020
かくして始まった『三匹の人魚・リベンジ』作戦は、呆気ないほどの成功裏に幕を下ろした。
二周目と比したとき僕が少し言動を変えてしまっているから、百目鬼の行動も必然的に変わってしまい、結果として三匹の人魚との戦いにも影響を与えてしまうかもしれない、なんて憂慮していた僕だったけど、そんなことは一切なかった。
いや、厳密には百目鬼の戦闘スタイルは変わっていたのかもしれないし、というか変わっていたに違いないのだけど、でも、とにかく百目鬼は無傷で三匹の人魚を殺すことに成功したのだ。
「お前にしてみれば、もう、人魚討伐なんてお茶の子さいさいなのかもしれないな」
「いや、そんな風に過大評価されても困るよ。空木くんにしてみればもう見慣れた光景なのかもしれないけど、私からしたら初めて戦った相手だからね? たしかに警戒していたほどの手応えはなかったけど、それでもそこまで軽い反応を返されると、頑張った分だけ、なんというか……切ないよ」
首の骨を砕かれた二匹の人魚が横臥する道で、僕は百目鬼とそんな会話をしていた。
たぶん、傍目から見たらよほど猟奇的な光景だ。
この場面を誰かに見られたら大変なことになってしまうだろうが、そういう心配はおそらくないので大丈夫だろう――きっと。
そうしているうちに、人魚の亡骸が溶けて消えていく。
溶けるというと、液体状になるというイメージを抱かれるかもしれないが――そういうわけではなく、どちらかというと気体となって消えるというか……まさしく消失するのだ。まるで最初からなかったかのように、なんの痕跡も残さずに。
塵より生まれしものは塵に還り、灰より生まれしものは灰に還るように、無から生まれしものは無に還っていく、ということなのだろう。
「で、今日のところはどうする? これで解散?」
「ん……ああ。まあ、僕はいったん家に帰りたいから、今日のところはこれで解散だな」
「ふふっ――妹ちゃんが心配だもんね」
「ああ、はいはい。じゃあそれでいいよ」
僕が心配しているのは家の玄関の方だ。
人魚に玄関を壊されたんじゃ、泥棒が入り放題だしな。
まあ……あの人魚も、折紙を殺してくれた人魚も、この世界線では葛霧に討伐されているはずである。万が一を思って家には帰るが、まあ、なにも問題は起こらないだろう。
「じゃあ、百目鬼。また明日、学校で」
「うん。明日は登校する?」
「二日連続でサボるわけにもいかないだろう。明日の昼のうちは特にできることもないし、図書整理の仕事も残ってるわけだし、普通に登校して、束の間の日常を楽しもう」
それに、授業だって心配なのだ。
百目鬼のような優等生は一日か二日か休んだところで問題ないかもしれないが、僕のようなボンクラは二日も授業に出なかったら大問題だ。授業を受けたところで身になるほど集中できている僕ではないが、とはいえ、まったく授業を聞いていないのと態度だけは聞いているのとでは、大きく意味合いが異なる。
欠席だって、少ないに越したことはない。授業に出なければそれだけ評定にも響くことだし、フリだけでも真面目に授業に出席するのは意味があることなのだ。
「つぅことで、おやすみ、百目鬼」
「おやすみ、空木くん」
そして帰宅。
幸いなことに、家の玄関は破壊されていなかった。どこぞにいるとも知れない葛霧が上手くやってくれたということだろう。
ポケットから家の鍵を取り出して開錠し、音がなるべく鳴らないように玄関のドアを開ける。
そして閉める。
後ろ手に鍵を閉めながら靴を脱ぎ、家に上がる――なんだか、久しぶりに実家に帰ってきたような感覚だった。そしてそれは正しい。ここは僕の実家だし、体感時間としては、ここに何事もなく帰ってくるのは久しぶりなのだから。
部屋に帰って、服を脱いだ。
今さらだが、僕はTシャツにジーパン、パーカーという非常にラフな恰好をしていた――そしてそれらを脱いで、楽なスウェットに着替えた。
それからふと喉が渇いて、水を飲みにリビングルームに爪先を向ける。
我が家は、リビングルームとダイニングルームとキッチンがひと続きの部屋になっている構造をしている。だから、キッチンに行くためにはリビングルームから入ることになるのだが――そのリビングルームの扉を開けたところに、いた。
リビングルームの扉を開け、電気をつけたところで、ソファに横臥の姿勢で寝転がり、スマートフォンの画面を眺めている折紙の姿がそこにあった。
「お兄ちゃん、遅かったね」
折紙――空木折紙。
不肖、僕の妹。背丈は僕より随分と小さく、腰より下まで伸びた黒髪は艶を放っている。十五歳。高校一年生。もちろん、兄の贔屓目というのもあるのだろうけど……悔しいことに、まあ、悪くない容姿をしている。あまり食べないためにちょっとばかし痩せ気味なところもあるが、プロポーションも悪くない。黒目がちな大きな目でこちらを見つめられると、吸い込まれそうになる。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いなんて言葉があるが、僕はこの不肖の妹のことは嫌いでも、その容姿まではどうしても嫌いになれなかった。むしろ好ましいとすら、思っている。
そんな妹の折紙が、僕を見つめていた。
黒く、大きな瞳で。
吸い込まれそうに、なる。
「電気も点けないで何してんだよ。真っ暗な中でスマホ触んな。目ぇ悪くなるぞ」
「保護者面しないでよ、お兄ちゃんごときのくせに。それに目は悪くならない。スマホはたしかに触ってたけど、触ってただけで使ってはないから。真っ暗な中で真っ暗な画面を見てたんだよ」
「それはそれでなにしてんだ、お前」
「お前って言うな、お前」
「お前がお前って言うな、妹」
兄の強権を大人げなく発揮しつつ、僕はキッチンに行って冷蔵庫を開いた。二リットルの緑茶のペットボトルがある。僕はそれをグラスに移して、ひと息に飲み干した。よく冷えた緑茶が全身に行き渡るようだ――もちろん、実際にそんなことになっては僕が死んでしまうので、あくまで比喩として。
「ていうか、お兄ちゃん、話を逸らさないで!」
と、またぞろピーキーな感情が振り切れたのか、急にキンキン声を出してがなる妹を、僕はキッチンカウンター越しに見る。
「話を逸らす? なんの話だ?」
「遅くなった理由! こんな夜更けまでどこ行ってたわけ?」
「夜中に騒ぐなよ、愚妹。近所迷惑だろ」
あしらうように言って、僕はペットボトルを冷蔵庫に仕舞う。
おや、牛乳もあったのか。消費期限も近いし、こちらから飲むべきだったかもしれない。
「僕がどこで何してようと僕の自由だ。お前こそ保護者面するな」
「ああ、そう……ああ、そう! じゃあ、お兄ちゃんは私が夜遊びしようとなにしようと、文句はないわけね!」
「勝手にし――」
あ。
いや、夜遊びされては困る。そうだ、平時ならこいつがどこでなにしようが知ったことじゃないが、明日だけは困る。明日の夜は、百鬼夜行が起こるのだから――だから、少なくとも夜は家にいてくれないと……困る。
「勝手に? なに?」
「いや、いやいや――驕るなよ、折紙。お前ごときに夜遊びなんて百年早い。門限は十八時だ、厳守しやがれ、この妹畜生が。明日の夜、十八時までに帰ってこなかったら、お前のことぶちのめすからな」
「はあ? なんでお兄ちゃんなんかにそこまで言われなきゃいけないわけ? ていうか、ぶちのめす? そんなんで私がビビると思ってるの?」
「ビビれよ、そこは普通に。なんだったら、『ぶちの雌』でもいいんだぜ」
「意味わかんない」
意味がわかられても困る妄言だったわけだが。
折紙は僕の目を覗き込んで、それから、眦をキッと吊り上げる。
「もしかしてお兄ちゃん、本当に夜遊びしてきたわけじゃないよね?」
「本当じゃない夜遊びっていうのがまずわからん」
「まさか独りで夜の散歩を楽しんでたわけじゃないんでしょ? 誰と一緒だったの? 女? 男? それとも女? 殺されたいの?」
急に病み始める妹。
怖いよ。
どんだけその場のテンションで生きてんだこいつ。
「一緒にいたのは女子だよ。なんか文句あんのか?」
「文句しかないね。叫び出したいほどだよ。『文句の叫び』という絵画がこれを機に誕生するくらいだよ」
「果てしなくくだらねぇ……」
「で、お兄ちゃん野郎。こんな夜中に、女の子といったいなにをしてたっていうのかな? どこの馬の骨と何処でなにをなにってたのかな? かなかな?」
「そりゃ、エロいことしてたに決まってんだろ」
「ふぅん、そっか死ね」
鈍色が閃いた。
折紙が手に持っていたスマートフォンを投げつけてきたのである――投げつけると言っても、放物線を描くような優しいそれではなくて、普通に手首のスナップを利かせて回転をかけて投げつけてきたのだ。
危ねぇ……。
普通に危ない。
ギリギリで屈んで躱したが、しかし、避けなければ普通に顔面に直撃しているコースだった。空を切ったスマートフォンはそのまま背後の冷蔵庫に直撃し、冷蔵庫の表面に傷を、スマートフォンの画面に罅を残して、床に墜落した。
「なにすんだお前!」
「むしろ、お兄ちゃんがなにしてんの? なにちゃっかり夜遊びならぬ女遊びしちゃってんの? 空木家では女遊びは極刑だよ? 死にたいの? 死にたいんだ――そんな死にたがりのお兄ちゃんのために、私が不承不承手を下してあげようとしただけじゃない」
一瞬ピークに達したらしい感情はすでに冷めたらしく、きょとんとした顔で応える折紙。自分の行動になんの疑問も感じていない風だ――しかし、感情が冷めたところを見ると、どうも僕の言った冗談は、冗談だと理解したらしい。冗談を受けて、それを冗談だと理解する前に反射的にスマートフォンを投げつける妹……震えるぜ。
「あーあ、スマホ、壊れちゃったじゃん。お兄ちゃんのせいで」
「僕のせいじゃねぇ」
「言い逃れはやめて、殺すよ」
『殺す』とか『死ね』とか、まるで呼吸をするように口にする妹だった。
危険である。危険人物である。
「で? 本当はなにをしてたの? どこで誰となにってたの?」
「いや、まあ……女友達と、ちょっと刺激的な経験をしてきただけだ」
「刺激的? 性の喜び的な?」
「性の喜びとか口にするな、仮にも女子高生が。恥じらいを持て――だいたいその服はなんなんだ? ブラトップにホットパンツって、エロ漫画かよ。無闇に煽情的な恰好をするな年頃の妹。僕に襲われたいのか。ぶちの雌ぞ」
「やだ、そんな目で私のこと見てるの、お兄ちゃん。シスコンだね。シスターコンプライアンス違反だね。見たいなら見ればいいよ、お兄ちゃん。シスコンお兄ちゃん。妹の谷間やお臍や太腿をガン見すればいいよ」
「馬鹿言え。ガン見なんかするわけねぇだろ。そんな……そんな、浮き出た四本の肋なんか」
「変なところ見んな。変態的なところ見んなヘンタイ」
「か、勘違いしないでよね。そんな肋骨、興味のないんだかね。美味しいスペアリブが取れそうだなんて、思ってないんだからね」
「妹の肋骨にスペアリブを重ねるな。妹を食べようとするな」
「お前だってスウェットの襟から覗く僕の鎖骨に大興奮中なんだろう? どうしてもって言うなら、大興奮中のお前に、ちょっとだけ大奮発してやってもいいんだぜ?」
「誰もが骨に興味があると思わないでよね。鎖骨の窪みに水を溜めて飲み干したいなんて、これっぽっちも思ってないんだから」
思ったよりもなこと思ってんな、こいつ。
そしてそれに張り合ってしまう僕もまた……。
たとえ変態性においても、妹なんぞには負けたくないという思いが互いにある。張り合ってしまうのだ、なににでも。
僕たち死ぬぞ。
「はあ、疲れる。お前の相手はことごとく疲れる。僕はもう寝たいんだ。誰かさんと違って真面目な学生だからな、僕は。授業中に居眠りなんかしたら一生の恥だぜ」
「私は誰かさんと違って優秀な脳みそを持ってるから、授業なんて聞かなくても点数取れるんだけどね」
「あ?」
「ああ?」
ヒートアップしていく僕ら。
これもいつものパターンだ。
そして、最終的に僕らは取っ組み合いの喧嘩を始める。僕は妹にはちゃんと手加減して、ときに勝ったり、ときに負けたりして、僕らは仲直りもしないままに家族に戻る、そしてまた喧嘩をする――その繰り返し。
それが僕らの生活サイクルだった。
だけど、今日はそんな気分じゃない。
至近距離でメンチを切り合っていた僕らだが、先に目を逸らしたのは僕だった。
「はあ……もういい。僕は宣言通り寝る。お前もあんま夜更かしすんなよ」
「え?」
と、なぜか肩透かしをくらったような、あるいは、裏切られたような表情を浮かべた折紙を残して、僕はリビングルームを去った。
自分の部屋に戻り、布団に入って、目を閉じる。
人魚……その醜悪な怪物の姿が、目蓋の裏に焼き付いている。
そうだ、そうなのだ。
僕は折紙なんかに構っている暇はない。
明日の夜――それが決戦の日だ。
今はただ、充分な休息を取らなければ。




