血鬼の吸血は血と一緒にその存在を喰うらしい。彼女は今、僕の血と一緒に生命力を喰っているのだろう。
力が抜けていくのは、血が足りなくなっているからであり、そして、生命がすり減っていくからなのだろう。甘美な死の気配が、僕の鼻先を飛び回っている。
やがて、葛霧が僕の首筋から牙を抜いた。なんとも言えない快感。
僕は少し照れ臭く思いながら、葛霧と向き合った。葛霧はいつかの夜と同じ目で、僕を見ていた。そこにはもう、一ミリとて余所余所しさなどありはしなかった。
思い出したのだ、すべてを。
やっと……やっと。
こういうとき、なんて言えばいいのかわからない。
だけどなにか言うべきだと思って、僕は言葉を探した。そして、こういうときにぴったりな言葉は意外と身近なところにあった。
「……おかえり」
その言葉は身近で、そして身近ではない言葉でもあった。舟の道のように近くて遠いものだった。空木家では、その言葉を日常使いはしない。
だから、慣れないその言葉を口にするのは、少しばかりの恥ずかしさがあった。
だけど、言ってよかった。
「ただいま」
そう言って、葛霧あにめはギラリと笑う。
こうして、葛霧は僕の辿った世界線の記憶を取り戻し、世界もまた、葛霧あにめを取り戻した。
「リンネの血ってこんなにうまいんやな」
「初めて吸うわけでもねぇだろ」
「この世界線では初めてやろ。記憶を見れるて言うても、それはリンネの記憶を見れるだけで、リンネ視点の記録を見ることになるわけやから、私がどう感じたかはわからんのよ」
「そういうもんか」
「そういうもんや」
血が美味しいというのは、褒められているという認識で相違ないのだろうか――まあ、不味いと言われるよりはいいか。不味いよりは美味しい方がいいに決まっている。特に栄養管理とかしているつもりはないけど、とはいえ健康優良児ではあるし、そこら辺が関係しているのかもしれない。もしくは関係していないかもしれない。存在を喰う食事である吸血に、血液の成分がそこまで関係しているとも思えないし。
「葛霧――めでたくも記憶を取り戻したところで、僕としても朋友の信を深めたいところではあるんだが、残念なことにそんな暇もない。交友を温める前に僕が冷たくなっちまう。僕の記憶を見たなら、僕の作戦も知ってるだろ」
「任せて」
と言って、葛霧は僕の膝の上に跨ったまま、血液の剣を構えた。
彼女にこうやって介錯してもらうのも、これで何度目となるのだろう。
「私は美容院が入ってた廃ビルにおる。町の西の方の――わかる?」
「ああ、あそこか……わかるよ」
「三階におるから、私のこと、ちゃんと見つけてな」
そして、葛霧が剣を構える。
首を刎ねられても、実は数秒だけ生きている時間があるので、できれば脳を一撃で潰してほしいのだけど――そんな要望を聞いてもらえる立場なのだろうか、言うだけ言ってみようかな、などと思っていると、
「お兄ちゃん?」
と。
そんな声が、聞こえるはずのない声が、聞こえてきた――僕はしばらく油を差していないブリキ人形のような動きで、その声の発生源を見る。
そこにいたのは。
誰であろう。
空木折紙――僕の妹だった。
こんなところでなにしてやがるんだ、という言葉は、意味をなさない。
その理由は明白だからだ。
夜遊びを、していたのだろう。
そして僕が折紙のことを見ているように、折紙も僕のことを見ていた。
膝の上に金髪赤眼の美少女を乗せた僕を――そして、片腕を失って血まみれになった僕を。
「や、やあっ、お兄ちゃん‼」
叫んで、折紙は脚を縺れさせながら、僕に駆け寄ってきた。顔面は面白いほどに蒼白だった。幽霊みたいだ。
そして折紙は、僕の膝の上に座る葛霧を押し飛ばして、僕の脚に縋りついた。葛霧なんて眼中にないみたいだった。盛大にタックルをかまされて吹き飛ばされた葛霧が短い悲鳴のようなものを上げたが、彼女の安否に気を割く余裕はなかった。
「や、いやあっ、やだやだ、お兄ちゃん! なんで、どうして、死なないでお兄ちゃん! やあっ、やあっ」
幼い子供が駄々を捏ねるように、折紙は泣きじゃくる。そのあまりにも惨めったらしい姿は、はっきり言って見ていられなかった。あまりにも憐れで、あまりも情けない。こんな弱者が、あの折紙なのかと思わされる。同情を強制的に誘われる。
「やだ、嫌だよぉ、駄目、駄目駄目駄目駄目っ、絶対に駄目ぇ! 死なないで、お兄ちゃん! 私のことひとりにしないでよぉ」
ああ、懐かしい。
そういえば昔は、僕と折紙が本当の兄妹のように、いやさそれ以上に、さながらカップルのように、あるいはそれ以上に、仲がよくてアツアツだった頃には、折紙はこんな性格だった。甘えん坊で、僕のことが大好きな、大切な妹だった。
「やあっ、やなの、お兄ちゃん! もうわがまま言わないから、お兄ちゃんに冷たくしないから、私のこと見捨てないでぇ! ひとりにしないで! お兄ちゃんの言うことなんでも聞くから、お兄ちゃんが私のこと嫌いでもいいから、ひとりにだけはしないでぇ! 死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで、死なないでぇ! う、うぐ……うあああ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――お兄ちゃん、死なないでぇ!」
僕の脚に縋りついて、僕の腹に顔を埋めて、哀れを誘う表情で僕を見上げる折紙。あの折紙と同一人物だとは思えないし、あの折紙を彷彿とさせる幼さだった。
折紙はまるで呪文のように「死なないで」と「ごめんなさい」を繰り返す。折紙はいったいなにに謝っているのだろうか。誰に謝っているのだろう――僕に? 神に? どちらもくだらない。
こんなことになっていいはずがない。こんな妹がいていいはずがない。死にかけの兄に縋りついて、許しを請う人間がいていいはずがない。破綻している。人間として欠損している。
間違っていたんだ。なにかを。
それは僕が中学生の時に折紙を拒絶したことかもしれないし、それ以前にべったりしすぎていたことかもしれないし、あるいは、僕と折紙が生まれてきたことが間違っていたのかもしれない。
だから、見ていられなかった。この折紙を見ることは、見せつけられることは、僕の人生の間違いをむざむざと見せつけられいるような気がして、見ていられなかった。
仕方なく、僕は折紙から視線を逸らした――折紙は、もう声も上げていなかった。ただ、呻き声を上げるばかりだ――そして葛霧を見た。葛霧はなんとも言えない微妙な表情をして、僕ら兄妹を見ていた。
「葛霧…………」
「………」
「頼む、やってくれ」
葛霧は苦虫を嚙み潰したような表情をして、それから、血液の剣を振りかぶった。
横一文字。
僕の首がぼとりと落ちる。
そして……そして。
首が落ちても、数秒は生きている――生きている僕は、その声を聞いた。
「よくも……よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもお兄ちゃんを! 殺してやる……殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる――絶対に殺してやる‼‼‼」




