014
そして、振り上げられた人魚の拳が僕の頭部を砕く――その直前に。
人魚の頭部が、刎ね飛んだ。
百目鬼に対して、というか、世界に対して、カッコよく『僕が必ず、お前のことを助けるから!』なんて啖呵を切った手前、もう恥ずかしいばかりなのだけど、しかし、いい加減このパターンにも慣れてきた頃合いで、僕は冷静に、窮地を脱した自分の現状を俯瞰していた。
人魚の首が刎ね飛んだ。
なんの前触れもなく――その現象に、僕はデジャブを覚える。
あれは……そう、一周目の夜。
最期の瞬間。
僕を殺した人魚も、今と同じように、スパッと――そんな音すらなく、綺麗に首を刎ねられて死んでいたのではなかったか。
何度もうるさいようだが、人魚の鱗は銃弾すら通さないほど硬質なものだ。
そんな人魚の鱗に覆われた首を一撃で刎ねることができる存在が、そうそう沢山いるとも思えない――必然、今、こうして目の前で人魚の首が飛んだ現象と、あの夜の現象はリンクして考えるべき事柄なはずである。
小難しい言い方をしたが、つまり、あの晩に僕を助けようとしてくれた誰かと、今、僕を助けてくれた誰かは同一人物と確定して間違いないということだ。
「今回は間に合ってくれたか」
呟いた声が誰かに届いたのか、僕は知らないし知りたくもないが。
僕を囲んでいた十数匹の人魚――その首が、次々と刎ね飛んでいった。ポンポンスポポーン、とばかりに。それはもう命の軽い光景で、地上波には乗せられない光景だったが、僕にはただの救世譚にしか見えなかったのは言うまでもなかろう。
そして、ドサドサドサ――と。
さっきからオノマトペばかりで申し訳ないのだが、まあ、そんな感じで首を失った人魚の身体が倒れていった。円形に並べたドミノを倒したときみたいな倒れ方だった。
そしてその奥から――奥というのは、湖を背にした僕の視線の方向にある小さな雑木林の木陰からという意味である――金色の髪を靡かせて、ひとりの少女が現れた。
赤いドレスを纏った――お伽噺から出てきたお姫様のような少女だった。
「リンネ……やんな? 一昨日の晩、会った」
「やあ、葛霧。まるで百年越しに会った気分だぜ」
葛霧――葛霧あにめ。
金髪赤眼の、関西弁少女。
向こうは僕のことを半分くらい忘れているようだったけど(まあ、一昨日に少しだけ言葉を交わしただけの関係だ。名前を覚えていただけでも素晴らしいと賞賛すべきなのかもしれない)僕の方は、彼女の名前をバッチリと覚えていた。
お互い、忘れられづらい名前だ。
水無月先生の捜索に追われてすっかりその存在を忘れてしまっていたけど――そう。彼女も、人魚伝説に一枚噛んでいる疑いがあり、そして人魚に対抗できる可能性を秘めた存在だった。
「こんなところでなにしちゃんの、リンネ」
「こっちのセリフだと言いたいところだけど――そういう面倒くさい腹の探り合いは後にしてくれ。緊急事態なんだ。『はい』か『いいえ』で答えてくれ! お前は、あの人魚とどのくらい戦える?」
「え? え? え?」
目をぐるぐると回す葛霧。
こいつ……呑み込みが悪い……。
「いや、ちゃうよ。こいつら倒したのも、私と違うし。リンネ、なんや勘違いしてない?」
胸の前でパタパタと手を振って否定の句を口にする金髪。嘘を吐くなら目を逸らすなと言ってやりたいところだけど、今、こいつにポーカーフェイスのいろはを教えている余裕は、ない。
「僕はもう既に友達ひとりが人間じゃなかったっていうショッキングな経験をしてんだ。お前の正体が吸血鬼で、人間じゃなかったとしても僕は気にしないから、さっさと答えろ――お前はあの人魚と戦えるのか?」
「きゅ、吸血鬼……っ⁉ なんでわかったん⁉ ――あ、いや、ちがっ……きゅ、吸血鬼とかじゃないけどね!」
「お前、それは本気で誤魔化せると思ってるのか? それとも時間を稼いでるのか? 時間稼いでるつもりならもう一度言うけど、今は緊急時だ――わけわからん言い訳はあとで聞くから答えてくれ。お前は、戦えるのか、戦えないのか、どっちなんだ!」
鬼気迫るというのは、今の僕みたいな様相を表現しているのだろう。
百目鬼でも吸血鬼でもない僕が一番鬼がかっているのはなんとも皮肉な話だが、今は皮肉も骨髄もあったものではない――ちんたらしていたら、また人魚に囲まれてしまう。
「う……なんなん? ――ああ、もう。そや。私が吸血鬼や。戦える。人魚とやったら戦える。そやけど、あの湖の人魚を一網打尽にするとか、そんなんを期待されてるならそれは無理。さすがに数が多すぎるし、まだ夜も浅いし……」
「なら……」
一度、湖の方を振り返る。
その水の中、深く、どこかに百目鬼がいる――おそらくもう死んでいるだろうが、まだ死んでいない可能性だってあることにはある。痛みと酸欠と孤独に耐えながら、獅子奮迅、僕の救助を待っている可能性もある。
でも、ごめん。
僕にお前は助けられない。
「……なら、逃げるしかない。葛霧。僕を抱えて走れるか?」
「なに? リンネ、自分で走れやんの? どこか怪我したん?」
「僕はあいつのおかげで五体満足だけど、お前に抱えて走ってもらった方が速い。お姫様抱っこで運んでくれ! お姫様のように!」
「……自分のこと、情けないとは思わんの?」
思わないのだった。
男が女を守るとか、助けるとか、そういう男性感みたいなものは、もうとっくにどこかに忘れてきた。長いものには巻かれる、強いものには縋る、立っている者は親でも使え――僕はこの人魚伝説を解決するために、恥も命も棄てるのだ。
なんてカッコつけてもカッコ良くないことは重々承知しているのだけど、でも、もう他に頼るアテがない。これが最大の努力で、最良の選択だ。
「早く! 人魚が来る!」
「……っ! ――しゃあないな。口閉じときや。舌嚙むで」
言って、葛霧は僕を要望通りお姫様抱っこで抱きかかえて、風のように駆け出した。
速い……速いなんてもんじゃない。
その速度に、僕は思わず、反射的に、本能的に葛霧に抱き着いたが――どうやらこの女、それなりに乳房があるらしい。この露出度のドレスで着瘦せすることなんてあるのか、と思ったが、そんなことを思っている場合でもないのでさすがに自粛した。
俯瞰して見てみると、ほとんど初対面の女の子に抱えてもらって逃げるなんて、まったく僕はなにをしているんだと嘆きたくもなるけど、状況に応じて、その場その場で対処していったらこうなったのだから、もう仕方ない。
前だけを見なければ……。
しばらくして(この場合の『しばらく』とは『少しの間』の意だ)、僕と葛霧は湖から離れ、公園に来ていた。
夜の公園。
僕と百目鬼がよくたむろしていた、あの公園だ。
「とりあえず、ここまで逃げたらひと安心やな」
「油断するな葛霧。人魚がいつどこから襲ってくるかわかったものじゃないんだ。常に警戒の糸を張っておけ。いざってときは、お前だけが頼りなんだ」
「やかましい。もうだんないから、私の胸から手ぇ放せ。このスケベ」
スケベ呼ばわりは心外だったが、しかし、僕が情けなくも稚児のように彼女の胸にしがみついていたのは事実だったので、その誹りは甘んじて受け入れて――そして、僕は彼女から離れた。
ブランコに乗ったあとの感覚というか、スーパーカーみたいな速度で走る人間にしがみついていたことの後遺症みたいなものとして、真っ直ぐ歩くことすらおぼつかず、ベンチまで歩くことすらできそうになかったので、僕は近場にあったブランコに腰を下ろす。
「まず――」
と、僕は切り出す。
向こうも向こうでなにか言いたそうにしていたが、口火を切るつもりはなさそうに見えたので、ここは気を遣った結果だ。
「――さっきは助けてくれてありがとう。お前は命の恩人だ」
「どういたしまして。そやけど、普通のことしただけやし、気にしやんでええよ」
「そうか……お前、いい奴だな」
「いやいや、悪い奴かもしれんよ――って、そっか、そんな意味深な言い方しやんでもええんか……吸血鬼かて知ってるんやもんね。なんでそのこと知ってるのか、訊いてもええ?」
「勘」
というのは、あまりに杜撰な説明ではあったが――しかし、突き詰めればそれがすべてだった。
勘……ただの山勘。
この町に流布しているという人魚伝説じゃない方の怪談、吸血鬼伝説。その正体が葛霧でした、という伏線回収なら面白いな、と思った。というか、吸血鬼伝説の話を聞いたときから、その正体は葛霧に違いないと思っていた。
それは別に、僕が凄いわけではない。
単純に、こんな田舎で――外国人はおろかハーフすらもひとりもいないであろうこんな田舎で、吸血鬼なんていう西洋の怪談が流行るなんてことがあるなら、その正体はこの西洋風の少女に措いて他にないという、まあ、そんな小学生でもできる推理、というか――だから、ただの山勘であり、今回はそれがたまたま当たったというだけの話である。
しかし、僕はどうもこうも数奇な運命の星の下にいるらしい。
人魚伝説と吸血鬼伝説。
この町で流行っている、流行り病のごとく流行っている怪談の、そのふたつ両方にこうして深くかかわることになるんて……。
噂をすれば影、ということだろうか。
怪異の話なんてするから、怪異が寄ってくるのだろうか。
影……。
当たり前のことだが、公園の水銀灯に照らされた葛霧の足下に影はない。
「葛霧、先に僕の目的から説明していいか?」
「ええも悪いもないけど……むしろええの? そういうんって、後出しにするのが駆け引きの基本って聞いてんけど」
「いや、むしろ僕に説明させてくれ。駆け引きとかする気分じゃないし、なにより、僕も現状を整理しきれてないんだ。状況把握のために、お前に僕の『目標』を明かしておきたい」
目標、目的。
そういうものを一切と言っていいほどに持たないでここまでやってきてしまった僕だ――そのせいで、百目鬼を失ってしまった。死なせてしまった。後悔は僕のキャラクターではないけど、しかし、反省しないというわけでもない。
僕にまず必要なのは、ゴールの設定だ。
まず、なにをもってこの一件を解決と定義するのか。
「僕の目的は……人魚の掃討だ」
「うん。それは私も同じ」
「あの怪物をこの町から駆逐する。あの人魚に『発生』条件があるなら、その原因も駆除する。つまり、根本的な問題の解決を目指している」
「それも同じ。なんや、気ぃ合うなぁ」
「ああ、そうかい。ちなみに葛霧、お前はどうやってあの人魚を駆逐するつもりだったんだ?」
「全員ぶっ飛ばす!」
「………」
「……なんや。ダメなん?」
僕は肩を竦めて答えた。
こいつ、やはりものをあまり深く考えないタイプだ。
そして同時に、人魚に対して『殺す』という言葉を遣わないタイプ――つまり、そういう風に認識していないのだろう。あの怪異は生き物ではないと思っているのか、思い込んでいるのか。
「人魚の巣窟は大沼湖だ。あそこには目視できただけで数百の人魚がいた。下手したら千を超える数の人魚がいるかもしれない――お前、そのすべてを駆逐できるのか?」
「深夜が近づけば、できやんこともないと思う」
「なら、それは信じるとして」
信じるとして、だ。
問題は依然残っている――あの湖の湖底に潜む巨大な影、蛇。仮称として、奴のことを『湖の主』と呼ぶことにしよう。その湖の主と人魚伝説が無関係とは思い難い。人魚伝説の解決には、湖の主の討伐も必須条件となる。
「なあ、葛霧――」
僕は葛霧になにかを言おうとした。
湖の主の討伐を依頼しようと思ったのだろうか。あるいは、ひとまず湖の主の特徴を伝えて、その正体の究明のために知恵を借りようと思ったのかもしれない。
なんにしろ、その言葉は掻き消された。
悲鳴によって。
「?」
「なんや⁉」
僕は勘違いしていた。
勘違いというか、間抜けな凡ミスというか――考えてもみれば当たり前のことを、思考から落としていた。
僕はブランコになんて腰掛けている場合じゃなかったのだ。
人魚が、平然と町を闊歩していた。
それはまあ、当然のことなのかもしれない。
だって、湖には数百の――下手したら千を超える人魚がいるのだ。そして人魚は、なんの殺気もなく、殺意もなく、まるでそれが生存本能かのように、人を殺す。
人魚は湖から町に繰り出して……そして。
そして、今、人々の家に闖入しては虐殺の限りを尽くしていた。そのことが悲鳴と建物が壊れるような物音からわかった。
「あんにゃろうども……っ!」
葛霧が血を滾らせる気配があった。
「待て、葛霧!」
「なに? 今、あんたに構うてる暇ないんやけど」
「どこに行くつもりだ?」
「襲われてる人のとこに行くんや。ほんで、皆を助ける。リンネは隠れとって。あんたを守る余裕はなさそうやから」
「もう遅いって――聞こえるだろ? もう皆、襲われたあとなんだ。普通の人間とあの人魚の戦力差じゃ、どうせ瞬殺だ。誰も助けられない。人魚の群れの中に突っ込んでいくことになるんだぞ。お前だってただじゃ済まない」
「それがなに? 『かもしない』は助けに行かん理由にはならん」
カッコいいことを言うじゃないか。
だが、非論理的だ。
「私はもう行く。もういっぺん言っとくけど、リンネは上手く隠れてや――死なんといてな」
「聞け!」
僕を無視して行こうとする葛霧を裂帛の気合いで呼び止める。
大きい音に身体を硬直させてしまうのは、吸血鬼とて同じでよかったぜ。
「聞いてくれ、葛霧。僕ならここからでも皆を助けることができる。あんまり気は進まないけど……方法があるんだ! でも、その方法は上手くいくかわからないし、何度も試せるかも不透明。できる限り万全を期して、万難を排して望みたいんだ」
「……なに言うとんの?」
「僕にはタイムリープ能力がある。死ぬことで時間を巻き戻せるんだ」
厳密には、それは一回経験しただけの事象で、それが本当に僕の能力なのか、甚だ怪しいところではあるが――しかし、こう言うしかない。そしてそう信じるしかない。
こうしている今も、町の皆が殺されている。
どうせ百目鬼のこともあった――やり直すつもりだったのだ。
「頭おかしなったん? そんなんできるわけないやん」
と。
ここは常識的に、そんな風に僕を突っぱねる葛霧。
いや、それはそうだ。
僕とて、ほとんどよく知らない、友達でもない奴にこんなことを話しても信じてもらえないことくらいわかっていた。わかっていたさ。でも、そうでもしないと話が前に進まない。なにも解決しない。百目鬼が死んだままになってしまう……。
どうすれば信じてもらえる?
どうすれば……どうすれば……。
「いやいや。そういう風に疑ってかかるものじゃないさ」
声が空から降ってきた。
僕でも葛霧でもない誰かの声だ。誰の声がどこから聞こえてきたのだろうか、と首を巡らせると、いた――彼は、ジャングルジムの上に悠々と座っていた。
「そして、『どうせ信じてもらえない』なんて悲観的な態度で説得を試みるものでもないよ、空木くん。少なくとも、僕は君の言葉を信じる――君は正真正銘、タイムトラベラーだ」
水無月弥一先生だった。




