011
夜になった。
夜とはつまり、日没後の意味。
時間が経ち、そして陽が落ちれば夜になるのは当たり前なのだが、当たり前のごとく当たり前なのだが、しかし、今日の夜を当たり前の心持ちで迎えることができるほど、僕の神経はカーボンファイバー製ではなかった。
夜が始まったということは、つまり。
つまり、だ。
戦いが始まるというわけである。
実際に戦うのは僕でもないのに、それでも緊張を感じてしまうのは、僕がまだ、あの命と命を懸けた、生々しいまでの暴力に慣れていないからなのだろう――慣れて、成れていないからなのだろう。
戦い、ですらない。
そんなカッコいいものじゃない。
暴力は暴力で、殺害は殺害だ。
そんな風に思いつつ、それを唯一の友達に強いている僕も、また、クズ野郎なのかもしれないが。
文句ひとつ垂れずに戦ってくれる百目鬼には頭が上がらない。
「うるさいようだけど、本当に家に帰らなくていいの? 戦うのは私なんだから、空木くんは家に籠っていてもいいんだよ?」
「そこまでやったら男だとか女だとかじゃなくて、人間じゃねぇよ。友達に血で血を洗う戦いを強いといて、自分は家に籠って寛いでるとか、どんな鬼畜だ。それこそ鬼じゃねぇか」
「別に私は気にしないけどね。寛いでもらっても。寛木くんになってもらっても、私はまったく気にしないよ――それに空木くんだって、妹ちゃんの顔を見て安心したい気持ちとか、ないでもないんでしょ?」
「ねぇよ。ない寄りのないだよ。妹の顔見て安心できるか。殴りたくなるわ」
「そこまで嫌っていると、それもまた一種のシスターコンプレックスなんじゃないかと疑いたくなるよね」
疑われるのも不愉快なほど、僕は折紙の存在を毛嫌いしている。文字通り、髪の毛一本すら気に食わないほどに。
何度も何度も、再三再四、うるさいくらいに、執拗なくらいに言っていることだが――僕は妹のことが嫌いだ。嫌悪している。蛇蝎のごとく。僕に措いてこの表現は適切ではないが、親の仇のごとく嫌っていると言ってもいい。
空木折紙。
僕と同じ苗字。同じ遺伝子――それは当たり前のことなのかもしれないし、折紙に非は一切ないのかもしれないけど、そのことすらも疎ましく思うほど、あいつは嫌いだ。なに僕と似た容姿してんだよ、と思う。そしてそれはたぶん、向こうも同じことを思っている。兄妹だから、考えることもお見通しだ。お見通しというか、まあ、似ているだけなのかもしれない。そこがまた憎い。
学年としてひとつしか年齢が違わない僕たちは、いやさか、今では思い出すだけでも吐き気がするような過去だが――昔は、空木兄妹といえばとても仲のいい兄妹として知られていた。
何処に行くにもなにをするにも、5W1Hなんでも一緒。
まるで互いが互いを補っている、半身同士の存在のようだった。
しかし、それがよかったとは思わないし、思いたくもない。僕だって、今の、妹といがみ合っている関係が健全だとは思わないが、以前のべったりな関係も、それはそれで健全だとは思えない。それくらい、僕と妹はべったりだった。
それこそ黒歴史だが。
本当に、僕らが情操の発達の遅い子供だったからギリギリ一線を越えなかっただけで、今でもあの頃の仲の良さを維持していたら、本当に一線を越えてしまうのではないかという――それくらいの関係だった。というか、キスくらいは日常的にしていた。僕が中学校に上がる前までは。
僕らの親は、両親ともに大学教授である。
それは以前語ったことかもしれないが、そして親がほとんど家に帰ってこない放任主義者であることも語ったかもしれないが――ただし、誤解を糺しておくと、僕らの両親は放任主義者などでは決してなく、それ以前に、それ以上にネグレクトをしていたのである。
さすがに赤子の頃は記憶はないが、しかし、記憶がない頃から、つまり物心ついた頃から、僕と折紙はふたりきりだった。
必然、僕は折紙の世話をするのが当たり前だと思っていたし、そんな兄を支えるのが、妹にとっても当たり前だった。幸いお金に困ったことはなかったけど、大人がいなくて困ったことは片手の数では数えきれない。
両親は一年以上家に帰ってこないこともあった。そんな頻度でしか会ってなかったから、僕は両親が家に帰ってくるたびに知らない人が入ってきたと思っていたものだ。折紙もよく泣いていた。
だから、僕たちの世界は僕たち同士で完結していた。
世界は、僕と折紙のふたりだけだった。
そういう話は、もしかしたらありふれているのかもしれない。ネグレクトの結果、兄妹が超えてはいけない一線を越えてしまうという話は、実は聞かないではない――いや、実際の話として聞いたことはないが、純文学などの世界ではそういう近親相姦がテーマとして扱われていることが非常に多い。だから、たぶんありえない話ではないのだろう。
だから、僕と折紙の関係がそういう風になるのが『ありえない』のは、僕のゲーム脳に由来する。
僕は世界を俯瞰するし、現実から逃避できない。
逃避できない僕は依存できないし、それは妹に関してもそうだ――僕はネグレクトされていた程度の理由では、妹に依存できない。
だから、僕が中学生に上がった頃、僕らは、僕からきっぱりと関係を終わらせた。
キスもやめたし一緒にお風呂に入るのもやめた。一緒に寝るのもやめた。
僕は僕なりに、それが常識的な行動だと思って行ったのだけど――実際それが常識的な行動なのだけど――しかし、こればっかりは僕の不手際だったと認めざるを得ない。事を急ぎすぎた。急いては事を仕損じすぎた。当時の僕をぶん殴ってやりたいとすら思う。
僕に唐突に突き放されることになった折紙は、だから、仕方なく僕を憎むことになった。
反転アンチってやつだ。
かわいさ余って憎さ百倍。
僕のことが大好きだった分だけ、折紙は僕のことが嫌いになった。
僕は折紙に対して、死んでほしいだのいない方がいいだのと、そんな言葉を軽々しく使うが、たぶん、折紙はそんなことは言わないだろう――本心を口にする人間なんてそういない。折紙にとって、僕への憎悪はそこまで軽いものじゃない。
後悔ばかりの人生だが、妹との関係についてはその最たるものだ。
僕らはもっとうまくやれた――僕がうまいことやれば、僕は妹に嫌われず、そして僕も妹を嫌う必要もなく、健全で普通な兄妹になれた。
だがそれは仕方のないことだ。
僕はあの時の最善を尽くした。当時は中学生だったのだ。冴えたやり方なんて思いつこうはずもなかった。後悔はあるが、後悔はしない。やり直しは利かないし、やり直したいとも思わない。
もしも折紙と仲良くやれている世界線があったとしても、僕はこの道を選ぶ。
妹のことは嫌いだ。
「――空木くん。聞いてる?」
百目鬼の言葉にはっと我に返る。
思考が逸れてしまっていた。今は妹ごとき下等生物のことを考えている場合ではない。人魚の脅威が、夜の闇が、もうそこまで迫ってきているのだ。
「すまん。思考が少しストリップしてた」
「ストリップ?」
「間違えた。スリップだ」
「最低な間違えだね……」
百目鬼にはとっぷり呆れられてしまったが、そんな表情ももしかしたら見納めかもしれないと思うと、素直に喜ぶことができなかった。
いや、これだとまるで友達の呆れ顔に喜んでいるヘンタイみたいじゃないか。
その通りだから反論のしづらいところではあるけど、しかし、そう、見納めかもしれないのだ。
考えておかなければならないことがある。
百目鬼がこの作戦で命を落とし、かつ作戦が上手くいき、人魚を掃討できてしまったとき、僕はループするべきか否か。
この思考には、僕がそもそもループできるのか、という前提も入ってくる。
つまり、中くらいの成功を手に入れたとき、できるかもわからないループにかけて自殺を決意すべきか否か。
直感的には自殺するのだけど、でも自殺は怖い。
ループできるかの確証だってないんだ。
これは非常に悩ましい問題である。
だから。
「百目鬼」
夜の町に繰り出そうとする彼女を、僕は呼び止める。
ちなみに、場所は鉄塔の上だ。この町で一番背の高い建物である。
僕はここから、スマートフォンのズーム機能を使って、百目鬼の八面六臂の大活躍を眺めていたいと思う。
「ん?」
百目鬼が振り返る。
僕は彼女に向かって、言うべきことを言う。
「死ぬなよ」
お前が死んだら、僕は悩まなければならなくなる。
自殺するか、しないかの狭間で板挟みにあうことになる。
だから、死ぬなよ。
そんな、どこまでも自分勝手な僕のセリフに対して、百目鬼はなにを勘違いしたのか、微笑んで、
「ありがと」
と言った。
そして、鉄塔の上から飛び降りて、夜の町に飛び出していった。
そこからの百目鬼の獅子奮迅の活躍を詳細に描写するのは面倒なので割愛するが――まあ、一方的なものだった。
プラン通り、交番を襲おうとしていた人魚に不意討ちを食らわせ、僕の家に近くに出没した人魚二匹もあっさりと片付けた。それはもうあっさりとしたものだった。ここまで簡単だと肩透かしを食らってしまう思いだったけど、それくらい上手くいっていた。計画を練りすぎて不測の事態に陥ることを憂慮していた僕だったが、不測の事態といえば、計画が順調すぎたことくらいなものだった。
「あのさ、百目鬼。命懸けで戦ってくれた友達にこんなことを言うのも気が引けるばかりなんだが……僕が『死ぬなよ』とか言ってカッコよく送り出したんだから、もうちょっと苦戦して戦ってこいよ。なんで普通に瞬殺して帰ってきてんだよ。十分で、無傷で帰ってくるなよ」
そして町に現れた人魚を掃討して、鉄塔の頂上に帰還した百目鬼を、僕はそんな風に叱りつけた。
カッコつけて送り出したのに、普通に圧勝して帰ってくるな。
お前はどれだけ僕に恥をかかせれば気が済むんだ。
「仕方ないじゃん。鬼からすれば、陸に上がった人魚なんて雑魚だよ。文字通り。不意さえ討たれなければ、負けることはないって言ったじゃん」
「むしろこうなると、なんで不意討ちごときで負けたんだってなるんだがな……」
「それは鬼の悲しいところだよね。鬼っていうのは大抵怪力自慢の怪異だけど、硬さ的には大したことないんだよ。岩鬼とかでもない限り。普通に、人間の農民に鉈で切られて半分になっちゃったりする怪異だからさ」
「攻撃特化で、防御は弱いってことか……ゲーム的には理解できるけど、現実的な思考をしようとすると、矛盾しているように感じるんだよな」
百目鬼の細腕を見ても思うが、やはり、怪異というのは理屈じゃないらしい。
それだけの怪力があれば、つまり筋力があれば、防御力も必然高そうなものだけど、そういう当たり前が通用するとは思わない方がいいのだ。
「うん……もう、町には人魚はいないね」
「わかるのか?」
「感覚も普通の人間よりは鋭いから。下水とかに潜まれてたらわからないけど、少なくとも、こうして見える範囲にはもう人魚はいない。確約できる」
確約されても、それを信じる根拠がないのだけど、まあ、ここは信じるしかないのだろう。
本当に大丈夫か? 本当か? もっとよく、目を皿のようにして確認してくれ――とは、さすがに言い難い。
「つぅか、てことは、あの晩、ループする前の一回目の夜、僕は町に三匹しかいない人魚の、その三匹すべてと遭遇してたってことなのか……」
どんだけアンラッキーなんだよ。
前世で人でも殺したのか、僕は……。
いや、違う――違う。
ただの不運ではなく、必然なのかもしれない。
もしかしたら、すべての人魚に僕が遭遇したのは、人魚が僕を探していたからなのかもしれない。人魚は僕を狙っているのかもしれないし、それは僕のループ能力に関係があるのかもしれない――『かもしれない』に『かもしれない』を重ねたような推理だが……。
とにかく、僕は一回目の夜に三匹しかいない人魚のすべてに遭遇していた、という事実は、心に書き留めておいた方がいいだろう。
「で、どうする? 今日のところは作戦終了? 帰る? なら空木くん、一応、家まで送ってあげるけど」
「ああ……………………あ?」
あれ?
なにかおかしいぞ。
「どうしたの? 空木くん」
百目鬼が心配そうに僕の顔を覗き込む。
覗き込んだのは、そうしなければ互いの顔を認識できないほどに、夜は暗かったからだ――そうだ、今晩は月の翳った夜なのだった。
「………」
「……空木くん?」
「百目鬼……お前、今晩人魚が町に出没すること、僕に聞くまで知らなかったんだよな?」
「もちろん――あ、それに関しても謎が残るね。結局、こうして人魚が言った通りの場所に言った通り現れた以上、空木くんのループ能力は本物だって証明されてしまったわけだし」
「いや、うん……それもそうだな」
しかし、今、僕が疑問に思っているのはそんなことではなく。
百目鬼は人魚が出没することを知らなかった――人魚と相対するまでは。それはあの晩だって同じだったはずだ。
「なあ、お前……どうして、僕を家まで送ってくれるなんて言ったんだ?」
「え? それは、人魚がこれ以上出ないとも限らないし」
「じゃなくて」
もどかしい気持ちで、悶える。なにか予感が背筋を這い廻って、違和感がある。
こういうときに痒くなるのは、背中ではなく胸だと思っていた。
「――ループする前の晩、人魚と出会う前、どうしてお前は僕を家に送ってくれていたんだ? 『夜は危ないからね』――なんて、意味深に言ってたのは、どうしてなんだ?」
「私、そんなこと言ってたの?」
「答えてくれ。お前は町に流布する人魚伝説のことを知っていても、人魚が夜に活動することなんて知らなかったはずだ」
「私はその『私』じゃないから、正確はことは言えないけど――たぶん、もうひとつの怪談の方を気にしてたんじゃないかな?」
もうひとつの……怪談?
「人魚伝説ではない……?」
「人魚伝説と同時に、この町にはもうひとつ怪談がはやっているんだよ。流行り病のごとくはやっているんだよ。なんだ、空木くん、人魚伝説のことは知ってたのに、そのことは知らなかったの?」
いや、人魚伝説のこともお前から聞いたんだ。
という言葉は、この場合、的を外しているから口にはしなかった。
そう。
話の中核はそこではない。
「そのもうひとつの怪談って、なんだ?」
いや、それも――ミッシングリンクというか、ともすれば、やっぱり聞くまでもなく推理できるものだったのかもしれないけれど、ここでも僕は、やっぱり我慢できずに聞いてしまった。これでは、推理小説を解答編から読むような阿呆のことを一生馬鹿にはできまい。
はたして、百目鬼は告げた。
その、人魚伝説ではない、もうひとつの方の怪談を。
「吸血鬼伝説」
なるほど。
それはたしかに、夜を警戒しなければならない。




