017
そういえば、図らずもこの疑問を放置したままだったので、最終決戦と洒落込む前に、一応の解を提出しておこうと思う。それが正しい解答であるかは別として、自分の中で正しい回答を持っておくのは間違った思考ではないはずだ。
さて。
人魚は生き物か否か。
この問題に挑むにあたって最重要となる事実がひとつ。
人魚は人魚じゃない、ということだ――なんだか意味のわからない哲学の話みたいになってしまったが、要は、あれは人魚ではなく龍の眷属ということである。龍の眷属であって、奴隷のようなものであって、まずもって少なくとも人間ではない。
八百比丘尼伝説に限らず、日本の人魚伝説を聞いたときに感じる――半分は人間である生き物を食べる、という行為に対する忌避感は、だから、この場合は感じなくてもいいということになる。
奴らは人魚であって、人魚でない。
人と魚の間の子ではない――人間ではない。
そこまでわかれば、一歩前進だ。
人間でないなら、魚を殺すようなものだと思って人魚を殺せばいい。
魚だって生き物、命の価値は人間と変わらない――とか言われたって、どうせ殺さなければならないなら、やっぱり人間よりは魚が相手だと思いたい。その方が気持ちが楽だ。
もっと言うと、人魚はそもそも生き物ですらないと思えたらそっちの方が楽だったのだけど、まあ、しかし、さすがに――殺気がないとはいえ、気配がないとはいえ、あそこまで生き物然とした怪異を生き物ではないと思い込むのはさすがに難しい。
理屈はどうあれ、感情的に難しい。
だから、総合的な結論として、人魚は生き物であって人間ではない。
ここら辺が、この問題に対する落としどころなのだろう。
人魚に立ち向かうのが僕ひとりだったなら、もっといくらでも屁理屈を捏ね繰り回して、如何様にもできたのかもしれないけど、人魚に立ち向かうのは――実際に殺すのは、僕ではない。実働を担当する彼女たち、百目鬼と葛霧の心情を限界まで斟酌するとしたら、これが限界だ。
「空木くんは、やっぱり優しいね」
四月二十日。
百目鬼を前夜の電話で喫茶店に呼び出して、やっぱり学校をサボタージュして、前周と同じ方法で百目鬼を説得し、僕のループ能力を信じてもらって――それから、僕は『人魚は生き物であって人間ではない』という理論について語って聞かせた。
そして、そんな僕の長くてつまらない話を語られて聞かされた百目鬼の第一声がそれだった。
「これから倒す――空木くん風に言うなら『殺す』……怪異が、人魚が、人間じゃないって慰めてくれてるんでしょ? そんなことは、言われても言われなくても、私はあまり気にしないけど……でも、うん、ありがとうって言っておこうかな。気持ちが楽になったって言ったら噓だけど、空木くんの優しさは素直に嬉しいよ」
「……まあ、お前が嬉しいと思ってくれるなら、僕も嬉しい。あれこれと理屈を捏ね繰り回した甲斐があった」
「空木くんらしい言い回しだね――それにしても、龍の眷属か」
百目鬼は空になったコーヒーカップを覗き込みながらため息を吐く。
ウインナーコーヒーは既に飲み干したあとだった。
「気持ちが楽になるどころか、むしろ気が重いくらいだよ。人魚だった方が、まだ戦いやすかったかも……ああ、別に空木くんを責めてるわけじゃないけどね――龍殺しか……荷が重いなぁ」
「まあ、強そうだもんな」
実際のところ、まだ戦ってはいないので強いのかどうかは知らないが、しかし湖底に蠢いたあの影……あれで弱いということは、まあ、あるまい。
という風に、僕も納得の意を示したのだけど、しかし、それはどうにも的外れだったようで、
「いやいや、そういうことじゃなくてさ」
と、百目鬼は首を振った。
「これも近代日本を襲う西洋化の弊害なのかな?」
「西洋化? 今、関係あるか、その話」
「ないことはないんだよね。西洋化の影響というか、翻訳の問題というか――人間は言葉で物事をイメージするからさ、だから、頭の中の等式として『龍=ドラゴン=悪者』っていうイメージがあるじゃん? それって、まあ、言うまでもなく西洋の影響なんだよね」
それは……たしか、人魚のときも似たような思考をした気がする。
人魚=マーメイド――ではない、ということ。
似た容姿をした似た怪異でも、あるいは伝説でも、国が違えば語り継がれる伝説が異なり、そうなれば存在そのものが根幹から異なってくる。翻訳上では同じ単語が割り振られているからといって、同じものではないのだ、人魚も、龍も。
だが、人間は言葉で物事をイメージする生き物。
たしかに、龍=ドラゴンと、僕も知らず知らずのうちに思っていた。
「ドラゴンキラーはたしかに英雄譚だけど、でも、私たちが倒そうとしているのはドラゴンじゃなくて龍だからね」
そこら辺は、勘違いしちゃいけないよ。
と、百目鬼は窓の外を見ながら呟いた。まだ、日の光が照っている昼下がりだ。
「三湖伝説は私も聞いたことがあるよ。八郎太郎と辰子姫の全然ロマンチックじゃない恋物語ね。湖の主、湖底に潜む龍――ねえ、知ってる、空木くん」
「そんな豆しばみたいな話の振り方をされてもね……」
僕だって、豆しばはギリギリの世代だ。
今の中学生とかは、もう豆しばは知らないのかもしれないな……あんなに一世を風靡したのに。時代のは移ろいとは、かくも恐ろしいものである。
「で、なに?」
「八郎太郎は、龍神でもあるってこと――八郎潟の守り神でもあるんだよ。そこがさ、だから、翻訳の問題にもなるんだけど、龍はドラゴンであってドラゴンでなく、神なんだよ」
神、か。
またぞろ強い言葉が出てきたな、と僕は身構える。
「私たちが今から為そうとしているのは『龍殺し』であると同時に『神殺し』でもあるんだよ」
「神殺し……なんだか痛々しい響きになってきたな」
「そんな余裕のおちゃらけを言っている場合でもないと思うんだけどね。覚悟を決めた方がいいんじゃないかと思うよ」
「って言われてもな……あの龍は明日の夜には百鬼夜行を起こして人間を襲うわけで、そこまで理不尽で邪悪な存在に『神』って称号を与えるのも、なんだか難しい。人魚を生き物ではないと思うのと同じくらい直感に反してる」
「理不尽な存在だから神なんだよ。太古より、日本人は天災なり自然なり、人智の及ばない理不尽を恐れ、そして畏れてきた――鬼だってね、地方によっては鬼神として、つまりは神として崇められていたりするんだよ?」
「ふぅん……じゃあ、お前も神なのか?」
「いや、残念なことに、百目鬼に信仰はないかな」
残念なことに、という言葉がどこまで本気なのか、あえて問い返すことはしなかった。
「まあ、こっちには百人力の鬼に加えて、かの有名な吸血鬼様だっているんだ――神殺しだって、やってやれないことはないだろ」
「緩いね。まあ、いいけど――吸血鬼の葛霧さん、だっけ? 彼女は今どこにいるの?」
「昼は活動できないから、どっかに隠れてるらしい。夜になったら集合して、それからまずは、前周と同じように町に出没する人魚を狩る。時間効率の問題で、二手に分かれて、百目鬼には交番を襲撃する方の人魚を、葛霧には道に出没する二匹の人魚の方を討伐してもらう」
担当は逆でもよかったのだけど、そこは単純にテキトウに決めた。
もしかしたら逆の方が上手くいくのかもしれないけど、その時はその時。逆の方がよかったなら、次は逆にすればいいだけの話なのだから。
「作戦名『三匹の人魚』だ」
狩られるのは子豚ではなく人魚だし、狩るのは狼ではなく鬼なのだけど。
で、夜になった。
僕らは例の公園で集合し、こうして、百目鬼と葛霧の初対面が相成った。
「うわぁ、本当だ。お人形さんみたいな西洋人」
それが、葛霧を見た百目鬼の第一声だった。
ちょっとテンションの上がっている百目鬼は物珍しくて面白いが、しかし、葛霧にしてみれば慣れた反応というか飽きた反応なのか、少しげんなりして、
「いや、せやから、私は純日本人やって」
と、言葉を返す。
「ああ、うん、そうだったね。ごめんごめん――聞いてると思うけど、私は百目鬼小夜です。よろしく、葛霧さん」
「葛霧あにめや。よろしゅう、サヨ」
葛霧はどうやら、百目鬼のことを『サヨ』と呼ぶことに決めたらしい。
僕のことも『リンネ』と呼ぶし、そういう性格の奴なのだろう。
フレンドリーというか、馴れ馴れしい?
まあ、女子同士人外同士、仲良くしてくれるならそれでいい。
「じゃあ、さっき説明した通り、百目鬼は交番の方に、葛霧は指定した道の方に行って、人魚をそれぞれ撃破してくれ」
「空木くんはどうするの?」
「また鉄塔の上から見ててもいいんだけど……でも、前回とは違って、僕が死ぬことに対するリスクってそんなにないんだよな。二手に分かれるなら、鉄塔の上にいてもどうせどっちかしか見ることはできないし――よし、僕は葛霧についていく」
「私に? なんで?」
「もしもなにか不測の事態が起こったとき、僕がそれを観測したいからだ――百目鬼は前周で人魚を危なげなく倒してるところを見てる。それに対して、葛霧はまだ未知数だ。担当するのも一匹と二匹だし、ここは予想外のことが起こるなら、葛霧サイドの可能性が高いと判断した」
「……なんか、理屈っぽくて嫌な感じやな」
「理屈っぽいのはいいことだろ。『音埜瀬高校のロジカルマン』とは、僕のことだぜ」
「おちょくられてるで、それ」
ちなみに、音埜瀬高校は私立の学校だ。
そしてこれはちなむまでのことでもないが、僕が『ロジカルマン』などと呼ばれている事実はない。僕に渾名はないのだ。教室で孤独な僕に渾名なんてつけてしまったら、現代の価値観では、それはいじめになってしまうのだ。
そう、僕らのクラスにいじめはありません。
いないものはいないものとして扱いましょう――怪異のように。
「ま、というわけで、僕は葛霧についていく。人魚を片付けたら、その足で大沼湖に行こう。その頃になったらちょうど深夜だ。葛霧が本気を出せる時間帯になる」
逆に、三匹の人魚を殺す前に龍を叩くことはできないということである。
葛霧が本気を出せるようになる深夜近く、丁度その頃に人魚が町を徘徊するのだ。龍を殺せば人魚は消えるかもしれないが、その前に人魚に殺されてしまった人の命は戻らない。
だから、龍を殺す前に三匹の人魚を先に殺す必要があるのだ。
「集合場所は? いつ、どこに集合する?」
「二年後にシャボンディ諸島でいいんじゃないか?」
「空木くん、真面目に」
百目鬼の白眼視。
ちょっとゾクゾクしちゃうぜ。
叱って叱ってー。
「真面目に答えるなら……まあ、近いし、僕の家でいいか。人魚を駆除したら、順次僕の家の前に集合してくれ」
「了解」
百目鬼は僕の家の場所を知っているし、葛霧には僕がついている。
だから、集合場所として問題はないはずだ――というか、そういった意味でも、僕は葛霧についていくしかない。
「よし。じゃあ、早速作戦を開始するか」
「うん――じゃ、空木くん。気を付けて」
「そっちこそな」
というわけで僕らは二手に分かれて――それから。
それから、僕たちは一周目の世界で初めて人魚と出会ったあの場所、あの名前も特にない道に、葛霧と連れだって立っていた。
「リンネとサヨって付き合うてるん?」
「あん?」
「なんかえらい仲ええし、そういう関係なのかなって」
探るような視線を、真横から感じる。
今さらだが、葛霧は女子にしては背が高い方で、僕と背丈がほとんど同じだ。だから、並んで立っていると、真横を向くだけで目が合う。
赤い瞳と、目が合う。
「そういうんじゃないさ。あいつは誰とでもとんでもなく仲いいし、僕はあいつしか友達がいないだけ。だから、僕にとってあいつは特別な存在だけど、百目鬼にとって僕は特別でもなんでもないよ」
「片想い、みたいな?」
「ま、違うけどそんなもの」
テキトウに答えて、そして会話はそこまでだった。僕がはぐらかしたわけでもなく、葛霧がはぐらかされてくれたわけでもなく――単純に、そのタイミングで人魚が現れたから、楽しい楽しいお喋りの時間が終わりを迎えたというだけの話だった。
無言のまま、葛霧が右手首に爪を突き立てる。
そして手首から溢れ出してきた血は、そのまま、剣の形を成した。
「行くで」
行った。
弾かれたように駆け出した葛霧が、人魚に向かって突進する。人魚も同じように応戦する。相も変わらず人間の動体視力を超えた攻防で、なにがどうなったのかはわからなかったが、結論だけを書き記すなら、人魚の首がゴトリと落ちた。
熟練の辻斬りを思わせる、見事な早業だった。
「葛霧、二匹目!」
「わかってる!」
わかっているというのは、存在していることがわかっているという意味で、その二匹目がどこにいるのかはわかっていなかったのか――葛霧の側面から現れた二匹目の人魚に、彼女は少しだけ対応が遅れた。
対応の遅れはそのまま振るった剣の威力の減衰に繋がったのか、先ほどは見事に人魚の首を一刀両断したはずのその血液の剣は、二匹目の人魚に掴まれて捕まった。刃をがっしりと掴まれて。
葛霧の膂力なら、その掴まれた剣を振り回して、人魚を投げ飛ばすことだってできたのだろうけど――しかし、彼女の戦い方はもっとスマートだった。
凝固した血液が、一瞬、ただの液体に戻る。
葛霧が血液の凝固を切ったのだろう――どういう理屈で血液の剣なるものが成立しているのかは知らないが、元は血液で、つまりは液体であることは間違いない。
液体となった血液の剣は、当然、人魚の手をすり抜けて手の底から滴った。
その滴った血液が、再び、葛霧の手の中で剣の形を得る。
逆手で握られる形となった剣を、葛霧は拳を突き上げるようにして振り上げた。
スパッ――と。
そんな音が聞こえてきそうなほどに滑らかに、人魚は股から脳天にかけて、まるで魚をおろすときのように綺麗に両断された。
「終わったよ、リンネ」
「あ、ああ……」
僕は……。
僕は、カクカクと頷く。
百目鬼のいっそ非道なまでの暴虐っぷりを見たときも肝が抜かれたものだが、葛霧のそれはその比ではなかった。
その戦い方。
その容姿――その全てが異質で、異様で、まるで世界観が違うかのような。
身に纏ったドレスすら、彼女を引き立てる。
「強いでしょ、わたし」
「あ、ああ……いや、今、唐突に思ったんだけど――むしろ今まで疑問に思わなかったことの方が異常なんだけど――今さらになってひとつ疑問が浮かんだんだが、訊いてもいいか?」
「リンネって人に質問するとき許可を取る癖があるやんな。変なの――ええよ、なに?」
「お前、どうしてドレス姿なんだ?」
「これしか服持ってないから」
「そんなわけねぇだろ」
「それが意外とあるんよ。自分でも不便してるんやけど、服がこれしかないからしゃあないと思て、恥ずかしいけど、こうしてドレスで闊歩してるってわけ」
恥ずかしいは恥ずかしいのか――いや、まあ、理屈はわかる。
だってそのドレス、めちゃくちゃ胸元とか開いてるし。乳房の膨らみとか白磁の肌とか鎖骨とかが見えてしまって、もう、見る方が恥ずかしいくらいだ。
「あー、なら、せっかく僕の家に行くわけだし、ちょっと妹の服でも借りるか? ドレス姿よりは、ジャージ姿の方が戦いやすいだろ」
まあ、貸してと言って貸してくれる折紙ではあるまいが、そこは部屋にでも侵入して勝手にパクるから大丈夫だ。
妹の物は兄の物――これは世界共通の常識である。
「リンネって妹おるんや」
「いないほうがいい妹がな――さ、行くか」
「人魚の死体は? 放置するん?」
「ほっとけば消えてなくなるから大丈夫だ」
というわけで、僕らは空木家を目指して歩みを進めた。
考えても見れば、家に帰るのは久方ぶりだった――もう深夜も天辺を回った時分だけど、折紙はまだ起きているだろうか。部屋で寝ていたら、服を借りるのは骨が折れそうだ。しかしどうだろう、僕の体感では、妹としばらく喧嘩していない。そろそろ禁断症状が出てくる頃合いだ。人外たちによる超次元バトルを見せつけられたことで人間という種としての劣等感を覚えてきた頃だし、ここらでひとつ、妹との取っ組み合いに勝利して自信に繋げるのも悪くないかもしれない。
そんなことを思った。
だが、思っただけで成立しなかった――妹との喧嘩は成立しなかった。僕はどうしようもなく、間に合わなかったのだ。いつもそうだ。なににも間に合わないのが、僕という人間の性だった。
閑静な住宅街を歩き、自分の家に辿り着いたとき、僕は目を疑った。
玄関が破壊されていた。
まるで扉そのものを毟り取ったかのように、玄関が破壊されていた。
「は?」
目を丸める。
目を丸めつつ、足は勝手に動く。玄関の中に吸い込まれるように、動く。明らかに異常事態で、不用意に近づくべきではないことくらいは僕にもわかっていたけど、それでも僕の家だ、誰にも帰宅を邪魔する権利なんてない。
不覚にも玄関で靴を脱ぎ忘れてしまったが、それこそどうでもよかった。
血だ。
血の匂いが、する。
まるで誘われるように、僕は自分の家を歩いた。自分の家を歩いている感覚はなかった――から、その部屋がリビングルームだということにも、僕は入ってから気づいた始末だった。
「リンネ!」
葛霧が僕の前に立ちはだかった。
瞬間、暗がりから飛び出してきた人魚を、彼女が血液の剣で一刀両断した。袈裟に両断された人魚の上半身と下半身が、それぞれ僕の左右を通過していく。
どうして?
どうして、僕の家に人魚が?
そんなことはどうでもよかった。
どうでもよすぎるくらいにどうでもいいことだった。
死んでいた。
普通に死んでいた――妹が、折紙が。
殺されて死んでいた。
人魚に殺されて、食い殺されて、無残に血と肉の塊になって、リビングルームのソファの上で、食い残しみたいに、身体の色んな部位をぶちまけながら、内臓や骨をあられもなく晒しながら、空ろな目で僕を見ていた。
僕を見ていた。




