021
「だからさ、空木くん――友達にこんなこと言われたくないだろうけど、言われたくないだろうから言うけど、妹ちゃんと、そろそろ仲直りするべきだと思うな」
四月二十一日、放課後。
僕が作戦を開始した直後、ぼうっとしてた僕の顔を覗き込みながら、百目鬼はそんな風に僕を叱った。どちらかというと心配しているような声音であり、また、少し怒っているようでもある。ただ、声に棘はない――百目鬼が声を尖らせるということも、元よりあまりないのだけど。
ああ、どうやらまたぞろ、僕は彼女に叱られているらしい。
そんなことを空々しく思った。まったく空々しい思考だった。なんだか思考が浮ついている――浮ついているというか、浮いている。浮き上がっている。浮足立っている。乖離しているとも表現できる。まるで、ぼーっとしながらゲームをやっていたときのような感覚だった。
「空木くん? 聞いてるの?」
「ん? ああ、聞いてる聞いてる――ビニール袋かビニル袋か論争についてだろ? 僕は断然、ビニール袋派だ。『ビニル袋』って……なんか気取ってて嫌なんだよな」
「そんな話は一ミリもしてない。どういう誤魔化し方なの、それ」
呆れたような表情をする百目鬼。
困ったことに、僕は彼女のその表情がたまらなく好きなのだった。
困らせたくなる友達――罪な女だぜ。
ちなみに、今、僕らは図書委員として図書整理の仕事に邁進中だ。邁進中というか、たった今始めたばかりなのだけど。
本来は昨日熟すべき仕事だったのだが、昨日については僕らが揃って学校をサボタージュしてしまったので、繰り越しで今日やることになった――この仕事も、僕の体感では三回目だ。そろそろ飽きてきた頃合いである。
どの図書をどの場所に戻すのか暗記すればRTAも可能なのかもしれないけど、生憎なことに、そんなくだらないことのためにループするつもりはない。ループすることは、死ぬことなのだ。図書整理の効率化のためには死ねない。
「――はあ……で? 百目鬼は僕にどんな素晴らしい話をしてくれていたんだ? 聞いてなかったのは認めるから、もう一回言ってくれよ。誰と誰がなにした方がいいって?」
「聞いてるんじゃん――だから、妹ちゃんの話。仲直り、した方がいいよ。いい加減、大人になるべきなんじゃないかな、ふたりとも」
「お前は覚えてないだろうけどな、百目鬼……その話はお前とは何回もしてる。そして僕は何回もこう答えてる。嫌だ――つぅか、お前、二周目のループのとき、二十一日の書庫整理の時間にそんな話を僕に振らなかっただろ。あまり予定と違うことするなよ」
「そんなこと言われてもね……ていうか、これはただの予想なんだけど、予定と違うことをしたのは空木くんの方なんじゃないのかな?」
「あん?」
「妹ちゃん、なんか『夜遊びしてやるー』って息巻いてるみたいだよ。私が空木くんを叱ってるのはそれが理由――妹ちゃん、友達を手あたり次第誘ってるみたい。空木くんがまたなにか心無いことを妹ちゃんに言ったせいなんじゃないの?」
「全然まったく心当たりないな」
僕は嘯く。
あいつ……そんなくだらないことしてるのか……。
「夜遊びね……まあ、それもまた経験だと思うけど」
「本気でそう思ってる?」
「思ってない」
折紙ごときに夜遊びなんて百年早い――あれ、これは昨日も言ったっけ?
同じところをグルグルと回っているから、どの言葉をどの世界線で言ったのか混濁してきた。
この『セーブ&ロード』という能力……最初は「ループ能力とか最強じゃんラッキー」くらいにしか思っていなかったけど、思ったよりも高度な知能が要求される。もしかしたら、僕ごときに扱える代物ではないかもしれないぞ……今はまだなんとか問題を起こさずにやれているけど、十周とかニ十周とかしたら大きなミスを犯すかもしれない。
「まあ、折紙の話なんていいんだよ。妹ごときに時間的リソースを割きたくない。思考リソースも割きたくない。あんな奴のこと、一秒でも長く忘れているに越したことはないんだ」
「相変わらず辛辣だね……真に辣だね。まあ、卑近の問題はそれではないし、人魚の百鬼夜行なんてものを目前にして『妹ちゃんのことを考えろ』なんて言うほど、私も優先順位ってものを弁えない女じゃないけどさ――でも、家庭の不和は早い内に芽を摘んでいた方がいいと思うよ。これは、家庭崩壊している友達からの真剣な忠告」
――その話、いつかの世界線で聞いたよ。
なんて、もちろん言うわけがない、マナーとして。だけど、そろそろ聞き飽きてくる時分でもある。耳に胼胝ができそうだ。
折紙と仲良く、ね……。
まあ、考える暇があったら考えておこう。
「ところで百目鬼、ひとつ確認なんだが……」
「うん? なにかな?」
「百目鬼が僕に『騙されたと思って、騙されてあげる』って言ったのって、昨日だよな? つまり、この世界線の四月二十日のことだよな?」
背中合わせで図書整理をする百目鬼が、手を止めた気配があった。質問の意図を捉えかねたのだろう。
自分がなんとも、間抜けな質問をしていることは理解している。だけど、それでいいのだ。僕は間抜けな質問をする。僕は間抜けだから――心底間抜けだから、そういうことをする。そういうことをしないといけない。
「うん、そうだよ――空木くんは、私を騙すの?」
「さあ、どうかな」
「騙すなら盛大に騙してね。楽しみにしてるから」
まったく……。
まったく、この出来た友人にはなかなか敵わない。
「ああ、楽しみにしといてくれ――ところで、もうひとつ訊いてもいいか?」
「なんでも」
「お前が僕にパンツを見せてくれる約束をしたのって、この世界線だっけ?」
「そんな世界線は虚数の彼方にすら存在しないよ」
知的なんだかリリカルなんだかわからない表現で拒絶してくる百目鬼だった。まあ、そうだろう。僕らは友達だが、友達だからこそパンツも見せるなんて展開にはなり得ない。水着姿くらいは見る機会もあるかもしれないが――僕に言わせれば、水着と下着のなにが違うのかチンプンカンプンだ――とにかく、百目鬼とそういう関係にならないことは、今、双方向に確認が取れたところである。
……ふむ。
さて、男女の友情が云々かんぬんと語らったのは、どの世界線の話だったか。この五周目の世界線でないことは確かだが、そこら辺はもう曖昧だ。やはり、扱いの難しい能力である。
そんなこんなで僕らは和気藹々と作業を続け、三十分ほどで図書整理の仕事を終えた。熱気の籠った書庫でひと仕事終えた僕らは、汗ばんでいた。百目鬼の首筋に光る珠のような汗に目を奪われることなく、僕は窓の外に視線を向ける。
外は……少し茜色だ。いけない――日暮れ前には大沼湖に到着していないといけないのに。でなければ、百鬼夜行が始まってしまう。二重語の、夜の百鬼夜行が。
「じゃあ、そろそろ行くか。百目鬼、またぞろ頼む」
「うん。任せて」
色々と言葉を省いた会話だったが、不思議と意思の疎通はできている気がした――なんて。まあ、そんなのは都合のいい妄想というものだろう。僕の罪悪感が作り出した、架空の妄想にすぎない。いや、僕にそういう現実逃避はできないのだっけ? まあ、いいや。なんでも。
とにかく、僕たちは並んで歩き、大沼湖に向かった。
夕日に影が伸びる。血のように赤い光を背に受けて行進する僕たちは、もしかしたら決闘に向かうガンマンのように見えたかもしれないし、実際そんなものだった。
「大沼湖ってさ、どうしてできたんだろうね?」
大沼湖の畔にて。
百目鬼は、西日を反射してキラキラと輝く湖面を見ながら、そんなことを呟いた。
「どうしてって……そりゃ、窪地があってそこに雨が溜まったのか、あるいは、昔は川が流入していたか――どっちかだろ」
「じゃなくてさ。そういう地理的な話じゃなくて――もっと民俗学的な話。この大沼湖はどういう伝説を持っていて、どういう神様が住んでいると思われていて、どういう信仰を集めたんだろうね」
「お前の大好きな風俗の話か」
「誤解しか生まない表現やめれる? ていうか、あれ? 私、空木くんに風俗史に興味があるって言ったっけ?」
「言ったよ。お前は覚えてないだろうけどな」
「……そっか」
なにかの色を孕んだ声が、ぽつりと落ちる。
太陽が西の地平に沈んでいった。辺りは瞬く間に暗くなっていく。空は闇を湛え、空気は夜の静謐さに満ちていく。夜が来る。最終決戦の夜が来る。運命の夜が来る。もうすぐ始まる。百鬼夜行が始まる。そして皆死ぬ。町中の人間が皆死ぬ。皆死ぬということは、百目鬼も、折紙も、皆死ぬということだ。そんな当たり前の事実から目を逸らすな。
胸が緊張に高鳴る。指先が震える。カチカチとなにかの音が鳴っていると思ったら、それは僕の奥歯が鳴っている音だった。
作戦……そうだ、僕には作戦がある。
作戦があるからこそ、僕は震えているのかもしれないが。
――怖いのか?
誰かが僕に問う。
――違う。これは武者震いだ。
僕は答える。
「ねえ、空木くん」
「ん?」
「寂しくない? 皆が忘れてしまったことを、なかったことになってしまったことを、自分だけ覚えていることは辛くない?」
僕は湖面から視線を外して、百目鬼に視線を向けた。百目鬼も僕を見ていた。
怪力無双とは無縁なその華奢な肩越し、陽の滅入った空に夜が迫りくる。止まることを知らず、夜の色が急速に迫ってくる。
「寂しくないよ。お前がいる」
よくもまあそんな歯が浮くようなことを、歯が浮くような軽い言葉を吐けるものだと、自分に感心した。そして呆れた。感心したのと呆れたのと同じくらい、自分のことが嫌いになった。自己嫌悪というのは、僕に唯一残された現実逃避の形である。
あるいは、これは自己陶酔かもしれないが。
そして。
水が泡立つ。湖面が湧き上がる。沸騰したようにも見えたし、踊っているようにも見えた――そして、そして、そして……人魚が出る。這い出てくる。十匹、ニ十匹、三十匹……際限はない。その醜悪さは予てよりのことだが、群れるとまた一段と気持ち悪い。ゴキブリ一匹ならまだ平気でも、ゴキブリの巣を見るのは無理、みたいな話かもしれない。
百目鬼が僕を庇うように立った。男として情けないが、その背中はなんとも頼もしかった。華奢な身体ながら、背中が広く見えるようだった。
そして振り返ることなく、言う。
「空木くん、走って。背中は絶対に守る」
「……頼んだ」
ひと言だけ言って、囲まれる前に、僕は背を向けて走り出す。尻尾巻いて逃げ出す。ただ、これは逃走じゃない、退転である。
目的地は、二周目の世界で葛霧と遭遇したあの林。
僕が動いた瞬間、人魚も動いた。硬質な鱗の軌道が闇に流れる――と同時に、鈍い、そして生々しい音が鳴り響いた。
背中を向けた僕に追随しようとした人魚の横っ面を、百目鬼が蹴り抜いたのだ。見事なハイキックだった。スカートでそんなことをしたら当然のごとく中身がご開陳されることとなったが、黄昏時は誰そ彼時、薄暗くてパンツは見えなかったので、僕らの友情は守られた。
「振り返らないで!」
百目鬼が叫んだ。
パンツが見られたくないのかと思ったが、どうもそんな冗談を言っている余裕はなさそうということが素人目にもわかった――百目鬼は人魚一匹よりも遥かに強いが、多勢に無勢。第三の目を開眼した彼女とて、僕を庇いながら百を超える人魚を相手にするのは無謀だったようだ。
「走って!」
「………」
「ここから先へは一歩も行かせない。すべての人魚は私が引き付ける――だから、走って!」
人魚の一匹が、百目鬼の背後から忍んで牙を突き立てた。魚類らしい、ギザギザとした歯だった。嚙みつき攻撃もできるらしい――命中。鋭く尖った歯が百目鬼の左肩に食い込む。百目鬼は呻き声を上げながら、その人魚の顔を鷲掴みにして背負い投げのように投げる。首を踏む。その一連の動作の最中にも、他の人魚が迫る。集る。
「走れぇ!」
百目鬼の絶叫が、人魚どもの壁の向こう側から聞こえてきた。もう、声しか聞こえなくなっていた。
僕は百目鬼の方を見るのをやめて、真っ直ぐ林に向かって走った。振り返ることもなかった。百目鬼を犠牲にすることに良心が痛まなかったのかと訊かれれば、痛まなかったと答えることになる。僕はそういう奴だった。強いて言うなら、そういう自分を直視しなければならないのが辛かった。
しばらくは百目鬼の気迫の声と悲鳴のような呻き声が聞こえていたが、最終的にそれも聞こえなくなった。おそらく死んだのだろう――あるいは、声も出せないような状態になったのかもしれない。
僕はそれでも振り返らなかった。
問題ない。
ここまで、作戦通りである。




