016
もしかしたら、すべて水無月先生のハッタリで、僕はもう二度と戻ることはできないのかもしれない――なんて、正直なところでは少しだけそう思っていたから、目が醒めた瞬間は肩透かしを感じずにはいられなかった。
夜だ……なんの変哲もない夜。
人魚どもが町を荒らしているわけでもないし、月も翳っていない、夜。
推察するに、また四月十九日の夜にループしてきたらしい――前回のデスループと始点が同じだ。
視界の先で、葛霧の後ろ姿が交差点に消えていく。
金色の髪が、尾を引くようにして。
「葛霧!」
ボケっとしている暇はない。
このタイミングを逃せば、葛霧とは二十一日の夜まで会えなくなるのだ――そしてそれでは遅い。人魚の百鬼夜行は、必ず食い止めなければならない。
地面を蹴るように駆け出して、僕は葛霧を追いかけた。
夜を劈くような大声で名前を呼んだのは、結果的には正しい選択だったのだろう――交差点の角を曲がると、そこに葛霧が立っていた。
「どうしたん? 私になんか用?」
なにか用かと言われたら、用しかないのだけど……しかし、どう切り出したものか。
いきなり『未来から来ました、この町が危ないので手を貸してください』では会話にならないことは目に見えている――とはいえ、未来から来たことを打ち明けないわけにはいかない。
なにか、会話の取っ掛かりが……。
というか。
取っ掛かりというか、この時間軸の僕はついさっきまで葛霧と会話をしていたわけで、会話には取っ掛かりよりも連続性が求められるのではないだろうか――このタイミングの僕は、ついさっきまで葛霧とどんな会話をしていたのだっけ?
えっと……。
「……人魚伝説」
「ん?」
「人魚伝説について、さっき訊いたよな、僕に。人魚伝説って知ってるかって」
「訊いたな。知ってるん?」
「知ってる」
「なら、なんでさっきは知らんフリしたん?」
「さっきまでは知らなかったからだ」
そして今は知っている。
よくよく知っている。
「意味がわからん。どういうこと?」
「僕は……」
下唇を舐めた。
それからやっと、口を開く。
「僕は、今から二日後の世界から来た。タイムリーパーだ」
「?」
「二日後、二十一日の夜、大沼湖の人魚が一斉に蜂起して町を襲う。皆死ぬんだ僕――僕はそれを止めたい。そのために、お前の力を借りたいんだ」
葛霧はキョトンとした顔をした。それから怪訝そうな顔をして、それからそれから今度はおかしそうにケラケラと笑った。
ケラケラというか、わっはっはっはって感じの笑い方だった。
大爆笑だった。
「ひぃ~……あんた、面白いな――面白いけど、信じられやん。タイムリーパーて、漫画の読み過ぎや、リンネ」
こいつ……。
ループする前は『信じてる』とか言ってたくせに――いや、『信じてる』とは言ったけど『信じる』とはひと言も言ってないのか。
なんだそのレトリック。
ふざけんな。
「……わかった。そりゃ信じられないよな。当たり前だ――でも生憎、そんな簡単に諦めるわけにはいかないし、こんなところで時間を食ってる場合じゃないんだ。葛霧、僕のことが信じられないなら、僕の記憶を見てくれ」
「はあ?」
「血を吸えば、相手の記憶を見ることができるんだろ?」
葛霧が、僕の真意を測るように目を細める。
「……なんで私が吸血鬼かて知っちゃんの?」
「未来から来たからだ」
葛霧がピクリと片方の眉を上げた。そう、吸血鬼であることを、彼女は隠しているのだ。少なくとも喧伝しているわけではない。にもかかわらず、葛霧あにめが吸血鬼だと知っている僕のことを、彼女は少しだけ信じる気になったのかもしれない。
「……ま、ええよ。どのくらい吸うたらええの?」
「え? そりゃあ、まあ……失血死しないくらいの範囲で頼みたいんだが……」
「そうやのうて、何時間分吸うたらええのってこと」
何時間分?
ああ、なるほど……そういうシステムになっているのか。
おそらく、吸血鬼の『存在を喰う』っていうのは、記憶を新しい順番に搾取していくシステムになっているのだろう――そしたら、えっと……一周目が一日分で、二周目が二日分だから。
「合わせて三日分か……いや、三日分か? 実時間にすると五分前だし……ていうか、未来の記憶をこの身体はまだ経験してないんだけど、そこら辺はどうなるんだ?」
「吸血鬼の吸血は、肉体の記憶やのうて魂の記憶を喰うから、問題ない……と思う。たぶんな」
「曖昧だな……まあ、案ずるより産むが易し、か。とにかく三日分、吸ってくれ」
と、そんな風に安易に頼んでしまったが、実際のところ、それほど簡単な話でもなかった。案ずるより産むが易し、だなんて、まったくナメた口を利いたものである。僕は子供だし、なにより男だから知る由もないが――そもそも、出産が簡単ということはまったくないのだ。
鼻の穴から西瓜を出すようなもの、とはよく言われるものである。
「ほな、いただくで」
というのは、彼女なりのいただきますだったのか。
照れ隠しなのかそうでないのか、わざとらしく軽い口調で言った葛霧は、テクテクと僕に近づいてきた――なぜ、近づく? と、そんな阿呆な警戒する僕に取り合わず、葛霧はそのまま僕を押し倒した。
押し倒した。
大事なことなので二回言った。
葛霧はなんの前触れもなく、路上で、僕を押し倒して圧し掛かってきた。地面に尻餅をついた僕の太ももに腰を下ろして、なんというか……明け透けに言うと、対面座位のような姿勢で僕と向き合った。
「え?」
え、である。
なんだ? なにをされるんだ?
急にえっちな展開でも始まったのか――と、これまた阿呆な勘違いをした僕だったが、その間違いにはすぐに気が付いた。
葛霧は血を吸おうとしているのだ。
僕がそうお願いしたんじゃないか。
吸血鬼が血を吸うときに首筋に噛みつくのは当たり前で、正面からそれを為そうと思ったら、こういう体勢になるのも必然――なんだ、えっちな展開ではないのか。
残念だぜ。
……いや、どうだ?
これは……どうなんだ?
少女に、それも葛霧のようなとびきりの少女に首を噛まれるなんて、ただのサービスシーンではないのか? 昨今ではライトノベルではすっかり見なくなってしまった『ご褒美シーン』というやつではないのか、これは。
葛霧が僕の首筋をペロリと舐めた。
葛霧が僕の首筋をペロリと舐めた!
「うひぃっ……!」
「ちょっと! きしょい声出さんといて!」
「いや、今のは仕方ないだろ! ていうかなにしてんだお前! 吸うなら吸えよ。舐めてんじゃねぇよ。焦らしプレイか」
「違うわ! 今のは痛み止め。麻酔みたいなもんや」
「あ、ああ、なるほど……いきなり牙とか入れたら痛いなんてもんじゃないもんな」
というか、注射だってあんなに痛いのに、牙なんて入れて大丈夫なのだろうか。
葛霧の顔を見る。
その赤い唇から覗く、長く鋭い牙は、月光を跳ね返して白く輝いている。
「よ、よしっ。覚悟完了。いつでも噛んでくれ」
「ほな、いくで」
言って、葛霧が僕の首筋に顔を埋めた。
ズプッと音がして、首の筋を引き裂くようにして、なにか異物が体内に侵入してくる感触がある。
痛っ…………痛い気持ちぃ。
痛いは痛いし、どころか激痛なのだが、どうしてか、それがどうにも気持ちがいい。血液が吸い出されていく感覚は、こんな表現もどうかと思うが、スペルマの快感にすら似ていた。
月と外灯に照らされたふたりの影がゆらりと絡む。
まるで……まるで、世界から僕らふたり以外のすべてが消えてしまったかのような――そんな倒錯的な快感がただ脳髄を支配した。
甘い……。
やがて、葛霧が唇を離した。
僕の首筋から葛霧の赤い唇に向かって、銀線が伸びる。葛霧は恥ずかしそうに頬を赤らめながら、その線を手で払った。
「ま、ようわかったわ」
「僕のこと、これで信じられるか?」
「自分の力を疑いたなるくらいだけど、まあ、さすがにな。リンネの言葉を借るなら『そこまで現実逃避的には慣れやん』ってとこやわ」
「それはよかった――よかったから、僕の上から退いてくれ」
「なんで? エロい気分にでもなった?」
「なった」
端的に、そして正直に答えると、葛霧は赤い顔をふじりんごのようにさらに赤くして、僕の上からしゅばばばっ、と立ち退いた。
自分から仕掛けておいて、初心な奴である。
僕は続いて立ち上がるが……ちょっと気怠い。
違和感というほどの違和感でもないのだけど、血を持っていかれると、こんな感覚になるのか――というような感触だった。
「それで? このあとなっとーするん?」
「納豆?」
「『このあとどうするの?』って訊いたんや!」
強い語調でそう言われ、僕は少したじろいだ。
そんなに怒らなくてもいいじゃないか……。
「人魚を倒すには龍を倒さなあかん。龍は湖におる――私は龍でも倒せる自信があるけど、さすがに深夜じゃないと戦えやんよ」
「んー」
「なんなら、今から龍を倒しに行く? 面倒事は早う済ますに限るよ」
「……いや、万全を期したいんだよな。だから、百目鬼の力も借りたい。僕の記憶を見たんだから、百目鬼のことはわかるよな? ――ああ、ていうか、あいつとの交渉もやり直さなきゃならないのか。じゃあ、やっぱり明日だ。明日朝イチで百目鬼を説得して、仲間に加える。それから、大沼湖の龍を倒しに行こう」
「やから、昼は私は戦えやん。夜じゃないと動けやんし、万全を期す言うなら、それこそ深夜がいい」
ああ、まあ、そりゃそうか。
吸血鬼だもんな。
吸血鬼ってことは、そりゃあもちろん、日の光には弱いわけだ。
それだけじゃなくて、大蒜も苦手で鏡に映らなくて流水も苦手で――流水も苦手? それは問題なのでは? あ、いや、湖の水は流れていないから大丈夫なのか。なら、それは問題ないとして……他に問題になりそうな弱点は……まあ、あまりなさそうか。
じゃあ逆に、なにか有効活用できそうな強みは――強み?
あれ?
そもそも吸血鬼っていうのは、不死身の怪異ではなかったか?
「なあ、葛霧……お前って吸血鬼なんだよな?」
「血までご馳走になって、違うとは言えへんな」
「じゃあお前……不死身なのか?」
「そりゃそうやん。不死身やし、不老やで。年老いやんし、殺されても死なん。そうでもなきゃ、さすがに龍に勝てるなんて言わんて」
「あ、そう……もうひとつおまけに訊きたいんだが――吸血鬼って、血を吸った人間を吸血鬼にするんだよな? ていうことは、僕ももう吸血鬼なのか? 太陽の光を浴びることはできないのか?」
そして、不死身になってしまったのか?
それは……それは、困る。
僕はこれから先に待ち受ける苦難に対して、最悪の場合『まあ、もう一度やり直せばいいか』という心づもりで挑む予定だったのだけど、不死身となると話は変わってくる――死ねないとなると、問題だ。それはイコールで、もう戻れないという意味になってしまうのだから。
そんな風に焦った僕だったけど、どうやらそれは杞憂というものだったらしい。
葛霧は何故だか頬を赤らめて、
「なに言うとんの?」
と、怒った。
「仲間増やすって、つまりは生殖行為やで? 初対面の男の子とそんなんするわけないやん。今のは食事。せやから、リンネが吸血鬼になることはない」
そんな当たり前の道理を説くような口調で怒られても、吸血鬼の常識なんてもちろんご存じないのだが、まあ、初心っぽい彼女が赤くなるのも頷ける理屈ではある。
吸血には『食事』と『生殖行為』の二種類の側面があり、今、彼女が僕に対して行ったのは食事の方だった――ということなのだろう。
「じゃあ、もうひとつ、もしかしたら無粋な質問になるかもしれないが……訊いてもいいか?」
「なんや質問が増えていくなぁ。ええよ、この際やし、なんでも訊いて」
「お前って、吸血鬼としては純正なのか? それとも、吸血鬼に血を吸われて……生殖行為されて、吸血鬼に成った方か?」
その質問に、葛霧は少し固まった。
純正の吸血鬼――そんなものがいるのかはわからないが、しかし、いないとおかしいという理論もある。どんな増え方をする怪異にせよ、最初の一匹だけは無から生まれているはずなのだから。
「……私の名前聞いてなんだの? 葛霧あにめやで? 純日本人。そんな名前の真祖がおるわけないやん。私は眷属の方。元人間。主人はもうおらんから、野良やけどな」
「野良? ――ていうか、お前、純日本人なんだ。金髪赤眼なのに?」
「これは吸血鬼化したからそうなっただけや。元々は黒髪黒目やった」
「ふぅん」
わかったようなわからないような話だが、まあ、大筋は理解した。
吸血鬼化したら、金髪赤眼になる――それも、ゲームなんかではありがちな設定だ。だから、割と受け入れやすい話でもある。
「元人間で、吸血されて吸血鬼化した、か……なんか、そこにもドラマがありそうだな」
「ないとは言えやんな」
「なら、その経験値には大いに期待させてもらうぜ」
「任せて!」
おや……?
わざわざ『経験値』に傍点ルビまで振ったのに、僕の皮肉に気づいた様子がない。やはりこの女、初心である。
「さすが、経験済みは度胸が違うな」
「ん?」
と、今度は『経験済み』とわざとらしく強調して言ってみたら、なにか疑問を抱いたように葛霧は首を捻った。
それから少しの間をおいて、首の根元から朱を上らせていった。
羞恥か、憤怒か。
「け、経験済みってそういう……ちゃうからな。吸血って言うてもそんなんとは違うし、そもそも、私を吸血鬼にした吸血鬼は女やったし!」
「女同士か……そりゃ、ひと粒で二度おいしいな」
「死ね!」
勢い『死ね』とまで言われてしまったが、関西人の口にする『死ね』ほど軽い言葉もないので、なにも響かなかった。ノーダメージだ。
「じゃ、そろそろ百目鬼に電話でもするか――しかし、これ……ループの度に、葛霧に血を飲ませて百目鬼を説得してってしなくちゃならないのか? 面倒だな――大体、なんでこの日のこの時間に戻ってくるんだよ」
「セーブしたからと違う?」
と。
スマートフォンを操作しながら愚痴をぐちぐちと言う僕に、葛霧はまだちょっと拗ねた様子で進言してきた。
「セーブ?」
「してたんやろ? 最初の夜――私と会うたあとに、セーブしてたやん。それが最新のセーブデータやったから、そっからロードされてるんと違う?」
「……ああ」
ああ、そうか……そうだったのか。
僕のただの癖である、悪い癖であるゲーム脳の、そこから生まれたセーブ癖――それがこのループ現象の始点だったのか……。
「つぅことは、僕のこの能力はデスループじゃなくて――『セーブ&ロード』だったってことか……」
「どっちでもええし、どうでもええけど」
いや、これは一歩前進だ。
全然どうでもよくない。
だってそれは……それはつまり、ループの始点は自分で決められるということなのだから。上手くいったところまでをセーブして、そこから先を何度でもリタイアマラソンできるということ――ならば、希望も見えてきた。
が。
しかし、である。
油断はやはりよくない。予断は許されない。
おそらくだが、セーブしてしまえばその前のセーブデータは上書き消去される。ループの始点が、同じくセーブした水無月診療所を出たあとではなく、その他のいつでもなく、葛霧と別れた瞬間だったのだから、それは決定的だ。
安直に、そして安易にセーブを繰り返して、取り返しのつかないことになったら大変だ。
セーブは慎重を期さなければならない。
「それでも……それでも、一歩前進だ」
わからないことばかりだった世界にも、ようやく解が打たれ始めた頃合いだ。
始まった三周目――世の中には三度目の正直なんて言葉もある。
今度こそ乗り越えさせてもらうぞ、人魚伝説。
なんて。
このときの僕は思っていた――まさしくそれが、油断だとも知らずに。




